前を行く背中が、がくりと頭を垂れ、深く深く息を吐き出した。
喜怒哀楽は元々激しいものの、ここ数カ月、小さく丸められている事が多くなった背中だ。
焦る気持ちは、塩谷にも理解できる。
夏は、もう目の前。
与えられた時間は、ちびり、ちびりと削られていく。
(早く、手を打たないとならない)
そんなことを思っている塩谷の眼前で、背中はまた、深く息を吐いた。
重苦しいその二酸化炭素には、それ以上に重苦しい呟きが含まれている。
「…どうすりゃいいんだぁ」
朝のホームルームも始まっているだろう今の時刻、廊下は、ほとんど人気がない。
各人が自分の教室に引っ込んでいるはずの時間なのだ。
それにもかかわらず、目の前の山城は落胆のど真ん中で、それに気づいてはいないらしい。
水泳部創設の危機だぁ、おれたちの夢は終わるんだぁと、思わずこちらがため息を吐きたくなるような、さらに情けない声の独り言が続いていた。
大方、黒羽にでも軽くあしらわれたんだろう。
簡単に予想がつく。
(ったく、情けねーったら)
塩谷は、朝からかなりの時間をかけてセットしたものの、忌々しき湿気の魔力に頭を垂れた茶髪を、乱暴にかき混ぜた。
そして、塩谷の髪同様に項垂れてもなお高い位置で呟かれる声に、答えを渡す。
「今更何言ってんだ。
水泳部創部はいつも危機的状況で、上手く軌道に乗ったためしが無いだろうが」
横に並べば、ぐずぐずと声以上に情けない顔が、塩谷を見下ろした。
高校生活も中盤、自分より背の高い男の涙目は、正直寒い。
塩谷は、片眉を跳ね上げる。
「トーマぁ、大成がぁ」
「大成がぁ、じゃねーよ、情けない声出すな。
ダメでもともと、色よい返事なんか期待してるから、落ち込むんだって言っているだろうが」
「だってさぁ…」
大体な、と眼鏡を押し上げて、山城から視線を逸らさずに続ける。
「ヤル気が無い奴入れて、何になるんだよ」
歯に衣着せぬ物言いにうぅと呻いて、山城の表情が暗く沈んで行く。
「…大成だって、本当は泳ぎたいはずだ」
「本人嫌だって言っているんだろうが、ないない」
「…絶対、何か泳げない理由があるんだよ!」
「その根拠のない自信はどこから来るんだよ」
「勘!」
握り拳でなされた根拠のない主張に、塩谷は溜息を吐く。
「これが、強ち間違っていないから、イラッとくるんだよなぁ」
塩谷の呟きに顔を上げた、水泳部が復活した暁には、部長に据える予定の人物が、キョトンと不思議そうに目を見開いていた。
間の抜けた三白眼の前に見ろよと差し出された塩谷の手には、一冊のメモ帳が握られている。
薄い水色の表紙に踊るマジック書きの丸字は『あきな取材帳』と読めた。
「今朝、早瀬に入部を打診して来た。
何のとっかかりも無かったから、放置してきたけど、あいつらについて、ちょっといい話を聞いた」
「アキナ情報?」
「そう言う事」
山城の手が小ぶりな紙の束をめくっていくのを見ながら、塩谷は今朝の事を思い出す。
小雨に濡れた髪を直しつつ、掻い摘んで話をした。
「ごめんくださーい、情報お届けにあがりましたー!」
朗々と響く声を上げながら、塩谷家の二階、惰眠をむさぼる透馬の前に彼女は突然現れた。
塩谷家の隣に居を構え、酒屋兼仕出し料理屋を営む蒲田家の二女、明奈である。
塩谷と明奈は、幼なじみと言う名の腐れ縁だ。
小学校から高校の現在にいたるまで、三日と顔を見ない日が無いほどの付き合いは、どちらかと言えば兄弟的で、塩谷が蒲田家に世話になることは数多い。
夕食をご馳走になることは日常茶飯事。
雨の日などは、バイクは危ないんだからと、明奈ともども蒲田母に最寄り駅まで連行されるほどだ。
そんな付き合いで、二人の間に遠慮会釈はほとんどない。
だからと言って、朝も早くから寝室に急襲を掛けて来るなど、滅多にないことだった。
その滅多に無いことが起こった事によって、塩谷の安眠は妨害され、飛び起きることになる。
目覚めたばかりの目に映る幼馴染の浮かべる晴々しい表情が気に入らず、もともといいとはいえなかった機嫌が急下降する。
不機嫌は、そのまま何の用だよと言う低い音になって口から飛び出していく。
「御挨拶だね。
情報をいくつか持ってきたってのにさ」
「だからって、朝っぱらから年頃の男の部屋を急襲するなよ…」
「寝顔の一つや二つ、見られたところで減らないでしょうが」
「いや、おまえさん相手じゃ、減る気がする」
「失礼な!」
むくれた表情をして見せた、癖の無い黒髪を持つ少女は、空色のメモ帳を取り出した。
そして、気を取り直したように一変、表情を引き締める。
「シオ、早瀬も黒羽もワケアリだよ。
泳がない理由について詳しい事は分からないけど、中学時代の話は聞けた。
どうやら、早瀬あさぎは黒羽大成を目標にしていたみたいだね。
まぁ、詳しいことはそこに書いてあるけど」
胸元めがけて、過たず放られた取材帳を片手で受け止めて、ぺラリ、ページをめくる。
その内の文の一つに目を止めた塩谷が、裸眼の目を細めた。
「ね、これならどうにかなりそうでしょ?
ってことで、今日さっそく、ファーストコンタクト、行ってみよう!」
「今日って、また唐突な…」
赤い口元で、白い歯が顔を覗かせる。
「善は急げだ、塩谷君!」
面白そうだから昼には私もつつきに行くよと、蒲田はにこりと笑った、と塩谷は傍らの山城に伝えた。
それは、とてもとてもいい笑顔で、背筋が寒くなった、とも。
「そりゃいいや。
トーマと明奈で考えたなら、上手くいくだろ」
満足げに鼻を鳴らした山城の顔には、晴れやかな笑みが載っていた。
その笑顔にそうかよと苦味の混じった笑顔を返しながら、塩谷は思う。
(明奈が出るんじゃ、大荒れに荒れそうだけど)
転がりすぎて、大破しなければいいが。
降りしきる雨は、まだまだ強くなる予感を見せていた。
* * *
明日は休みだ課外も無い。
早起きなんかしなくてもいい、ずっと昼まで寝てもいい。
そんな歌い出しそうに喜ばしい事実を目前に、何時もならば気合の入るはずの金曜日の午前中を、あさぎは鬱々とした気分で消費した。
理由は一つ。
今朝の通学途中に出会った、塩谷と名乗る一つ上の先輩の所為だった。
『もう一度泳げ、早瀬あさぎ』
その声が暗鬱な思いの中にどれだけ甘やかに響いた事か。
泳ぎたい。
言ってしまえばいい。
しかし、それはただの自己満足に過ぎず、彼らの期待を裏切る事になる。
彼らが欲しているのは『二年前の早瀬あさぎ』。
泳ぐことができる早瀬あさぎなのだ。
誰であろうと、これ以上、自分を嫌って欲しくない。
無謀で、出来るはずの無い事など重々承知だ。
けれど、切に願ってしまうほど、この思いはあさぎの中に深く根を張っている。
泳ぎたい気持ちと、泳げない事実の狭間。
現実と理想の間で、あさぎは揺れに揺れていた。
昼食用に買ってきた焼きそばパンはぼそぼそとした感触があるだけで、味がほとんど感じられない。
味覚は嗅覚だけでなく気分の影響も受けるのだと実感した。
しかも視覚や行動にも悪影響があるらしく、お茶のパックを手に取ったつもりが、コーヒー牛乳を買っていたというオマケ付きだ。
(重症だな、おれ)
喉の渇きに観念して、紙パックにストローを突き刺す。
いく度目になるか知れないため息を吐き出すあさぎに、共に昼食を摂る三人の友人の一人である牧が不審そうな顔を向けた。
「ため息ばっかりついて、どうしたんだよ?」
問い掛けに、なんでもないよと曖昧に笑ったあさぎの背後で、声がはじけた。
「それだけ重苦しいため息吐いて、何でもないって事はないでしょ」
あさぎが声の方に顔を向けると、ミニトート片手に癖の無い黒髪を揺らして少女が小首を傾げてみせる。
「ほーら!元気出しなさい、少年」
肩を叩かれたあさぎが衝撃にむせ返り、反応を返せないで居るうちに、少女はつかつかと教壇の上に進んだかと思うと手を叩いて教室内の視線を引いた。
その行動に迷いは一切、感じられない。
何をする気なのだろうかと、教室が一瞬にして静まり返る中、少女は再び朗々と声を響かせた。
「注目ー!ほとんどの皆さんに初めまして、私は新聞部の蒲田明奈です。
一部の皆さんに、よう、久しぶり。
一年一組で昼休みをお過ごしの皆さん、お昼時にお邪魔しちゃってゴメンね」
「かまわないっスけど、新聞部さんが何か御用?」
クラスのお調子者、河野の問いかけに新聞部部員はにこりと微笑んだ。
「実は、学校新聞の記事のため、新入生にインタビューをして回っているの」
「インタビューっスか?」
「そう。学校の雰囲気に対する印象とか、入った部活についてとかね。
そう言えば、今年度の入学生は部活への入部率が低いって調査結果が出てるんだけど、君達は部活やってるの?」
君は何も入ってなさそうだなぁ、と明奈と名乗った少女は小首を傾げる。
「スゲー!何で分かるんスか!?」
河野は大げさに驚いたというリアクションを取り、周りからふらふら遊んでそうに見えるからだろうなどと茶々を貰っている。
それに合わせる様なおどけた動作で指を振りながら、蒲田調査員はちっちっちと舌を鳴らした。
「新聞部なめちゃいけない。見た目じゃ判断してないよ。
さ、他に部活入ってない子は…挙手!」
叫んで、腕を高く挙げる。
分かるんじゃないんかい!と河野の的確なツッコミが飛んだ。
「なんか、凄い元気な人だね」
突然現れた少女の、文字通り一挙手一投足に目を丸くした牧の呟きに、あさぎは同意の肯きを返した。
そして、彼女のような度胸と実行力があれば、こんなにうだうだと悩むことはないのにと、また気分が沈む。
一身に注目を浴びる新聞部員はほとんど挙がらない手に、こんなもんじゃないはずなんだけどなとぼやいて唇を尖らせた。
「皆、手、挙げてよ。
自分の教室で発言する程度のことでビビるな。
例えばそこのアンパン食べてる子!どうして入らないの?」
指名された確か小峯と言う苗字のクラスメイトは、新聞部の勘通りに部活をしていないらしく、驚きつつも部活よりも他に楽しいことがあるからですと答えた。
なるほどねと呟いて、空色のメモ帳になにやら書き込むと、蒲田は教室をぐるりと見渡す。
無所属と思える人間を探しているのだろう。
視線さえ合わせなければ大丈夫だろうとタカを括って、あさぎは甘い茶色の液体をすすった。
「…じゃ、次、そこで焼きそばパン食べながらとコーヒー牛乳飲んでる君」
二人ほど指名された後、びしりと差された指の先は、無関係を決め込んでいたあさぎへと真っ直ぐに向いている。
所詮自分には関係の無い、遠い場所の出来ごとに感じていたのに、急な現実がそこに現れた。
気管に異物を感じてむせ返る。
教室の視線が自分に向くのを感じた。
気持ちの悪い汗が噴出す。
心拍数が上がっていく。
『調子に乗るからだ』
昔聞いた声が、何度もリフレインされて、あの時に戻ったような感覚を覚えた。
口の中が、苦い。
ひどく暗い黒が、口を開けて待っている。
呼吸が、出来ない。
沈んでしまう。
「早瀬、大丈夫か?」
一瞬ヒューズが飛んだように事切れた思考は、牧の声と肩を小突かれる感触によって正常に戻っていく。
ここはプールじゃない、教室だ。
自分はもう中学生じゃない。
あの場所からは三ヶ月近く前に卒業したじゃないか。
あさぎは重く凝った息を吐いて顔を上げた。
興味の視線に顔が火照る。
「…僕、ですか」
「そう、君だよ」
新聞部員はやっと反応してくれたかと嬉しそうな顔をして、万年筆をくるりと回した。
「どうして部活、やらないの?」
「…興味が無いから、です」
興味の視線が逸れていく感覚に、この場において無難な答えを述たと胸を撫で下ろすあさぎに、蒲田はふぅんと気の無い相槌を打って真っ直ぐに視線をつないで来た。
内面を読まれる気がして視線を逸らしたあさぎは、微かな既視感を感じていた。
「その答え、嘘だね」
蒲田は教壇の上から言い切った。
その妙な断定と語気の強さに教室がざわめく。
「何を見ない様にしてるのか知らないけど、目を逸らした時点で、解ける問題も解けないよ」
違う?――そう問うてくる視線に、今度は確かな既視感がした。
デジャブだ。
脳裏を、染められた明るい茶色がチラつく。
「ったく、なんでこう今年の一年生は、非協力的なんだ。
このクラスで最後なんだけど、最初のクラスの黒羽大成ってのにも、はぐらかされちゃったんだよなぁ。
水泳関係者の中では有名人だったから、なんで部活をやらないのか聞いてみたかったのに」
あさぎの在籍するクラスは一年一組。
木田高校の各学年が七組で編成されている。
そして、ここが最後のクラスと言うことは、つまり。
『七組に行ってみろ』
塩谷の言葉が、耳に蘇る。
あさぎと共に、塩谷達が目を付けた七組の人物。
水泳関係者に有名な、黒羽と言う男。
それは、もしかして。
そんなはずは。
思考が乱れる。
ガタリと言う椅子を引く大きな音が、教室に響いた。
視線は、再び蒲田からあさぎへと流れて来る。
「おい、何処行くんだよ、早瀬!」
足音と呼びかけられた声を残して、ばたばたと慌ただしくあさぎは教室を飛び出して行った。
何時もは大人しいあさぎの唐突な行動に、教室は呆気にとられたように静まり返る。
同じ食卓に着いていた者同士、顔を見合わせている。
あさぎと共に昼食を囲んでいた残り三人も同様だった。
我に返った河野が聞く。
「…あの、追いかけなくても?」
蒲田は困惑の声にひらりと手を振って、いいのいいのと軽く答えた。
「残り時間は君達の話を聞くよ。
―――なにせ、私の仕事は首尾よくいったみたいだからね」
疑問符を浮かべる一年一組の生徒達を他所に、蒲田は意味深な笑みを浮かべたまま、次の獲物を見定め始めていた。
昼休みは、残り三十五分。
嵐は、続く。