A sky threatening rain.
六月の雨は降りしきる。
関東地方の北部に位置する田舎町、木田市の町並みを白く煙らせながら、しとしとと。
年代物の電車に揺られながら、早瀬あさぎは、窓の外を眺めていた。
閉じたビニール傘が足に触れている。
衣替え直後の夏服のズボンは、傘を滑り落ちた水滴によって、湿ってしまった。
過ぎる風景を眺めながら吐いた息は、窓を濁らせていく。
結露に浮かぶ落書きの隙間から見えるのは、窓の外を流れるくすんだ緑の田園風景。
続くのは灰色の市街地。
所々に、通学途中の小学生の差す黄色い傘が浮き上がって見えた。
それは、いつもと同じ風景だ。
しかし、あさぎを憂鬱にさせるには、十分なものだった。
『いよいよ、梅雨入りですね。
皆さん、傘を忘れずに』
ヘッドフォンから耳に流れ込むラジオパーソナリティーの言葉に、あさぎは眉を寄せる。
今年も、梅雨が来た。
そう思うだけで気鬱になり、また、外の風景を濁らせることになった。
あさぎは、梅雨が嫌いだ。
だが、特に雨が嫌と言うわけではない。
暑い夏の日の夕暮れに、その熱気を吹き飛ばして涼やかに降る夕立も、冬の雪に変わる寸前のきんと冷えた、冷たい雨も嫌いではないのだ。
寧ろ、好ましいと思う時さえある。
しかし、暑さをはらんでじとりと湿る、梅雨の雨は嫌いだった。
この雨が、空を拭えば夏が来る。
この雨が、夏を連れて来るのだ。
そう考えただけで、気分が滅入ってしまう。
空に蓋をした垂れ込める曇天も、濡れそぼった蒸し暑い空気も、憂鬱を加速させるだけ。
いつの間にか癖となってしまったため息が、電車の床に転がり落ちる。
「おい、そこの少年」
ラジオと雨と電車の合奏曲に混じって、どこからか呼びかける声がした。
あさぎは、窓の外から視線を離し、電車内を見回す。
すると、向かいの座席でフレームの太い黒ぶち眼鏡をかけた男が、ひらりと右手を振っていた。
黒ぶち眼鏡と言えど、そこに真面目さはみられない。
染めたらしい薄茶の髪は四方に跳ね、耳にはいくつかの黒味を帯びた銀のピアスが光っている。
一般に「ちゃらい」と形容される服装だった。
「退屈そうだな。
お兄さんが話し相手になってやろうか?」
あさぎは、訝しげに眉を寄せる。
遊びに行くように着崩された格好ではあるが、身にまとっているのは、あさぎと同じ木田高校の制服だと気付いたからだ。
大人の大半が自動車を所有し、学生の主な移動手段は自転車という田舎の、乗客も疎らな電車である。
平日ともなれば、利用する人間と時間帯は決まってくる。
高校に入学して、早二ヶ月が経とうとしている今になって、初めて見る顔。
自分の通う高校の制服に気が付かないなどと言うことは、あり得ないはずだ。
雨の日だけの乗客も、居ることはいる。
だが、入学後初めての雨と言うわけではないのだ。
この前の雨の朝も、その前の雨の朝も、木田高校の人間など居なかった。
そして、この先も居ないはずだ。
この辺りに住んでいるのなら、木田高校で無く、北ノ台高校へ行くのが普通なのだから。
あさぎの困惑の表情に、向かいの席の不良然とした男が肩をすくめる。
「おいおい、そんなモロ不審に思ってます、って顔すんなよ。
おれは、木田高の二年で、シオヤトーマっての。
字は調味料の塩に山あり谷ありの谷で塩谷。
透明の透に動物の馬で透馬な。
あ、ナンパじゃないよ、普通に女の子大好きだから」
おどけたように口にして、塩谷は人懐こい笑みを浮かべている。
この手のタイプは、正直、苦手だ。
明るく社交的で、人生を謳歌しているような塩谷は、こんな自分とは、思考回路ごと全てが違う気がする。
関わり合いたくない。
あさぎは、動きの悪き頬を動かし、笑みを形作る。
「別におれ、退屈、してませんから」
気にしないで下さい、とあさぎが途切れがちに答えても、不審な不良がめげることはない。
おれは退屈なのー、と軽く笑った。
男の背後に、無人駅が見える。
ギギギと耳障りな音を発てて、ドアが開いた。
木田市の隣、羽山市はこの電車を通勤通学に利用する者が多いようで、一気に乗車率が上がるのだ。
流れ込む乗客に、素早く視線を走らせる。
しかし、あさぎを救ってくれるような人物は、どこにも見当たらなかった。
我先にと座席を目指す人の波に逆らって、塩谷は立ち上がる。
疲れているのか、体力が無いのか、はたまた足腰が弱っているのか。
座席に向かう人の目は、少し恐ろしいものがある。
この乗車時の椅子取りゲームに参戦しようとしても、あさぎはその視線一つで、いつも負けてしまうのだ。
いや、人の視線とは、どんなものでも恐ろしいのか。
目の前の吊革に陣取った塩谷の視線を感じながら、あさぎは独りごちる。
これでもう、逃げ場は無くなった。
視線を浴びると言うのは、人の意識に入るということ。
それだけで、相手は何かしら、自分に対する感情を抱く。
だから、人の気になど、留められたくはない。
あさぎは、俯くしかなかった。
泥水で汚れたクリーム色の床では塩谷の赤いスニーカーが雨水を吸って、濡れていた。
背中を押されたのか、それが半歩あさぎの足に近づく。
チッと、舌を鳴らして塩谷はデイパックを腹の側に抱え直した。
「やっぱり、雨の日は混むな。
冷房かかってるはずなのにあっちぃのなんのって。
なぁ、おまえさん、北ノ台中出身だよな?おれは羽山南中出身なんだ。
同じ羽山でも木田に近い奴らはいいんだろうが、長距離通学は疲れる疲れる」
「…そうですね」
塩谷が立っているのは目の前で、ここで無視するのもなんだか気分が悪い。
今更、ヘッドフォンにも逃げられない。
俯いたまま、あさぎは出来るだけ短く、出来るだけ相手の気分を害さないような答えを探しては吐き出す事にする。
自分の感情は、いつの間にか迷子になって、機械的な返事だけが口頭に昇っていく。
感情の無い、上っ面だけの返答に、人は寄ってはこない。
よく分かっている。
人を遠ざけるのには、一番の手段だろう。
だが、塩谷は違った。
空気が読めないのか、はたまたワザと読まないのか。
それとも、ただの暇つぶしの相手に、多くは求めていないのか。
目の前の不良は、それでも喋り続けていた。
「なんだそのツレナイ態度。
けど、この話なら少しは身を入れて聞く気になるんじゃないかな」
塩谷は笑みを深くする。
「なあ、北ノ台中の早瀬あさぎくん?」
出身校は、推測され、あさぎ自身、反論しなかったことによって肯定した。
しかし、名を名乗った覚えはない。
まったく、身に覚えが無いのだ。
驚いて、弾かれるように顔を上げる。
その拍子に、あまり高くない位置にある、黒よりも茶色に近い、目じりが垂れた眼にかち合った。
偶然同じ時間の電車に乗り、偶然向かいの席に座って、偶然話しかけてきた人懐こい人間。
それだけのはずの人間が、自分の名前を知っている。
どういう事なのだろうか。
状況が読み込めず、あさぎの呼吸が引きつった。
対する塩谷は、緩められた濃い赤色のネクタイの上で、にやりと笑った。
それは、今まで浮かべていた人懐こそうな笑顔とは種類の違う、右頬だけを引き上げた、不敵な微笑みだった。
「おれはな、今、水泳部の立て直しに関わってんだ。
二年の山城って奴が言いだしっぺで、数学の多賀センセ巻き込んでさ。
で、校長やら生徒会長やらの所に直談判しに行ったら、あいつら、何て言ったと思う?
五人以上のメンバーを集められたら、廃部も同然の水泳部を部として認めて、プールも使わせてやる。
それで、実績残すことが出来たら、予算もつけてやろう、だってさ。
『実績』なんて曖昧な条件出して諦めさせようとしてんの見え見えだろ」
塩谷は不機嫌そうに片眉だけを跳ね上げる。
「で、おれたちは去年の今頃から、メンバーを探しちゃいるんだが、早々上手くは行かないのが現実ってやつでな。
おれたちは、大会出場すら認められないまま進級しちまった。
今年こそは…!と思っていたら、新入生の中に、お誂え向きの奴らを見つけたわけだ」
塩谷はするりと、あさぎの眼前に、指を突き付ける。
人懐こさを消した目は、見透かすようで、さっきよりずっとも至近距離だ。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「その一人が、お前さん、早瀬あさぎだ。
役に立てないなんて逃げは効かないぜ。
ネタは上がってるんだからな」
あさぎを見つめる塩谷の目は、獲物を見据えた肉食獣の眼光を帯びた。
「二年前の、つまりお前さんが中二の時の夏の県西大会で、クロール部門準優勝。
県大会、関東といい線行くだろうと思われていたが、なぜか県大会を辞退。
それ以降、公式大会に出場した形跡はない」
合ってるだろ、と塩谷は片頬を持ち上げる。
進学を目的に置く者が多い木田高校で、水泳部を作ろうとしている物好きな男は、ずれてもいない眼鏡を上げた。
「なんで水泳を止めたのかは聞かない。
おれが言いたいのはこれだけだ」
電車は不規則な音を発てて走り続ける。
和やかな車内では、笑い声や話し声がそここで起きていた。
「もう一度泳げ、早瀬あさぎ」
それでも、塩谷の声をあさぎの耳が取り逃がす事は、無かった。
木田市を包む曇天のような重苦しい沈黙と、何時も通りの朝の風景を乗せて、型遅れの電車は進む。
もう一度、泳ぐ。
プールという場所に、戻る。
憂鬱に飲み込まれかけてた雨の朝、不意に投げかけられた提案は、あさぎにとってはとても魅力的で、同時に今のあさぎには不可能な話だった。
――断らなくては。
そう思う。
そう思うのに声が出ない。
真っ直ぐな塩谷の視線に晒されながら、縦に振りそうな首を宥めすかす。
(止めろ、無理だよ)
出来ないことは、出来ないのだ。
はぐらかしたり、誤魔化したりしては後を引く。
きっぱりと、断らなくてはいけない。
でも、機嫌を損ねたり、怒らせたりはしたくない。
あの日以来、目に見えて臆病になった自分が、頭の中で言葉を捜している。
けれど、他人の一挙一動を窺い、無駄に怯え、声を出さずに知らぬ振りをすることに慣れきってしまったあさぎの思考は、ただただ空回るばかりだ。
何も生まない沈黙が、二人の間に横たわり続ける。
額に、手に、汗がにじむ。
握りしめられたせいで、黒いズボンに皺がよった。
「なぁんて言われたって、ま、そうすぐには決められないよな」
何も言えないあさぎに焦れたのか、塩谷は前のめりになっていたその身を起こした。
それは湿気った雰囲気を一度仕切り直すように、道化のような大仰な動作だった。
視線と緊張の糸をふつりと断ち切って、塩谷はかばんを抱え直した。
あさぎは何時の間にか詰めていた息を、静かに吐き出す。
「何、緊張しちゃったの。
まぁ、これでおれ達の真剣具合は分かって貰えたよな?」
ただの変な先輩じゃないってのも分かったろ、と塩谷は再び軽そうな笑顔に戻って笑った。
「何にびびってるんだか知らないけどさ、言いたいことがあるなら言って来いよ。
ないなら、時間も無いからこれだけは聞いてくれ」
不良少年の背後を流れる外の景色は、何時の間にか学校前の木田駅到着が近い事を告げている。
「あんたが、どういう理由で泳ぐのを辞めたのかは知らない。
憶測は出来るけど、そんな事に時間を割くだけ無駄だ。
何せ、」
芯のある声を遮った木田駅到着を告げるアナウンスのだみ声に、知ってるから焦ってんだよと呟いて、眉間にしわを寄せた声の主は続けた。
「…何せ、おまえさんはまだ、『泳ぎたい』って思っているんだからな。
『泳げ』って言われて、すぐに『嫌だ』と断れない程度には」
「でも、おれは、」
言葉を続けようとしたあさぎの横で、ぷしゅーと間の抜けたような音がして、電車のドアが開いた。
乗車口付近に立っていたため、ぞろぞろと降りる同じ制服の波に流されて行く。
舌打ちをして塩谷は言う。
「早瀬、少なくとも数ヶ月は長く生きてる人生の先輩からの指令だ。
一年七組に行って来い。
そこに、おれ達が見つけた、『お誂え向き』のもう一人が居る。
行って、衝撃の事実ってやつを見て来いよ。
それから、腹が決まったら二年の塩谷か山城までよろしく!」
逃げてても始まらないぜ―――そう言い置いた鮮やかな髪色は拍子抜けするほどあっさりと改札を抜けて去って行った。
一瞬呆けていた所為で、閉まるドアすれすれに滑り出たあさぎは、塩谷が流されるように進んだ後を俯いたままゆっくりと辿る。
同じくらいかと思ったけど、案外、背小さかったんだなどと混乱が続く頭で、関係の無い事を考えながら。
駅から出た途端、しっとりと降る滴に誘われて、あさぎは空を仰いだ。
暑い、真夏の空を隠した鈍色の雲が目に染みる。
透明なビニール傘の向こうで、雲はどんどん流れて行く。
それでも雨は、途切れることなく波紋を描き続けているのだ。
この雲が晴れたら、夏が来る。
恋しい様な、苦い様な思いを乗せて、水泳の季節がまた、廻って来る。
空はどんどん変わっていくのに。
季節はどんどん過ぎていくのに。
自分だけが、雨の中で立ち竦んでいる。
(逃げてる、か)
傘の下、前髪に隠れて、あさぎは力なく笑う。
(何で、すっぱり断らなかったんだよ)
今更自問などしなくても、答えには気付いている。
どうして断れないのかにも、何から逃げているのかにも、もうずっと前から気づいている。
すぐに断れなかったのは、少しでも繋がっていたかったから。
部活を辞めた時に捨てたはずの、泳いでいたあの頃と。
水泳と言うスポーツと。
そして。
「…もう、顔すら浸けられないくせに、未練たらたらなんて……ばかだよなぁ」
搾り出すように呟いた事実から、早瀬あさぎは目を逸らしたいと願っていた。
* * *
「何度来ても無駄ですよ」
朝の廊下で、黒羽大成は一言、冷たい声で言い放った。
入学以来、いく度と無く繰り返した入部を拒絶する言葉だ。
身長も肩幅もある。
足も速い。
見るからにスポーツマン然とした大成は、運動部の勧誘に事欠かない。
サッカー、野球、バスケに柔道…初心者だろうけど、きっと強くなれるを常套句に、誘いに来る先輩達を一言で切り捨てた。
生意気だとか、馬鹿にすんなよと怒り出す輩も居るには居て、何度か陰険な態度に出られたこともある。
それでも、大抵はこれで引き下がった。
だが、この相手は、そうはいかない。
「なんでだよぅ」
なんとも情けない声を出しながらも、怒りも、諦めもしないのだ。
いつもと同様に見下すような睨みを添えようとしたが、それも叶わない。
睨み付けようとした相手、山城基一の身長は、大成よりも高いのだ。
「いい加減、他を当たってください。
おれは、もう泳ぐ気はないんだ」
「今日もまだダメか。
でも、昨日と今日じゃ、状況も気持ちも変わるものだろ?
だから、毎日来てるだけだよ」
大成の取り付く島もない態度にも、山城の笑顔は崩れなかった。
中学時代チームメイトとして同じプールで泳いだ一つ上の山城は、大成のこうした素っ気ない態度に慣れているのだ。
いや、と大成は思い直す。
もしかしたら、始めから、動じていなかったかもしれない。
大成は米神を押さえた。
「確かに、人の気持ちなんて日々刻々と変わっていきますね」
「だろ?だろ!」
肯定を口にした後輩に、山城の顔が輝いた。
それは、とても嬉しそうな顔だった。
大成は、ちくりと痛む良心とやらに蓋をする。
もう、計り知れないほどの重圧の中で足掻くことには、疲れてしまったのだ。
二兎追うものは、一兎も得ず。
だから、一匹の兎からは、手を引いた。
もう一匹の兎を、確実に手放さないために。
大成はフイと視線を逸らした。
山城の顔を正面から見つめることができない。
「でも、おれの気持ちは変わらない。
…おれの代わりなんて、いくらでもいるでしょう」
口にしたことで記憶が刺激されたのか、あの声が鮮明に蘇る。
『おまえの代わりなんていくらでも居る。
――自惚れるな』
久しぶりに思い出してみても、感情が煮え立つあの台詞。
ばかにするなと叫ぼうとして、飲み込んだ。
言葉も、その時に引いてしまった自分の情けない行動も、大成の自尊心を切り裂く刃となって、じゅくじゅくと膿む傷口を作る。
思い出すだけで、感情を持て余すほどに心が荒れるのは、もうずっと。
傍目には変化の無い表情のまま、それじゃあ、ときびすを返して教室に向かって足を進めた。
大成の背中に、山城は言い募る。
「今言ったのは、冗談だよな、大成。
まったく、おまえの冗談はいつも分かりにくくて困るなぁ」
「本当の事ですよ、」
答えて、大成はゆっくりと振り返った。
「山城さん」
わざと馴染んだ呼び名は使わなかった。
中学時代と同じ、キイチ先輩とは呼ばなかった。
まだ大成を泳ぐ事だけ見ていた頃のままと思っている山城に、変わったのだと知らしめるために。
自分の速さを誇っていられたあの頃とは違うのだと、自覚するために。
喉がからからに渇いている。
唾液を嚥下してみても、渇きは治まることなく喉を引きつらせた。
「くそ」
小さく自分に当てた悪態は、チャイムの音に霞み、聞き取りにくくなる。
山城が誘いに来る度、少しでも動揺する自分が情けない。
タイミングのよい始業の鐘にすら気遣われたような気がして、大成は苛々と唇をかんだ。