昇る朝日に、里山が目を覚ました。
最初に木々が。
次に鳥が、獣が、ざわめきを始めていた。

夜明けの音に混じり、ざく、ざくと音がする。
それは、地面を掘り返す音だった。

白い手に握られた鍬が、何度も何度も地面を掘り返す。
村のどこかで、鶏が鳴いている。
段々と強くなる日差しの中、花すらさかない梅の木の老木の根元に、最後のひと振りを突き立てた。

腰を伸ばし、一息を吐く。
そうして、家の中から引きずるように、大きく膨らんだ藁布を持ちだした。
端から見える尾は項垂れ、動くことは無い。
ただ、重い骸に変わった愛犬を、信乃は運んだ。

荒縄が、手の平に食い込む。
それは、信乃が殺した命の重さだ。
噛みしめながら、信乃は進む。

その重さが、不意に軽くなった。

驚いて振り向けば、額蔵がもう一本の荒縄を掴み、持ち上げていた。

「なんで、ここに居るんだよ」

額蔵は、何も言わない。
二人は与四朗を穴の中に降ろし、黙ったまま土を掛けた。

ゆっくりと、与四朗が隠れていく。

生まれた時から、信乃の傍らに居た犬は居なくなった。
父も、死んだ。
信乃は、一人で生きていかなくてはならないのだ。

「ゆっくり休め…」

少しだけ湿った声の中で、与四朗は完全に姿を消した。

涙は、出ない。
泣かないと、決めた。

信乃は、隣でもくもくと土を掛ける額蔵を窺った。

ぐいと、泥に汚れた腕が顔を拭う。
泥が水分を吸い、黒い線が目じりから頬にかけての皮膚に残る。

額蔵が、どうして犬塚家を訪れたのかは、分からない。
浜路の言いつけかもしれないし、亀篠の差し金かもしれない。
けれど、今この瞬間に一人でない事に、救われていることも事実だった。

「…ありがとう」

言葉は、意識もしないままに零れ落ちた。

額蔵が、驚いたように信乃を見る。
信乃は、額蔵を真っ直ぐに見返した。

「なんだよ、その顔は。
 手伝ってくれたから、お礼を言ったまでだ。
 それに、あの晩。
 大塚の家から与四朗を助けてくれただろ?
 ここに居るのは、伯母上の差し金だろうけれど、今はそれでいいよ」

そこまで言うと、額蔵から視線を外し、信乃は与四朗の埋葬を再開する。

「確かに、亀篠さまの指示はありました。
 でも、おれはおれの意志で、今ここに居ます」
「ふぅん」

梅の木の幹を削り、露出した木肌に菩提を彫り込もうとして、邪魔に感じた袖を捲りあげる。
晒された二の腕に、額蔵が息を詰めたのが分かった。

「信乃さん、それは…!」

言われて、額蔵の視線の先を見る。
ちょうど、あの与四朗の首から飛び出した珠が当たった場所に、痣があった。
大きな赤い痣は、白い皮膚の上で存在を主張する。
それは牡丹の花の様な、形をしていた。

「見て下さい」

慌てた様子で、額蔵は信乃に背を向けもろ肌脱ぎになる。
その突然の行動に、信乃は面食らった。

しかし、その驚きも、続く驚きには簡単に負けてしまう。

「こんな場所だから、自分では見えないんです。
 でも、似ていませんか?」

晒された額蔵の背中にも、痣があった。
信乃の二の腕の痣とよく似た、赤い牡丹の痣があったのだ。

ふわりと光が視界を過る。
信乃の懐からあの珠が飛び出し、中空で輝いていた。
同時に、額蔵の首に掛かっていた守り袋からも、光る珠が飛び出した。

二つの珠は、朝日よりも強く輝きながら空を舞う。
再会を喜び、戯れるように、カラカラと音をたてながら。

信乃は、驚いたままの表情で額蔵を見る。
額蔵も、目を見開いて信乃を見た。

中空を舞っていた珠は、光を弱めつつ、ゆっくりとそれぞれの手の内に戻って行く。

ふわりと最後に一つ瞬いて、孝の珠は信乃の手に落ちる。
額蔵の珠も、同様だった。
首に下げた守り袋に戻しながら、額蔵は言う。

「これは、おれが生まれた時に、胞衣を埋めようとした敷居の下から出てきたそうです。
 『義』の文字が浮いていて、なんだか縁起もいい。
 以来、こうして守り袋に入れて身につけています」
「それは、大塚の家の敷居から…?」

信乃の問いに、額蔵は寂しそうな微笑みを浮かべて首を横に振る。

「いいえ、おれは元々この村の出ではないんです。
 家は、もうありません。
 おれが七つの時に、断絶しました」

断絶。
その言葉に、信乃は再び目を見開く。

農民の家が潰えても、そんな言葉は使わない。
つまりは。

「それじゃあ、君は武士の子なのか…?」

今度は、額蔵の首は縦に振られた。
背筋を伸ばし、額蔵は真剣な顔をする。

「名乗り遅れました。
 おれは、伊豆北条の荘官、犬川衛二則任の一人息子。
 幼名を荘之助と申します」

頭を下げながら床に付いた拳をまた、膝に戻し、姿勢を正す。
退屈でしょうが、聞いていただけますかと前置きをした後、額蔵は話しだす。
伊豆の犬川の最後を。

「まだ私が生まれる前のことだそうです。
 鎌倉公方の足利成氏さまと関東管領上杉さまが争われたのは、ご存じと思います。
 その後、新しい関東公方として派遣された前将軍の末の御子が京から参られました。
 けれど、古河様の抵抗を受け、伊豆に留まり、堀越公方を名乗られたのです。
 その御方は、民衆を苦しめた。
 見かねた父はそれを御諫めして御所の怒りを買い、私が七つの時に自害しました。
 国を追われた私と母は、安房を目指して旅をしました。
 安房の里見家の家臣、蜑崎十郎輝武様を訪ねることにしたのです」
「それが、どうして大塚の使用人なんか…」

額蔵は、幼少の頃から大塚家に仕えている。
浜路のお目付け役で、亀篠の手先。
信乃は、それしか知らない。

額蔵は、押さえた声で続けた。

「忘れもしません。
 あれは、雪の降る寒い夜でした。
 長い旅路のなかで、この村に差しかかった時、母が倒れました。
 母は元々身体が弱く、旅の上での疲労が溜まって居たのでしょう。
 心の蔵を押さえて、冷たい雪の上に伏してしまったのです。
 おれはすぐ近くにあった大塚の家に助けを求めました。
 けれど、門扉は閉ざされたまま。
 どんどん冷たくなっていく母の傍で、おれは泣くことしか出来ませんでした」

押さえられた感情は、怒り。
それは大塚の伯父伯母に向けられたものか、弱かった自分に向けられたものか。

信乃の視線を見返し、額蔵は微笑む。
自嘲を刷いた顔には、どんな言葉も無意味に思えた。

「雪は、明け方になって止みました。
 外聞を憚ったのでしょう。
 その朝早く、蟇六さまの命令で、母は捨てるように埋められました。
 大塚の家に引き取られたおれは、名前を奪われ、額蔵になりました。
 縁もゆかりも無いおれを、引き取ってくれたことは感謝しています。
 けれど、母を見殺しにしたあの二人を、慕うことは出来ませんでした。
 それでも、おれは一人では生きて行けないから、こうして大塚の家で働いているんです」
「そんなことが…」

信乃は呟く。

「君は、強いな」
「いいえ、おれはには他に方法がなかっただけです。
 それに、おれはやらなければことがあったから。
 犬川家を再興する、それを果たすために、おれは生きると決めたんです」

だから、と額蔵は、緑茂る梅の木へと手を伸ばした。
木の葉を揺らしながら枝を探ると、古びた布に包まれた長物が姿を現す。
布に巻かれた紐が、額蔵の手で紛れも解かれる。
現れたのは紛れも無く、源家の宝刀。
村雨丸だった。

「だから、亀篠さまにこの刀は渡せなかった。
 これは、信乃さんの生きる理由になる」

差し出された村雨丸を、受け取る。
刀は、ズシリと重い。

「生きて下さい。
 あなたにもやらなければいけない事があるはずです。
 寂しいなら、これからは、おれが信乃さんの家族になりますよ。
 与四朗や番作さまのようにはいかなくても、何時だって、信乃さんを守ります」

差し出された手は、仕事に荒れた、厚い皮膚を持つ手だった。
しかし、良く見ると手の平には剣だこがあった。
信乃と同様、密かに修練を積んでいる手だ。

「急にこんなことを言うなんて、驚いたでしょう?
 でも、言わなければいけないと思ったんです。
 同じ痣に、文字は違えど同じ珠なんて、きっと前の世でなにか強い繋がりがあったんだ」

掴んだ手は、乾いて温かい。

「生きましょう、一緒に」

額蔵が笑う。
眉が下がる、気弱にさえ見える笑み。
その笑い方を初めて、優しい笑い方だと思った。