犬塚家は、静かだった。

村外れのあばら家を包む静けさは、いつもの穏やかな静寂とは種類が違う。
暗く、沈んだものだった。

藁の中に横たわる愛犬のボロボロの身体を撫でながら、信乃は小さく鼻をすすり上げる。

撫でる手を舐めようとした与四朗だが、その体にはもう、首を持ち上げるだけの力さえ残っていなかった。
内出血に濁った目だけを動かし、主人の手を追う。
身体が、思い通りに動かない。

吐き出す息に乗せて、切なげに鼻の奥を鳴らして鳴いた声が、やけに大きく聞こえた。

身体中に広がる、殴打の跡や裂傷から流れる血や汚れは、拭いとられている。
その分、傷は目立ち、痛々しさが目についた。

口元に垂らす水の一滴すら、飲み込めない。
嚥下されえない水は、床になった藁をしとどに濡らすだけだ。
時折、小刻みに身体を震わせては、大きく息を吐き出す。
前足も、耳も、温度を失いつつあった。

「信乃」

振り返ると、囲炉裏端で胡坐をかき、番作が信乃を見ていた。

考え事をする時、番作は目を閉じる。
手束が死んだ時、亀篠に対する時。
番作は何時も目を閉じて、思考をまとめていた。

糠助が帰ってからしばらくの間、閉じられたままだった番作の目が、開いている。
何かしら、結論が出たのだ。
冬の湖を思わせる静けさで、信乃を真っ直ぐに見詰めていた。

「話をしなければならないことがある」
「…はい」

信乃は、愛犬の頭を優しく撫で、土間を後にした。
膝を揃え、番作の前へ腰を下ろす。

明け行く夜は、何処までも静かだった。
時折爆ぜる明かり用の油の音と、苦しげな与四朗の息使いだけが、静寂に満ちた室内に、響いている。

「信乃、お前に託したいものがある」

そう言って、番作は腰に差していた刀を抜いた。

どんな悪漢が来ても抜いたことの無い、古ぼけた拵えの長刀だ。
口さがない村人たちが、「竹光」と馬鹿にしていることも、知っている。
竹細工の刀では無くても、抜かれない刀は湿気に錆びる。
信乃ですら、それはただの錆刀であると思っていた。

それの刀が、抜かれた。
すらりと滑らかに、鞘から白刃を現した。
まるで、照り返すような白銀は、信乃の目を引き付けて離さない。

番作は、厳かに告げる。

「源家に伝わる宝刀『村雨丸』。
 これが、お前の祖父である匠作が命を掛けて守り、私に託した刀だ。
 殺気を孕んで抜き放てば、切っ先から村雨のごとく雫が滴る。
 刃が血に濡れれば濡れるほど、雫を零す、唯一無二の名刀だ」

鞘の口を、刃が滑る。
抜いた時同様の滑らかさで、宝刀村雨丸の白刃は再び姿を隠した。

「これが…」

信乃の口から、大きなため息が漏れる。
含まれるのは、感嘆。
刀に、完全に呑まれていた。

「この刀を、信乃、お前に託す」

ズイと目の前に差しだされた刀から、信乃は顔を上げる。
かち合った父の目は、真剣そのもので、冗談の欠片さえ、見出すことは出来なかった。

わなわなと震える白く細い指が、不似合いな刀を捧げ持つように受け取る。

「私は手束との約束通り、お前を15まで男として育てるつもりだった。
 お前が成人し、女のなりに戻った暁には、村を離れ、公方様に帰参を願うつもりでいたのだ。
 そして、古河で良い婿を見つけ、幸せに、と…
 しかし、それも叶いそうにない」

番作の顔を、悲歎が横切った。

娘の今後を憂いて、口ごもる。
これから口にしようとしていることは、酷だ。
エゴだ。

どんなに男のように振る舞おうとも、信乃が女であることは変えられない。
変えることなど出来ないのだ。

それでもと、番作は表情を引き締める。

「信乃、お前には、『戌孝(もりたか)』の名を与える。
 これからは、女であることは忘れろ。
 犬塚信乃戌孝を名乗り、村雨丸を守りながら、男として生き、大塚の家で暮らせ。
 そして、時が来たら、古河へ向かい、公方様に刀をお返ししろ」
「父上、何を仰っているのですか!?」

信乃は膝立ちのままにじり寄り、父に縋りつく。
番作は、ゆっくりと口を開いた。

「…私は、腹を斬る」

凪いで低い声で告げられた事実に、信乃は息をのんだ。
見開かれた瞳は、今にも零れ落ちそうなほどに見開かれる。

番作は、自分の推論を告げる。

「この一件、全ては村雨丸を欲した我が姉亀篠たちの謀略だろう。
 与四朗は、誘い込まれ、痛めつけられただけだ。
 そもそも、そんな書状など存在などしていないだろう。
 糠助どのも、巻き込まれただけだ。
 恨んではならなんぞ。
 全ては村雨丸を欲した姉上達の策略なのだ」

そこまで言った番作は、激しく咳き込んだ。
支えようと伸ばされた信乃の手を辞し、姿勢を正す。
手の平を見て、寂しそうに俯く。

「私の体はもう、先が長くない。
 近頃の体調の悪さは、私が一番良く分かっている。
 私が病で死ねば、姉夫婦はお前をこの村から放り出すだろう。
 しかし、罪をかぶって死んだとあれば、村民の同情も集まり、姉夫婦もお前を無碍には扱えないはずだ」
「嫌です!!」

信乃は、大きく首を振った。
動きに合わせ、高く結った総髪が跳ねる。
結い紐が緩み、解け、流れた。

全身で拒否を現す信乃の肩を、番作の骨張った手が押さえた。

「聞き分けろ、信乃!
 父のこの言葉が聞けぬのなら、お前は親不孝者だ!!」

番作が声を荒らげることは、珍しい。

理不尽なことは承知で、番作は娘を怒鳴りつけていた。
驚いたのか、信乃は静止する。

動揺する娘の頭を撫で、番作は、静かな声で言い聞かせる。

「いいか、お前は主に刀を返すために、生きろ。
 女子のお前に、酷なことを言っているのは、分かっている。
 しかし、お前のほかに、父の匠作と私の意志を継げる者は、居ないのだ」

するりと、信乃の手の内から、父の腕と村雨丸が抜かれた。
とんと後ろに突き飛ばされ、信乃は尻もちを付く。
寝室を仕切るござが上がり、父を隠すように落ちた。

落ちて、部屋へ消える直前、父は悲しそうに笑った。

「許せ、信乃」