「…てください、起きてください!」
戸口で、誰かの叫ぶ声がする。
音に、意識が覚醒していくが、目の前に広がるのは、鼻を抓まれても分からないほどの闇だった。
一瞬、目を開いているのか閉じているのかが分からないなる程に、濃い。
信乃は、真っ黒な闇よりも黒い影が、傍らでのそりと起き上がる。
真夜中の来訪者の声に、父が目を覚ましたようだった。
「どうされた?」
動きの悪い足を庇い、緩慢な動作で戸口に向かう。
「ああ、番作さま!
早く、亀篠さまのお屋敷へ向かってください!」
闇が濃く、来訪者の顔は見えない。
しかし、おろおろと動揺した声は、どうやら糠助のものの様だった。
その平素の丸さなど、どこかに置き忘れた声に、不穏な気配を感じる。
信乃も、むしろをかぶっただけの寝床から起き上がり、戸口へ向かった。
糠助によって開かれた戸の隙間から、白々と青い月明かりが流れ込んでいる。
今夜は、下限の月。
しらじら差し込む光は、酷く冷たく感じた。
不安で、信乃の視線は愛犬を探す。
温かな火の熱の残る、かまどの横に、与四朗の姿は無い。
庭に視線を流せば、番作と糠助越しに、庭の梅の木が見えた。
信乃が生まれてこの方、一度も実を付けたことの無い老木は、何度か折れ曲がりながら月を抱えて立っている。
そこにも、大犬の姿は見当たらなかった。
「…与四朗?」
信乃の背中を、悪寒が駆け抜ける。
よろよろと戸口に向かえば、糠助が縋るように信乃の袖を掴んだ。
「信乃さま、堪忍して下さい!
全て、わしが悪いんです」
頭の隅が、ジンと冷えて行く。
「このままでは、与四朗が死んでしまいます!!」
糠助の言葉は、夜の大気よりも冷たく、鳩尾を冷やした。