走る、走る。
廊下の一番端同士、一年一組から七組を目指して。

向かった先で何をするかも、何を言うかも、あさぎは何一つ考えてはいなかった。
真っ白な上履きとリノリウムの床が擦れて鳴る音が、遠く響く悲鳴のように聞こえる。

頭の中が、ぐらぐらと沸騰していた。
怒り、悲しみ、煩悶…何とも判断の付かない感情のままにあさぎは廊下を走り続ける。

青い空。
盛り上がる白い雲。
塩素のにおい。
輝く水面。
飛び散る飛沫。

荒れる思考に繰り返し現れる、過ぎた季節の記憶。
思い出と呼ぶには近すぎて、現実と呼ぶには遠すぎる、五感に染み付いた現実だったもの達。

その望む限りは続いて行くと思っていた世界は、不意に手のひらから零れ落ちた。

取り戻す術はない。
そう気付いた時、あさぎは『泳げない自分』という新たな現実から目を背けた。
だから、この木田を進学先に選んだのだ。
ここならば、泳いでいた自分を知る者はいない。
泳ぎたいと言う感情を押さえ込むために好きでもない勉強に目を向け、水泳部の存在しないここに来たのだ。

ならばあいつは、黒羽はどうなのだろう。

青く澄んだあの場所で、追いつきたいと、追いつかなくてはと、一心に水を掻いて追いかけた背中を思う。

追いつきたい、何時の日にか追い抜きたいと心が焦れた泳ぎ。
泳ぐためだけに鍛えられた、日に焼けた体躯は、滑る様に、流れる様に水中を突き進んでいく。

水の抵抗などものともせず、迷い無く水を掻いては、自分の水路を切り開く。
自由で、強くて、負けない。
その姿は、まるで、青い空を真っ直ぐに飛ぶ、黒い鳥だった。
ただ、ひたすらに前だけを目指す。
後ろに誰が追い縋ろうが、関係無いと言わんばかりに、ただ前に進む。

黒羽大成は、そういう泳ぎをする男だった。

そんな男が、木田高校に居るのだとしたら。
座布団を広げて待っていただろう、数々の私立を蹴ってまで、水泳部の無いこの高校に居るのだとしたら。

もう、泳いではいない。

きっぱり、捨ててしまったはずだ。

あさぎの、握った拳に力が籠められた。
目の前に一年七組のドアが迫る。
木田高校の四階、長い廊下を一息に駆け抜けても、道理もなく荒れ狂う感情は静まらなかった。

「クロバネって奴、居る!?」

気付いた時にはそう叫んで、飛び込んでいた。
引き戸はそのはめられた擦りガラスを揺らして凄まじい悲鳴を上げる。

呆気にとられた数々の視線があさぎに集中する。
怖くて怖くて仕方が無いはずの『目立つ事』なのに、恐怖は感じない。
感じていたのは、振り向く沢山の視線の中に見つけた、釣り目の仏頂面に対する空白。

自分でも信じられない事に、視線への恐怖どころか、怒りも、失望も感じなかった。
忘れもしないその顔に、何も感じられなかった。

抱えていた情動が消えていく。
荒れ狂う激情が冷えていく。

嵐の後の、行き成りの凪。
椅子から立ち上がる様子すらない男の、驚くでも不思議がるでもない無感動な瞳を真っ直ぐ捕え、あさぎは茫然と動けなくなった。

新聞部員の言葉を聞き、咄嗟に走り出したものの、心の底ではこの男が木田高校にいると言うことを、水泳を捨てたという事実を、信じては居なかったらしい。

「黒羽、大成」

あさぎの口から呼び掛けとも、ただの単語とも取れる声が漏れた。
自分の物とは思え無いほど、震えて、掠れている声に反応したのは、大成の正面に座っていた人物だった。

「知ってる奴?」

胡乱気な様子を隠そうともせず、傍らの友人に問う。

大成は表情一つ変えないまま、首を横に振った。

「覚えはないな」

その一言に、あさぎは頬を殴られた気がした。

二年前、最後に出場した県大会。
その自由形の決勝戦で、あさぎは初めて大成に追いついた。
今まで観戦席で見ているか、その遥か後ろを泳ぐことしか出来なかった自分が、王者黒羽を脅かした。
ゴールの壁を叩いた時間の差は、僅かゼロコンマ三秒。

ギリギリで負けた悔しさよりも、追いつけたことに誇らしさを感じていた。
思わず視線を投げた先で、大成が負けたあさぎよりも悔しげに唇を噛んでいたのを、忘れない。
忘れられない。

黒羽大成のライバルとして、その視界に入ることができた。
前進しかしない男を、視線だけでも振り返らせる事が出来た気がしていたのに。
泳いでいた自分という存在を、黒羽が覚えていてくれると言う事を、泳げない自己への慰めとしていたのに。

(情けなさすぎる)

羨望とも対抗心ともわからない感情で大成に固執していたあさぎと、たった一度追いつきかけたあさぎの存在など、意にも介して居なかった大成。

確かすぎる温度差を感じた。
脳裏を過ぎる思いは言葉にならず、そのまま行方不明になる。

指先が、肩が、言いようのない感覚に震える。

込み上げるのは、怒りなのか悲しみなのか。
もしかしたら、あの時感じなかった、悔しさかもしれない。

頭上高くを軽々と飛び続け、その上、その下でもがく物など居ないかのようにすんなりと捨ててしまう、傲慢なほどの潔さ。
その未練の無さが憎い。
伸びた背筋が憎い。

睨みつける目の前が白んだ。
頭に靄がかかる。

震える腕は、大成の胸倉を握りしめていた。

「放せ」

座ったままの大成の声に、微かな怒気が混じる。

振り払おうとする手と、放すまいとする手。
抵抗する方に引かれたワイシャツの白い布地の間から、少しだけ日に焼けた首筋が、覗いた。

大成はネクタイを締めていない。

些細な事だが、あさぎにはそれが決定的な自分と相手の差に思えてならない。
きちりと首元を締め付ける紅い布が無いというだけなのに、捉えられて動けないのは自分だけなんだと見せつけられた気がした。

悔しい。
哀しい。
鈍痛が、胸の内を支配する。

「何で、泳いでないんだよ。
 何で、お前がここに、木田にいるんだよ」

堰き止められていた感情が、容量オーバーを訴えて、痛みに呻く様な呟きが零れ落ちる。
自由を得ようとする動作を止め、ポーカーフェイスがほんの少しだけの困惑を滲ませる。

「何だ、何が言いたい」

そう言って、大成は立ち上がる。

気色ばんだ訳でも、あさぎを振り払うためでもなく、ただ、挑むように立ち上がった。

泳ぎと同様、余計なもの全てを削ぎ落とした様な言動。
目の前にいるのは何処までも、あさぎが強く憧れた男だった。

鼻の奥がつんと痛む。

涙の匂いに、あさぎは黒羽に掴みかかったまま俯いた。
それでも、ここで想いを吐露する事を止めたら、何のためにここに来たんだと、あさぎは己を叱咤する。

黒羽は、水泳を捨てていい人間じゃない。
泳ぐことを捨てさせていいわけがない。
そう思う。

己の存在が認識されてなくてもいい。
この声が有象無象のざわめきであっても構わない。
ただ、どんな理由があるのかは分からないが『泳ぐ気が失せた』だけならば。
水に顔を浸ける事すら恐れるようになった自分と違って、まだ泳ぐ事が出来るのならば。

あさぎは、震えそうになる足に力を込める。

「逃げるなよ、黒羽大成」

ぴくりと、大成の肩が揺れた。
俯いたあさぎは、気付かない。

「おまえ、まだ泳げるんだろ?
 …だったら、泳ぐことを簡単にやめるな。
 泳いで、泳いで、チャンスがある限り泳ぎ続けろよ!
 自分は泳ぎ続けなけりゃならない人間だって、もっと自覚しろ!」

引き寄せた黒羽の顔が、視野の内の景色が、滲んで揺れている。
唇の戦慄きが抑えきれなくなった。
それでも、あさぎは声を紡ぐ。

「お願いだから、こんな所でくすぶってんなよ…」

しんと、教室中が静まりかえる。
あさぎと大成を中心として、生まれた沈黙が、波紋のように伝播する。

「止めろ」

いく重にも重なる円の中心で、再び空気の振動が起こった。

「おれに、何も望むな。
 期待なんか、するんじゃない」

静かな声に、あさぎは愕然と顔をあげる。
間近で見上げる表情は凪いでいて、あの日、表彰台の一段上に立っていた顔との差は、無い様に見えた。

(駄目だ)

思っても、一度決壊した感情は制御が難しく、涙は容易に頬を伝う。
掴み掛っていると言うよりも、縋りついている状態に変わっていたあさぎの手首を、大成はゆっくりと捕える。
すでに僅かな力が込められているだけだった指は、簡単に剥がされた。

大成の瞳を、不似合いな嘲笑の色が過る。

「おれは、もう、泳がない。
 泳ぐわけにはいかないんだ」

そう言うと、後はもう何事も無かったかのように机の中を漁った。

「行こう。次は化学だ」

そして、昼食を共にしていた男が返事を返すよりも早く、ペットボトルをぶら下げて、大成はあさぎの横をすり抜けていく。

そんな大成の行動は、周囲にも時間の経過を思い出させる。
教室の前方に掛けられた時計は、昼休みが残すところ十分を切っている事を告げていた。

ざわざわと、教室に喧騒が戻った。

手の中の感触は、消えない。
ぬぐい去れない。

立ち尽すあさぎを置き去りにして、梅雨は刻一刻と夏へと向かう。

「何なんだ、あいつ」

大成の苦い呟きは、あさぎの鼓膜を揺らす事無く、雨の音に呑まれていく。

大成はペットボトルを傾ける。
走り去る足音を聞きながら大成に並んだ佐脇は聞いた。

「また水飲んでんの?」
「妙に渇くんだよ」

いくら水を飲んでも、癒えない乾き。
水泳の毎日の中で生きてきたとは言え、それに気付かないほど、大成は鈍麻していない。

渇いているのは、喉だけではない。

大成の目が、再び自嘲の色を刷く。
名前も知らない、あの男の目は真剣だった。
その真剣さに釣り込まれるかのように、留めていた思いの一端を吐き出してしまった。

けれど、それでも、胸の中の澱は消えない。

自分は、飢えている。
乾いている。

何に?

それだけがもやもやとぼやけたまま、分らなかった。


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