「浜路です、信乃兄さまがお目覚めになったので、お連れしました」

大塚家の奥、こじんまりとした部屋の前で、浜路は室内に声を掛けた。
室内に灯った灯りに、丸々と太った二つの人影が照らし出され、障子に映っている。
誰であるかなど、考えなくても分かる。

憎むべき人間が、父を殺した元凶が、父の傍らに居る。
それが不快で、それを許した気絶した自分すら嫌悪する。

部屋の中からの応えは、すぐにあった。
浜路が、拳を握る信乃を先導するように戸を開けると、部屋の中央に横たわる番作と、その姉夫婦が居た。

父の顔を覆う真白な布が、目に染みる。
目を逸らすように、天井を仰いだ信乃の目の奥が痛むほどの残像を残した。

「ああ、信乃。
 身体はもういいのかい?
 番作もお前も、可哀想なことになったねぇ…
 与四朗の首と、村雨丸を差し出すだけで良かったのに、どうして番作は…」
「けれど、我が義弟ながら、天晴な散り様だ」
「そうね、誠の武士の最後だわ」

蟇六と亀篠夫婦の称賛の声が白々しく響いた。

感極まったように、着物の袂で顔を覆う動作が、ウソ臭さをより濃いものにした。
頬は確かに濡れているのに、目に涙の気配は無いのだ。
大方、水で湿らせた綿でも、袖に仕込んでいるのだろう。

これは、信乃に対する懐柔でしかない。
嫌悪よりも強く、憎悪した。

伯父伯母の声に答えること無く、信乃は番作の傍らに膝を付く。
震える手で、父の顔に掛かった布を剥いでいく。

顔を隠した白い布を取れば、蒼白でも、安らかな顔をした骸が眠っていた。

血の気のない、白い顔だ。
眠っているようにも見えるが、違和感の拭えない顔。

それは、いくら否定しても、父の顔でしかなかった。
一人で罪を背負って逝った、信乃の父、番作でしかなかった。

信乃の体が、一瞬、弛緩する。

再確認した、事実が重い。
事実、肩に重圧がかかるような錯覚すら覚えた。
そんな信乃の心情などお構いなしに、亀篠たちは喋り続ける。

「信乃、これから一人でどうするつもりなの?
 蟇六とも話し合ったのだけれど、これからは私たちと一緒に暮らしましょう」
「そうだぞ、信乃。
 遠慮なんてすることはないのだぞ」

亀篠たちの言葉は、信乃を素通りしていく。
実の無い言葉は、何も生まない。
それどころか、憎しみすら抱かせるのだ。

この提案とて、村雨丸が欲しいがためだ。

「番作の葬儀は、任せなさい。
 きちんと、送ってあげないといけないわね」

これは、村人たちに『番作の死』と言う事実を知らしめるためだろうか。

亀篠は父の姉で、蟇六はその婿。
浜路は可愛い年下の従妹で、これが、信乃の残った血縁全てだ。

血の縁を、微かにでも信じたい気持が、信乃には残っていた。
しかし、ひしひしと伝わるこの空気は、甘い心を否定する。
伯母は、心から父の死を悼んでは居ない。
伯父は、自分の村長と言う地位を脅かす者の死を、喜んでいる。

(父上の言ったとおりだ)

信乃は歯を食いしばる。

どこまでも、伯母夫婦は敵でしかない。
世話になどなりたくない。
けれど、成人もしていない子どもが一人、生きていくことが出来ないのも、また事実だった。

(生きて行けない、か)

信乃の唇が、自嘲に歪む。

一度は、与四朗を連れて父の後を追おうとまで思ったのに、結局生きるための道を探している。
今後を視野に、身の振り方を考えている。

ばかばかしい。
落ち目の主家の刀など、さっさと伯母夫婦に渡して、いっそ儚くなってしまおうかとすら思った。

その時だった。
信乃の心情に呼応するように、握った拳が熱を持つ。

焼けるような熱さに耐えかねて、信乃は手を開いた。
現れたのは、小さな珠。

その事実に、信乃は目を見張った。

夢と同様、手の平の中に見知らぬ珠があったからではない。
信乃は、珠に描かれた文字に、目を奪われていた。

孝――父に与えられた元服名、戌孝の孝であり、親孝行の孝でもあった。

『男として生き、公方様に刀をお返ししろ。
 この言葉が聞けぬのなら、お前は親不孝者だ!』

父の声を、反芻すると、じわり涙が浮かんだ。

珠に浮かんだ文字を見ながら、信乃は思う。

(まだ私は、死ねない)

村雨丸を古河公方にお返しするまでは、まだ。
自分は、死ぬわけにはいかないのだ。

「…伯母上、一つお聞きしなければならない事があります」

珠を握り直し、信乃は伯母を呼ぶ。

「父は、全ての罪を背負って、武士のけじめと腹を切りました。
 けれど、もしもこれ以上のお咎めがあるならば、残った私が償うのが通り。
 そうなれば、伯母上たちにも累を及ぼしましょう」

伯母も、伯父も、何も答えない。
信乃の揶揄する所の『罪』に何も言えずにいる。
番作の推測通りなら、そんなものは存在しないのだ。

信乃は、なおも続ける。

「鎌倉さまに忠義を見せるために、まだ村雨丸を献上せよと言うのなら、私は今すぐ古河へ向かわなければなりません。
 大切な亡き君主御刀を、私たちの不始末のために手放すなどおじい様もお許しにならないでしょう。
 ならばその前に、弟君である成氏様に宝刀をお返し、私も父の後を追い、腹を切る所存です」
「何を言うのですか、信乃!
 お前では若すぎる。
 それにお前は…」
「問題はありますまい!」

伯母の言葉を遮って語気を強めた信乃の声は、震えていた。

次の言葉を発した瞬間、女としての信乃は死ぬ。

消えてしまう。

それでも、信乃は言葉を続けた。
ヒタリと真っ直ぐに亀篠を見つめて。

忠義のため。
主君のため。
父のため。
与四朗のため。
生きるため。

信乃は、心を決めた。

「何を勘違いしておられるかは知りません。
 私は、母の遺言により女のように育てられたこともあります。
 けれど、私は列記とした男。
 大塚村村長の正当後継者、犬塚番作が嫡子、犬塚信乃戌孝です!」

言った瞬間、涙があふれた。
怒りからか、悔しさからか、悲しみからか。
それは、当事者である信乃にすら、分からなかった。

「信乃…!」

亀篠が驚きを隠さないままに、立ち上がり、信乃を見下ろした。
目を逸らさず、信乃は静かな声で決意を告げる。

「切腹の前に、父上が名を下さいました。
 これより私は元服し、村雨丸を守って行く所存です。
 古河様に、お返しするその日まで」

そう言うと、ゆっくりと首を垂れ、伯母夫婦に平伏した。

「それまでは、どうか」

蟇六は、気圧されたようにたじろいだ。
村長夫婦は、弟の子は男であると思ってはいた。
けれど、早すぎる突然の元服を、処理しきれない。

どうすれば自分たちに都合がいいのかを、見失っていた。

硬直する蟇六を押しのけ、取り繕う様に亀篠は信乃に笑い掛ける。

「ええ、ええ。
 きっと、これ以上は何のお咎めもありませんよ。
 すぐに事の次第を鎌倉さま直属の家臣である陣代さまにお伝えしなければね」

亀篠は、夫蟇六を引きずるように、部屋を出て行った。
廊下を行く足音は乱れ、動揺が手に取るように分かる。

「これで、良かったんですよね、父上」

信乃は、呟いて微かにほほ笑んだ。
それは、力ない頬笑み。
けれど、力強さを秘めた頬笑みだった。

「…よくなんて、ありません」

浜路が、押し殺した声で呟く。

「元服なんて、何を考えているのですか。
 信乃さまは女子なんですよ!」
「違うよ、浜路。
 信乃戌孝を名乗った時点で、私はもう男だ。
 女に戻る気は毛頭ないよ。
 女の信乃なんて、存在しなかった。
 居たのは、男として生まれ、男として育った信乃だけだ」

静かな声で、告げたのは事実では無かったが、それでも、決意ではあった。

死ななかった。
死ねなかった。

ならば、この生に理由を付けなくては、信乃は生きて行けない。

真剣な従姉の顔に、浜路は決意の固さを知った。
形のいい眉を寄せて浮かべたほほ笑みは、悲しみと困惑を内包していた。

(信乃さまが決めたことなら…)

浜路は勢いよく立ちあがる。

「それでは、殿方にその着物は不相応ですね。
 何か、他のものを探して参ります」

赤くなった目のまま笑い、部屋を後にした。

浜路は、どこまでも味方だと、信乃は実感する。
信乃の今後を憂いて怒り、意志の固さを知ると、背中を押してくれる。

それだけで、敵だらけの大塚家でも、生きて行けると思った。
宝刀村雨丸を亡き主君の弟君へ、返すまで。

(それが、私に託された願い、ですよね)

脳裏に描いた父は、今度はすんなりと笑ってくれた。

生きよう。
そう決めたからには、信乃にはしなければならないことがある。



  『与四朗を弔いたい』
  『村雨丸はどこだ?』