信乃は、走った。
背後に怒声を聞きながら。
横を走る与四朗を、気にかけながら。
真っ暗な道を、家まで。
普段ならば、本気の与四朗に信乃が勝てる訳がない。
しかし、今の与四朗の足並みは鈍く、信乃が気に掛けて走らなければならない。
それ程に、弱っていた。
本当ならば、抱えたかった。
しかし、与四朗は信乃が抱えるには大きすぎる。
「与四朗、もう少しだ、もう少しだから…」
上唇を、固く引き締める。
泣くもんかと、思った。
与四朗は、大丈夫なのだから。
涙を零してしまえば、最悪の想像が現実になってしまう。
そんな気がした。
そんな気がして、怖いのだ。
点々と、犬の毛並みは血に染まり、背後にも同様の暗い染みが続いている。
「大丈夫だ」
信乃は、何度目かも分からない言葉を呟いた。
与四朗に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、分からない。
それでも、呟かずには居られなかった。
家の明かりが見える。
村はずれに、点々と並ぶ二つの光が。
焔の明るさを背に、人影が動いている。
ひょこひょこと跳ねるような足取りで進んで来る。
信乃と与四朗に向かい、歩いて来る。
「父上、与四朗が、与四朗が…!」
足を引きずっていた影が、駆け寄った娘を抱きとめた。
見上げた父の顔が、良く分からない。
息が苦しい。
夕闇や、全力疾走のせいだけでは無いことは、知っている。
ボロボロになった服の袖で、信乃は乱暴に顔を拭う。
視界は晴れたが、袖が夜の闇に冷えて、冷たさが骨まで凍みる。
静かに頷いた番作は、信乃の手を掴んでしゃがみ込んだ。
その手のにおいを嗅ぐように、与四朗が擦り寄って行く。
犬と人は、言葉も無く視線を交わした。
荒々しく、地面を蹴る音がする。
何人もの人間が、血相を変えて走る地響きが、近付いて、身体中を揺らした。
与四朗が、唸り声を上げている。
信乃は、血に濡れた愛犬を守るように、その首を抱えた。
松明を掲げ、十人ほどの人影が迫って来る。
赤い光の中に、いくつかの顔が浮かんでは消える。
その中の一人が、赤く縁取られた口を開いた。
「信乃、番作、その犬をお寄越し!!」
闇を裂く、亀篠の怒声が響く。
「伯母上、もう止めてください!
与四朗はもうこんなに傷を負っている…」
「いいや、ただではおけぬ!
この犬はね、管領上杉さまの古河攻めの兵糧を仰せつかった下知状を破ってしまったんだ。
大塚は、代々古河公方に仕えていたのだから、謀反の意志があると思われても仕方がない事態になってしまったんだよ!」
どなられても、信乃は怯まなかった。
愛犬を守りながら、私腹と共に肥えた伯母を、鋭く睨み上げる。
亀篠の左右に控えたガラの悪い男たちが、それぞれに武器を構えて薄笑いを浮かべていた。
その間に割り込むように、番作が進み出る。
「それは本当ですか、姉上」
「もちろん。
こんなことで嘘を付いて、どうするって言うんだい!」
静かな声とは対照的な、キンキンと、金属音を帯びた声が耳をつんざく。
「犬畜生の仕業とは言え、書状を破いてしまったことは事実。
このままでは、あんたたち親子は死罪にされてしまう。
それどころか、大塚村が消されてしまうかもしれないのですよ!」
村中に、響き渡るほどの大きな声だった。
実際、騒ぎを聞き付け集まり、しかし、巻き込まれたくないと遠巻きにする村人たちに知らしめるためでもあったのだろう。
村人たちが、恐怖にざわめく。
「けれどね、番作。
上杉さまだって、鬼じゃあ、ない。
きっと、与四朗の首と公方の宝刀村雨丸を持ってお詫びに上がれば、謀反の意志などないことを、分かって頂けるでしょう」
人々の視線が、番作に集中する。
「…分かりました」
「父上、何を…!」
悲鳴のような信乃の声を遮り、番作は重々しく言葉を続ける。
「少し、信乃とも話さなければならないこともあります。
返事は、明日まで待ってもらえますか?」
「ええ、それくらいの余裕はあるでしょう。
けれど、逃げるなんて馬鹿な真似はしてはいけませんよ。
大塚村の命運が掛かっているのですから」
言い置いて、亀篠は帰路に就く。
腰巾着たちも、その後に続いた。
犬塚番作は、真面目な男だ。
それを知っている村人たちは、番作が逃げることがないのを知っている。
村には類は及ばない。
そう確信して、犬塚の家の周りから、一人、また一人と人が引けて行く。
大塚村の村外れは、またいつもの静けさを取り戻した。
「父上…」
番作は、ゆっくりと振り向いて、娘を安心させるように優しく笑った。
「信乃、話は後だ。
まずは与四朗を休ませてやろう」
黒と白の斑模様に黒い模様が染め上げられている。
暗闇に紛れて黒いその染みは、日の下で見れば赤色をしているのだろう。
忘れかけていた、強烈な鉄臭さが鼻を突いた。
一張羅の着流しが汚れるのにも構わず、番作は与四朗を抱え上げる。
今まで、威嚇以外の声を上げなかった大犬は、微かに呻いた。
「骨が、折れているのかも知れないな」
足を引きずりながら、番作は自宅へ戻って行く。
信乃も、その後に続いた。
家の中での寝床である、かまど横の藁の中に横たえられ、与四朗は大きく息を吐く。
それは、痛みまで吐きだそうとするかのような、深い深いため息だった。
座敷には、糠助が座り込んでいる。
背を丸め、消沈したような糠助がゆっくりと顔を上げた。
「ああ、与四朗…」
傷だらけの与四朗に気付き、転がるように土間に降りて来る。
糠助は、泣いていた。
泣きながら、与四朗に取り縋る。
「わしが大塚の家に連れて行ったばかりにこんなことに…
済まないね、許しておくれ、許しておくれ…」
「何を今更!!」
信乃が声を荒らげた。
今にも掴みかかりそうな娘を、番作が押さえる。
「信乃、糠助どのを責めるな。
お前のすべきことは、まず、与四朗の介抱だ。
井戸から綺麗な水を持っておいで」
「…はい」
後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながら、信乃は井戸に向かう。
少しだけ咳をして、番作は、糠助を振り返った。
「糠助どの、与四朗の手当てが終わったら、私たちは少し話をしようと思う。
あなたの気持も、分かる。
しかし、あの通り、信乃も興奮しています。
済まないが、外しては貰えないだろうか」
「ですが…」
糠助の皺に、涙がしみこむ。
「ご心配召されるな、糠助どの。
与四朗は強い犬ですから、きちんと休めば一命は取り留めましょう」