戸板を開けると、より強く、つんと、血の臭いが香る。
鉄錆と、塩水を混ぜ合わせたような臭い。
朝の空気の中でさえ淀む、生臭さと金属臭に、信乃の眉根が寄る。
不快だから、と言うよりも、悲しいから。
父と与四朗から零れ落ちた命の臭気。
この臭いを不快なものだとと思う自分が悲しい。
早くと急く心と裏腹、身体が怯んでしまう。
(早く、村雨丸を見つけなければ)
意を決し、一歩家の中へ踏み込と地面がぬめる。
土間が水分を吸っている。
水気が何であるかは考えないようにした。
目指すのは、かまどの横の藁の山。
与四朗が寝床に使っていた場所だ。
犬の体の形に沿って窪んでいたはずのその場所は、今はかき回されたために嵩を増している。
手を突っ込んで、中を探る。
そして、どこにも固い感触が無いことに焦った。
「探し物はこれですか?」
カタンと、木戸の開く音がして、戸口に人影が現れた。
短い髪を項で束ね、粗末な着物を着た若い男。
大塚家の使用人、額蔵だった。
その手の中に在るのは、長物。
見間違うことなどない。
源家の宝刀、村雨丸だった。
「主家の刀は、そんなに大切ですか。
ずっと共に育った愛犬よりも?」
信乃は足に力を込める。
「…お前に、何が分かる」
頭の毛が逆立つ感覚。
ぎりりと、噛みしめた奥歯が鳴る。
脳内で熱がぐるぐると回り、巡る。
「その御刀は、父上が命がけで守ったものだ!」
怒りに任せて飛びかかった信乃を、額蔵がひらりとかわす。
信乃は、地面に倒れ込んだ。
顔が砂に擦れ、熱さを感じる。
見下ろす額蔵を睨みつけたまま、信乃は目の前の薪の山に手を伸ばす。
膝や肘が、ジンジンと鼓動する。
どうやら擦りむいたらしいが、構っている気はない。
探っていた手の平が、手ごろな太さと長さの一本を掴む。
「返せ、下郎。
お前の様な大塚の使用人風情が、汚い手で触れていい物では無い!」
裂帛の気合の様な怒号。
叫びながら、信乃は額蔵に打ち掛かった。
体勢は、いいとは言えなかった。
それでも武術の心得のない下男風情には十分な速さで、薪を振り下ろす。
村雨丸を手放すように仕向ければいい。
狙ったのは、刀を持った右腕。
小手だった。
決まれば、額蔵が村雨丸を取り落とすことは確実だ。
けれど、信乃の一撃は、止められた。
額蔵が咄嗟に翻した、村雨丸の鞘によって。
ギリギリと音がしそうな力で、二人は組み合う。
打ちおろした信乃と、逆手に握った鞘で防いだ額蔵の力は、五分五分の均衡を守っていた。
「…言いたいこと言ってくれますね」
額蔵の静かな声がする。
信乃を見返す瞳に、怒気が燃えた。
「おれだって…武士の出だ!」
声と共に、信乃ははね飛ばされた。
完全なる力負けだった。
悔しさは、ある。
けれどそれ以上に、額蔵の言葉に驚いていた。
基本姿勢こそ立て直したもの、木切れを構えたまま動かない信乃に、額蔵は続ける。
「私たちが生まれる前のことです。
結城合戦と呼ばれる戦がありました。
鎌倉公方の足利成氏さまと関東管領上杉さまが争われたのは、ご存じでしょう。
その戦です。
戦が終わり、新しい関東公方として派遣された前将軍の末の御子が京から参られました。
けれど、古河様の抵抗を受け、伊豆に留まり、堀越公方を名乗られたのです。
その御方は、民衆を苦しめた。
見かねた伊豆北条の荘官はそれを御諫めしたけれど、それが御所の怒りを買うことになってしまった。
荘官は自害に追い込まれ、家は途絶えた」
村雨丸が、ゆっくりと胸の高さまで持ちあがる。
「おれは、その荘官の一人息子。
大塚村で名を奪われるまでの名は、荘之助。
これ以上愚弄するならば、おれだって」
切っ先は信乃に向かい、ピタリと止まる。
真剣である、村雨丸は重い。
刃が金属なら、鍔も拵えも全て金属だ。
支えるためには、腕力が要る。
普段から、鍛えている証拠だった。
(戦うなら、袖が重いな)
浜路の着物は上等で、その分いつもの着物よりも重さを感じる。
袖を肩口まで捲り上げると、今度は額蔵が息をのんだ。
「信乃さん、それは…!」
信乃は額蔵の視線の先を見る。
ちょうど、あの与四朗の首から飛び出した珠が当たった場所に、痣があった。
大きな赤い痣は、白い皮膚の上で存在を主張する。
それは牡丹の花の様な、形をしていた。
「見て下さい」
慌てた様子で、村雨丸を上がりかまちに置いて、額蔵は信乃に背を向けた。
そうして、袖から右手を抜いてもろ肌脱ぎになる。
突然の行動に、信乃は面食らった。
しかし、その驚きも、続く驚きには簡単に負けてしまう。
「こんな場所だから、自分では見えないんです。
でも、似ていませんか?」
晒された額蔵の背中にも、痣があった。
信乃の二の腕の痣とよく似た、赤い牡丹の痣があったのだ。
ふわりと光が視界を過る。
信乃の懐からあの珠が飛び出し、中空で輝いていた。
同時に、額蔵の首に掛かっていた守り袋からも、光る珠が飛び出した。
二つの珠は、朝日よりも強く輝きながら空を舞う。
再会を喜び、戯れるように、カラカラと音をたてながら。
信乃は、驚いたままの表情で額蔵を見る。
額蔵も、目を見開いて信乃を見た。
中空を舞っていた珠は、光を弱めつつ、ゆっくりとそれぞれの手の内に戻って行く。
ふわりと最後に一つ瞬いて、孝の珠は信乃の手に落ちる。
額蔵の珠も、同様だった。
首に下げた守り袋に戻しながら、額蔵は呟いた。
「同じ牡丹の痣に、良く似た珠。
なんだか、不思議ですね…」
「ああ」
信乃も間の抜けた声で答えるしかない。
「何か私たちの知らないところで、深い縁があるのかもしれない」
遠くで、女の声が聞こえた気がした。