「糠助おじさん!」

隙間風の吹き込む、立てつけの悪い戸を開ける。

室内は、夜の薄闇が未だ蔓延って薄暗く、刹那暗んだ。
目が馴染むと、糠助が見える。

一睡もしなかったのだろう。
疲れ切った様に項垂れ、上がりかまちに腰掛けていた初老の丸い顔が、緩慢な動作で上げられる。

「…信乃さま。
 気が付かれた様でなによりです」

そう言って微笑んだ皺の多い眼元に、水分が盛り上がった。
滂沱のごとく涙が、日に焼けた頬を伝う。

「すみません、信乃さま。
 わしの所為で、与四朗だけでなく、番作さままで…」

泣きながら、糠助は土間に膝をついた。

「信乃さまを、お一人にしてしまった…」

両手と額も地面に押し付け、嗚咽混じりに謝罪を繰り返す。
絞り出すように、何度も。

伏した糠助を見下ろしながら、信乃は一度だけ拳を握り締めた。

糠助に会ったら、どうするか。
村を駆けながら、道々考えていたことだ。

糠助が与四朗を、大塚の家へ連れて行った。
それが、今回の騒動の発端である。
しかし、そもそもの火種は何年も前から、糠助とは関係の無いところで燻ってもいた。

番作が死んだのは、糠助のせいではない。
けれど、糠助に怒りが向かうのを止められない。
殴ってやろうか、とも思った。
思っていたのに、当の糠助を目の前にすると、怒りがしぼんでいくのが分かる。

「顔を上げて下さい、糠助おじさん」

番作との、最後の会話を思い出す。
恨んではいけないと、父は言ったのだ。
巻き込まれただけの人間に、怒りをぶつけるなど、ただの八つ当たりでしかない。

そして、糠助もまた、父の死を嘆いている。
敵だらけの村で、それは、稀有なことだ。

「父上が死んだのは、父上がそう決めたからです。
 おじさんの所為じゃない。
 与四朗のことだって、仕方のないことだって思っています。
 おじさんは脅されていたんでしょう?」

信乃は、拳を解いて糠助の傍にしゃがみ込む。
視線が合うように高さを合わせ、諭すように言う。

「私はただ、探しに来ただけです。
 父上が腹を切ってまで守り、私に託した村雨丸を。
 伯父上も伯母上も、きっと村雨丸の行方を知らない。
 だったら、誰かがあの騒ぎに乗じてどこかに隠してくれたんじゃないか。
 そう考えました。
 きっとそれはおじさんだとも、思っているんです」

糠助は、ゆっくりと顔を上げる。
目は血ばしり、縁が赤くはれていた。

「私たち親子のために、村を、大塚の家を裏切ってはくれませんか」

信乃の問いに、はくりと、糠助の乾ききった唇が動く。
声は無い。
何度も、何度も口を開いては閉じる。

それは、逡巡以外の何物でもない。
村雨丸を亀篠夫婦に差しだせば、糠助の村での立場は安泰だ。
重い年貢に苦しめられることも無くなるだろう。

「村雨丸は信乃さまの家のかまどの脇にある藁の中に…」

それでも、糠助は口を開いた。
番作親子への親愛の情からか、罪悪感からか。
信乃には、その理由は分からない。
けれど、事実と言葉の重さは分かった。

聞くが早いか、信乃は立ち上がる。

「ありがとう、糠助おじさん」