血臭がした。
鼻先に纏わり付くほどに、濃く。
濡れた潮の香りは、夢路から持ち帰った悲しみを加速させる。
(…そうだ)
意識が浮上するにつれて、気付く。
夢の中で感じた、悲しみの理由に。
(皆、もういない)
父は、全ての罪を被って死んだ。
与四朗は、自分の手で殺した。
真っ赤に染まる視界と、焼けるような心の痛みを覚えている。
(私は、一人だ)
目を開ければ、真っ赤な床板と父の骸、愛犬の死骸が待っている。
そう思うと、目を開けることが出来ない。
勇気が持てない。
ヒタリと、頬に水滴が当たる。
濡れた布が、汗にジトリと湿った額を撫でて行くのが分かった。
しかし、信乃は一人、血濡れの床板に転がっているはずだ。
濡れた布は心地よく染み、胸の底の空気まで吐き出させた。
淀んだ息が、肺を去る。
信乃は、ゆっくりと目を開いた。
「ご気分はいかがですか、信乃さま」
覗きこむ浜路の顔はとても心配そうだった。
安心させようとして信乃はほほ笑む。
けれど、頬が強張り上手く笑えない。
「心配は要らないよ。
ここは…大塚の家か」
表情を誤魔化すかのように身を起こす。
浜路が差し出した水の入った器を受け取り、一気に飲み干した。
意を決し、信乃は問う。
「…父上は、どうした?」
「お屋敷の、奥の部屋に。
その…信乃さまの家は、血が、凄かったから」
「そうか」
じわりと、ほんの少しだけ、顔を覆った腕に湿った熱さを感じた。
ぐいと着物の袖で乱暴に拭う。
ふと見ると、着物と袴の代わりに、薄桃色をした浜路の着物が着せられていた。
「着替えまでさせてくれたのか。
血みどろだっただろう?」
信乃の問いに、浜路は小さく頷く。
何かを思い出したのだろう、一瞬だけ見張った目が零れ落ちそうだと思った。
意識の途切れる直前、信乃は全身が朱に染まっていた。
おびただしく零れた父の血。
与四朗の首から首から噴き出した返り血。
いくら服を着かえても、身体を拭っても、臭いが纏わり付いている。
覚醒の瞬間に感じたのは、残り香だったのだ。
それほどに濃い、潮のにおい。
後を追うことの出来なかった自分は、引き起こされた現実を見なければならない。
シュルリと腰紐を腰で巻きなおし、着衣を整える。
崩れた髪を手早く結い直し、信乃は浜路を振り向いた。
「行こう。
父上の所へ案内してくれ」