「だから、言っているじゃないさ。
 こんなあばら家引き払って、信乃と二人で大塚の家に入ればいいじゃないか。
 そうすれば、こんな侘しい暮らしをする必要も無いよ」

家に近付くにつれ、はっきりと聞こえるようになった話の内容に、信乃は表情を険しくした。

どろりと粘りつくような、不快な甘え声は、父の姉で浜路の義母である亀篠のものだった。
声が聞こえた時点で、来訪の理由は察していたものの、いざ耳にすると不快感が増す。

知らず、速度を上げた足は、すぐに家の戸の代わりであるむしろの内へと滑り込んだ。

薄暗い室内に、一瞬目が眩む。
しかし、目はすぐにその機能を取り戻し、対峙する二つの人影を映しだした。

プンと香る白粉の匂いに、どうしようもなく心が煮える。

「…その対価に、村雨丸を渡せ、ですか」

内心の温度に反比例するように、冷淡な声が漏れ出る。

「ただいま帰りました、父上」

驚いたように振り向いた伯母の横をするりと抜けて、信乃は板の間に座する父の隣に並んだ。
女を睨み上げる眼光は鋭い。

「伯母上、何度いらっしゃっても返事は、同じです。
 もう何度もお聞きになったでしょう?」
「けれどねぇ、そうは言うけれど、信乃良く考えてもいなさいな。
 そんなボロ刀を後生大事に守って、何になるって言うんだい?」
「村雨丸は、父が大塚の正当な世継ぎである証。
 そして、大塚が代々仕えた、公方様の御家に伝わる由緒正しき刀です。
 それを手に入れ、管領上杉家へ寝返ろうと言う輩に、どうして渡せましょうか?」
「…この、知れ者!!」

薄暗い夕暮れの室内でも分かるほどに、亀篠の顔が赤く染まる。
激昂し、振り上げられた右手は、信乃の頬を目がけて振り下ろされた。

信乃と、亀篠の視線が交錯する。
殴られることが分かっても、信乃は視線を逸らさなかった。

ぱしりと、肌と肌がぶつかる音がする。

「姉上、おやめ下さい」

亀篠の振り下ろした手を、番作の手が掴んでいた。

「信乃の口が過ぎた件に関しては、お詫び申し上げます。
 しかし、私たちが村雨丸を手放す気がないと言うことは、何度言われても同じこと。
 早晩、我が家も侘しいながら夕餉の時刻。
 腹が減っては、信乃がまた不快な言葉を述べることもありましょう。
 ここは、お引き取り願えますか?」

同意するかのように、いつの間にか、かまどの傍に座していた与四朗が、一声吠える。
大きな一声は、火の無い犬塚家の空気を震わせた。

振り返り、与四朗を睨み、再び向き直った亀篠は、番作を鋭い目で睨み付ける。

そうして、鯉のように口をはくはくと何度か開け閉めをした後、もういいと捨て台詞を吐いて、足音も荒く帰って行った。

親子は、板の間に座したまま、肩を怒らせて去って行く亀篠の背中を見送った。
犬塚家に、静寂が帰って来る。

「信乃…」
「分かっております。
 申し訳ございません、父上。
 少々言葉が過ぎました。
 けれど、村雨丸を手土産に、伯母上が管領上杉家に寝返ろうとしているのも事実。
 村雨丸を持つ父上が、大塚の正当な後継者であることも事実。
 それで激昂するとは、図星を指されて言葉を無くしたからでしょう」

窘めるように呼ばれても、信乃はしれっと表情一つ変えなかった。

「明かり、点けますね」

薄闇に、火打ち石を打つ火花が散る。
少しの油が引かれただけの油皿から伸びる灯芯に、ほんのりとした焔が灯った。
ばさりと、再びむしろの上がる音がして、風が起きた。
小さな風にも、焔が揺らぐ。

「御免くださいよ。
 いやぁ、信乃さまは今日も元気でいらっしゃいますな」

亀篠と入れ替わるように、丸い顔いっぱいの笑顔が、戸口から現れた。
点けたばかりの明りに浮かび上がったずんぐりと丸い、粗末な服を着た、初老の男。
犬塚家唯一の隣人、漁師の糠助だった。

「糠助おじさん!
 …やっぱり、今のも聞こえていましたか?」
「お互いに壁は薄いわ、隙間風は吹くわの家ですからね、聞こえもしますよ。
 しかし、今日はまた派手でしたなぁ。
 亀篠さまをやり込めた時には、胸がすっとしましたけれどね。
 これだけ肝っ玉が座っていたら、そんじょ其処らの武士なんか目じゃないですよ」
「糠助どの」

糠助の軽口を、番作が窘めた。

ぺしりと広くなった額を叩き、糠助はおどける。

「おおっと、あんまり褒めたらわしまで怒られてしまうわな。
 それより、これ、おすそわけです」

そう言って、背後に隠すように持っていた竹で作られた魚籠を取りだした。
中に入っていたのは、魚だった。

魚籠の中の魚は、目も黒く、ビチビチと跳ね続けている。
生きることを、諦めてはいない魚は、取れたてだった。

「うわぁ、こんなにたくさん。
 貰っていいんですか?」

顔を輝かせて喜ぶ信乃に、与四朗が寄って行く。
ふんふんと竹で編まれた籠のにおいを嗅いで、太い尾を振った。

糠助は、元々大塚村の出では無い。
武州大塚村の南に位置する、大洋に迫出た半島出身であると言う。
貧しさから土地を捨て、流れに流れ、この村に根付いたらしい。

そのため、村の中に畑を持てず、里山を流れる川で魚を獲り、日々の生計を立てているのだ。

糠助は、顔中で笑う。

「ええ、今日はたくさん獲れましたから。
 お夕食にでも食べてください」
「ありがとうございます。
 父上、さっそく、夕餉をこしらえますね!」

パタパタと突っ掛けた草履を鳴らしながら、信乃は井戸へ駆けて行く。

魚は、久方振りである。
僅かな米を顔が映るほどに薄めた粥と、猫の額程の庭で出来る野菜が、犬塚家の背一杯だ。
信乃の喜びも分かる。

「いつも済まぬな、糠助どの」
「いいんですよ、好きで持ってきているんですから」

娘の様子に苦笑を浮かべながらの番作の礼に、糠助は心許無くなった頭髪を撫でた。

「…なんだか、信乃さまを見ていると、手放した息子を思い出すんですよ。
 女子の信乃さまには、大変失礼とは思いますがね」
「いや、その様に思ってもらえるなら、嬉しい事だ」

番作は珍しく柔らかい笑みを浮かべている。
笑いながら、コホコホと手の平の檻の中で、蝶が羽ばたくような咳を漏らす。
このところ、頻繁に漏れ出るようになった咳だ。

手の平を眺め、番作は言う。

「もし、私が死んでも、信乃は大丈夫だな」

気弱な言葉に、糠助は、眉を吊り上げた。

「何を仰いますか、番作さま!
 そんなことを言ってはいけません。
 奥さまの手束さまがお亡くなりになった時の信乃さまの落胆をお忘れですか?
 あのまま後を追ってしまうのではないかと、心配するほどでしたよ。
 与四朗を拾った里山近くの川辺で、ぼんやりしているのを見た時には、本当に、肝を潰しました。
 それに、番作さまのお加減が悪いのは、お天道さまがのぞかないからです。
 弱気になることではありませんよ。
 信乃さまのためにも、番作さまには元気でいていただかなくては」
「そうだな」

糠助の熱弁に、番作は再び苦笑した。

自分を、父親失格であると思っている節のある糠助は、犬塚親子に「理想」を重ねている。
それが、番作には滑稽で、けれど嬉しくもある。
そうありたいと、願ってもいる。

番作は、小さく呟いた。

「そう、しなくてはな…」

手の内は血に濡れ、真っ赤に染まっていた。