「おのれ、信乃め、忌々しい」
犬塚家を辞した亀篠は、ギリギリと歯噛みをしながら、足音も荒く帰宅した。
門戸を壊さんばかりの勢いで叩きつける。
丈夫なはずの木戸は、ギシリと不満げに軋みを上げた。
その音を聞きつけて、大塚家の下男や下女が数人、何処からともなくパラパラと駆け出して来る。
「いかかがなされましたか、亀篠さま」
「五月蝿い!」
足洗い用のたらいを持って走り寄って来た年かさの下男を手荒く払い除け、亀篠は居室へと廊下を進む。
大塚家は、大きい。
他の農家が続き間の様な数室しか有していないのに対し、村長の家は十を越える部屋があった。
いくつもある障子には目もくれず、亀篠は家の最奥まで進んで行く。
目的の部屋は、成金趣味の豪奢なふすまによって閉ざされていた。
ぴしゃりと高い音を発てて、亀篠はふすまを滑らせる。
仕切られた部屋の中には、ずんぐりとした陶器の壷を枕に、男が横たわっていた。
不精髭にまみれた顔は、ほんのりと赤く色き、顔の近くには新たな徳利と中身の零れた猪口が転がっていた。
プンと香る酒精に、亀篠は眉根を寄せて、袖で口元を覆う。
「何だい、お前さま。
またこんなバカみたいな飲み方をして。
酒が勿体無いじゃないか」
亀篠は、枕代わりの徳利をどっかと蹴った。
夫の蟇六の頭が、床とぶつかる鈍い音が音が響く。
目のふちが真っ赤に染まるほどに泥酔した蟇六は、億劫そうに目を開け、妻の姿を認めるとごろりと床を転がった。
妻を視界から追い出して、酒精にどろりと溶けた声で喚く。
「うるせェ、元はと言えば、全部お前の弟の所為だぞ。
あいつが死に損なったから、未だに村長の職を返せって奴らがいるんだ!
正式な村長は犬塚番作で、俺みたいなゴロツキ上がりの偽物村長には従えないってな!
くそっ、これが飲まずにいられるかってんだよ」
言い終わるが早いか、そのまま徳利を傾けて直接口を付けた。
飲みきれなかった酒は頬を伝い、喉を伝い、上等な着物の襟と床を汚した。
その床に、再び蟇六が倒れ込む。
「…村雨丸さえ手に入れちまえば、こっちのモンだって言うのに。
何が、大塚の証だ。
何が、今は亡き君主の刀をひっそりと守る忠義者だ。
何時か元君主の弟君である、古河公方様の所へ赴いて、大塚村を取り戻すだろうってな」
暗い声で呟かれたその言葉を聞いて、亀篠の脳裏に閃くものがあった。
「忠義者、ねぇ…」
にやりと、不似合いな紅を引いた唇を歪めて笑う。
「あんた、いい案が浮かんだよ。
村雨丸が手に入るかもしれない」