大塚村の中心部に位置する大塚の家は、真夜中だと言うのに、ほの赤い松明の光に照り返っていた。
屋敷を囲む塀の、門と言う門は全て閉じられている。
起きぬけに、無理に走らせた身体は、悲鳴を上げていた。
肺が軋むほどだ。
しかし、そんなことを気にしている場合では無い。
夜着のまま家を飛び出し、素足のまま駆けた足は、路傍の石によって傷だらけになっていた。
大塚家の強固な正面門にとり縋る。
怒号は、耳を澄まさなくても塀の外まで漏れ出て、だいぶ離れた場所からも、信乃の鼓膜を揺らしていた。
「追え、そちらへ行ったぞ!」
「その犬を逃すなよ、亀篠さまのご命令だ!
捕らえた者には褒美を下さるそうだ、奮って掛かれ!!」
肺の中の、空気が揺れた。
何かを叩く、凝った音が響く。
弓鳴りや、投石、何かが蹴破られるような破壊音で、中の様子は想像できる。
皮膚が、粟立った。
「…っ、与四朗!」
信乃は、握り締めた拳で門を叩く。
厚い木の板を叩く音は小さく、そして鈍い。
口の中が、喉が、乾いている。
走って来たせいだけでは無い。
唾液を飲み下し、喉を湿らせ、信乃は声の限りに叫ぶ。
「伯母上、門を開けてください、伯母上!」
悲鳴の様な信乃の叫びも、邸内の喧騒に混じって消えた。
聞こえていても、亀篠には家の門扉を開くつもりなど、毛頭無いだろう。
何度も、何度も門を叩く。
叩き付けた皮膚はいつしか破れ、血が滲み始めていた。
それでも、信乃は伯母を呼びながら、扉を叩き続ける。
下男達の声に交じって時折聞こえて来るのは、浜路の泣き叫ぶ声だ。
「皆止めて!
与四朗が何をしたって言うの!?」
音がする。
肉を、生き物を殴る、鈍い音がする。
ずんと響くその音は、何度も何度も繰り返され、厚い塀に阻まれた、信乃の元にも届いた。
糠助は、年貢を納めきれていなかった。
その弱みに付け込んだ伯母は、与四朗を家まで連れて来させたのだ。
出来なければ、村を追い出すと脅して。
口の中に、血の味が広がる。
噛みしめた唇が、切れたようだった。
酸い様な鉄の味に、塩辛い涙が混じる。
ただ、悔しかった。
何も出来な自分が。
唯一無二の、生まれた時から共に育ち、いつも一緒に居てくれた犬すら助けられない、自分の不甲斐無さが恨めしかった。
「与四朗ぉ…」
ただ、嗚咽混じりに愛犬の名を呼ぶしか出来ない自分。
悲しくて、悔しくて、扉に拳を叩き付ける。
ぐるぐると頭の中を回るのは、与四朗と過ごした一つ一つの記憶。
与四朗を馬代わりに村を駆け回ったこと。
共に川で泳いだこと。
絡んでくる年上の悪ガキから、信乃を守ったこともあった。
母が死んだ時は、泣いている信乃の傍を、片時も離れなかった。
それなのに。
「与四朗ぉおぉー!」
信乃は、叫んだ。
喉が張り裂けんばかりの声で、相棒の名を呼んだ。
夜の静寂に、獣の咆哮のような叫びが、響き渡る。
塀の内側で、与四朗が吠えた。
大きく、大きく、一声吠えた。
信乃の呼び声に、呼応するように、大きく。
悲鳴が聞こえ、うろたえた様などよめきが起きる。
「逃げた、追え!」
足音は遠ざかり、近づいてはまた、遠ざかった。
中で起こっているのは、騒乱。
与四朗が駆けている。
出口を探しながら。
大塚家の使用人たちを振り回して。
気付いた信乃は、立ちあがった。
自分だけが膝を折り、座り込んでいる場合では無い。
待っている訳にはいかなかった。
乱暴に、頬を伝う塩水を拭う。
眼元が熱を持ったが、気にならなかった。
「与四朗、裏へ回れ!」
信乃は、叫んだ。
与四朗に届くと、与四朗が理解すると信じて。
繰り広げられる騒ぎの音だけを頼りに、屋敷の周囲を取り囲む塀を回る。
このまま行けば、与四朗は屋敷の真裏で行き止まる。
しかし、そこには与四朗がやっと通れるほどの破れ目があったはずだった。
信乃は、走る。
与四朗が、その抜け穴から出てこれることを信じて。
だんだんと、道は悪くなる。
足が縺れて、躓く。
縦横無尽に伸びた竹の根が、罠のように盛り上がり、信乃の足を掴んだのだ。
地面に擦った膝から、血が滲む。
痛い。
それでも、信乃は走った。
竹の葉に顔を叩かれ、腕を切られながらも、竹藪を駆け抜けた。
白い塀は、続いている。
目的地は、もうすぐだった。
しかし、白い漆喰塗の塀を見て、信乃は落胆する。
抜け穴は、内側から板で塞がれていた。
信乃すら知っている破れ目を家人が見逃すはずが無かったのだ。
板は、押しても押しても動くことは無い。
ご丁寧にも、重石がされているようだった。
信乃の匂いを頼りに、与四朗がやって来る。
犬を追う怒号が、迫って来る。
板は、どうあっても動かなかった。
「何で!」
信乃は板を蹴る。
思い切り、満身の力を込めて。
それでも、板は動かなかった。
「何で動かないんだ!」
叫んで、思い切り蹴りつける。
ビクともしない板に、再び視界が滲みだした。
(駄目なのか…)
思った瞬間、あれほどまでに動かなかった板が内側から除けられた。
板を掴んだ手は、仕事に節くれだった、けれど、成長過程の細い手だった。
黒く沈んだ茶色い板と白い塀の隙間を、勢いをそのままに与四朗が滑り出して来る。
白い漆喰に血の赤が散って、映える。
信乃の見開いた目に、鮮やかに映った。
傷だらけの斑の体が、寝間着の足に擦り寄る。
埃にまみれた信乃の単衣を、与四朗の血が赤く染めた。
赤く、赤く、命が滲む。
「与四朗…」
吐き出す息に微かに声を混ぜる。
与四朗は、小さく返事をした。
白と黒の斑模様の毛に触れる。
少し硬い、暖かさが伝わってくる。
本当に、与四朗だった。
傷に触れないようにと注意しながら、労わるように愛犬の頭を撫でる。
撫でながら、信乃は割れた漆喰の隙間を見た。
屋敷の内部で、与四朗を助けようとする者など、心当たりは限られる。
けれど、浜路では無い。
浜路では、あの重石は動かせない。
どんどんと怒号はせまる。
聞き覚えのある、しかし、聞いたこと無い鋭い男の声が、信乃の背中を押した。
「行って!」