Fight a duel or run way?
鐘が鳴った。
昼休みの終了を告げるチャイムが、無情にも、鳴り響いた。
七組の真ん中に立ちつくし、大成の背中を見送る事すら出来なかったあさぎは、ぼんやりとした表情で、膝を着いていた。
嗚咽はもう、とうに治まった。
頬を伝っていた涙も、すでに乾いてしまった。
それでもあさぎは、顔を上げられずにいた。
目元が熱くて。
喉に、異物感があって。
そして、身体の奥がしくしくと痛む。
こんな状態で教室には、戻りたくなかった。
誰かの居る所に、向かいたくはなかった。
慰められるのも、笑われるのも、叱咤されるのも、堪らなく嫌だった。
視界の隅が、ぼやけている様な不快感に目を乱暴に擦る。
生暖かい空気の中で、床だけが冷たい。
まだ担当教師が来ていないのだろう教室のざわめきに交じって、電車の走る音が遠鳴りのように聞こえる。
(…帰ろう)
あさぎはふらりと立ち上がった。
好都合にも、携帯電話と財布は、そこかしこのポケットの中に収まっている。
教科書やその他の荷物は教室に置いたままだが、取りに帰ると言う気分ではない。
どうでもいいような気持ちでとぼとぼと、正門までの道を歩く。
大した荷物も無いのに、なんだか体が重く感じられた。
耳が少し寂しい気がして、思い当たる。
いつも持ち歩いているポータブルプレーヤーも忘れて来た。
登下校の際、何時も外界を遮断していた音がないため、耳はとても敏感に周囲の音を拾ってしまう。
それがなんだか、とても不安で、恐ろしかった。
教室の喧騒は消え去り、教師の授業の声が切れ切れに届く。
体育館からは楽しそうな笑い声、と威勢のいい掛け声が漏れてくる。
雨音の隙間を縫って、ギイ、と金属が軋む音がした。
音のした方に視線を送れば、いつも締まっているはずのサビの浮いたプールの門が、風に揺れている。
なんだか、それに呼ばれている様な気がして、あさぎはふらふらと近寄って行く。
道場と体育館に挟まれた道を抜けて、吸い寄せられるようにその門を目指した。
あれほどに近寄りたくはないと思っていた場所だが、今は何も感じない。
感じられないのだ。
近づきたくないと思っていたのは、二つの事実に引き裂かれそうで、痛かったからなのだから。
泳ぎたいと願う自分と、水に顔すら浸けられなくなった自分。
想いとは裏腹に、水を拒否する身体。
泳いでいた頃の誇らしい記憶と、今の泳げない、情けない自分。
けれど今では、その誇らしかった記憶でさえ、無くなった。
後生大事に抱えていた記憶さえ、都合の良い妄想だったのだと思い知らされた。
『黒羽大成』のライバルになれたと言う、自分のちゃちな自尊心。
何故、あんなにも執着したのだろう。
何故、あんなにも泣いたのだろう。
何故、何故、といくつもの疑問が湧いては消えて、そのたびに崩れていく何か。
その瓦礫の山に残ったのは、情けなくて、弱くて、馬鹿な自分。
腕を強く引いていた一方は儚くも消え去った。
そんな自分にとって、プールなど、もう、どうだっていい。
久々に訪れたプールには、張られたばかりの水が揺れていた。
授業としてのプールは来週からで、今、使用者は居ない。
あさぎは、プール脇のスタート台近くのベンチに座り込む。
日よけの屋根の下、背もたれに寄り掛かり、更衣室前の打ちっぱなしの廊下とプールサイドとを隔てる柵に頭を預けて、涙を流す空を見上げた。
曇天は何処までも重く圧し掛かってくる。
目を閉じて、塩素の香りを吸い込むと、どうでもいいと思ったはずなのに、無性に辛くなる。
自分が何をしたいのか、わからない。
感情は迷子になったまま、あさぎのもとには帰り着いていない。
これ以上泣くのは、口惜しい。
彼の様にあっさりと切り捨ててしまいたかった。
ゆっくり、ゆっくり息を吐いて、頭の中を真っ白にしようと試みても、耳に蘇る声は。
『おれに、何も望むな』
価値観など人それぞれで、同じであるはずなんて無い。
そんな事は百も承知で居る。
なのに、その価値観の違いに傷付く自分が馬鹿らしい。
自分が大切にしていたものを、ああも簡単に否定される事が、口惜しい。
「泣くな、泣いたって、仕方ないだろ…」
あさぎは呟く。
奥歯を噛み締め、肺いっぱいに空気を送り込んだ。
「そのとーり、泣いてたって何にも変わりゃしない」
ギイと言う音とともに声がした。
聞きなれた訳ではないけれど、覚えのある声。
それは、水泳部創部を企む、塩谷透馬の声だった。
あさぎは目を開け、背中の入口を振り返る。
「どーも、二度めまして。
今朝ぶりだな、早瀬あさぎ。
紹介するよ、こいつが例の水泳部立て直しの発起人」
「初めまして、二年の山城基一だ、よろしくな」
塩谷の横に居た大きな男は、人の良さそうな笑顔を顔一杯に浮かべながら、柵を回ってプールサイドに踏み込んだ。
涙の後で、目もとが赤いままのあさぎの様子など関係無いかのように、右手を取ると盛大に上下に振る。
豪快な握手に、あさぎの首までががくがくと揺れた。
「いやー、大成だけじゃなくて、北ノ台の早瀬までこの学校に居るんだから。
これはきっと、おれ達に水泳部を復活させろってことなんだな!」
握られた手から腕、そして足を触られる。
予想外の行動に、あさぎはベンチに座ったまま、抵抗も出来ずに目を白黒させながら、山城のされるがままになっていた。
「お、しっかりした脚の筋肉。
これのお陰かな、肩幅が特にがっしりってわけでもないのに、ばかに速いの。
なぁ早瀬、確か一年以上ブランクあるんだよな?
それでこの状態かぁ…、これは確かに即戦力だよな、うん」
一人納得した山城の検分の手が、あさぎの太股に及びかけたところで、塩谷が山城の肩を叩いた。
「おい、基一。
セクハラもそれくらいにしておけ。
変な趣味で水泳部を創部する気でいるとか思われたら問題」
「あ、早瀬ごめん!なんかおれ、テンションあがっちゃってた」
「そう言う意味じゃないのは知ってるけど、男の身体触った直後にその発言は引くわー」
「だってさ、これだけしっかり鍛えるのは大変だぞ?」
塩谷の台詞に恥ずかしそうに山城は頭を掻いたあと、あさぎの赤い目を見上げるようにしゃがんで、顔を引き締める。
「なぁ、早瀬、おれ達の仲間になってくれないか?
今はあんなことを言っていても、大成だって、いずれは泳ぐために戻って来る。
そうすれば、早瀬はここで、また、大成と泳ぐことだって、出来るんだ」
切れ長三白眼の眼光は鋭い。
けれど、脅す様な類のものとは違う真剣なそれに、あさぎは息をつめた。
今朝、言えなかった事を言わなければ。
言えるかもしれない。
そう思った瞬間、喉が鳴る。
背中が、じとりと濡れて気持ち悪い。
「大成が泳いだって、無理ですよ」
ざあざあと、雨が降っている。
「――おれ、水が、怖いんです」
目の前の視線を、正面から捉えるのが恐くて、あさぎは俯いた。
俯いたら、視線が合わなくなって、少しだけ、声が出しやすくなる。
どこまでも臆病な自分に、少し笑える。
心臓の刻む音が、耳につく。
雨音に負けない様に、あさぎは声を絞る。
「スタート台に立っただけで、足が震えて、それだけでもう駄目で…
怖くて、仕方ないんです」
そこまで言うと、また、目頭が熱くなる。
紛うことなき真実。
何度突きつけても、苦しい、苦しいと嗚咽が聞こえる。
思い出すのは、暗い、暗い、プール。
黒い、黒い、水。
浮上しなければならない事は、分かっている。
それでも、上がどこだか分らないのだ。
不快な笑い声が水面の向こうから聞こえてくる。
ここは、いやだ。
苦しい。
息が、胸が。
「―――もう、おれは絶対泳げないんです!」
わんと、記憶を振り払うように叫んだ声は、頭の深くまで響いて。
頭が割れるように痛む。
パタパタと、数滴の雫が膝を濡らした。
顔を上げられずにいると、宥めるように二度、頭を叩かれる。
「そう、だったんだ。
言いにくいこと、聞いた。悪かったな」
心底すまないと思っている、重く、沈んだ山城の声だった。
「それでも、そんな状態でも、大成の所に行ってくれたんだな。
ありがとう」
礼の意味を測りかね、あさぎは顔を上げ、山城を見る。
「大成に、『泳ぎ続けなけりゃならない人間だ』って言ってくれただろ」
「…すっぱり、否定されちゃいましたけどね」
あさぎの言葉に山城は、困ったような顔で笑う。
「あいつもまぁ、頑固だからな。
絶対に、泳ぎたいはずなんだけど、泳げない理由があるはずなんだ」
山城の断言に、塩谷は馬鹿らしいとばかりに首を振る。
「泳ぎたいなら素直に泳げばいいのに、面倒なことこの上ない。
しかも、早瀬、お前さんはあれだけ熱烈な愛の告白をしたってのに、黒羽は完全スルーだ」
ギシリと鉄柵に寄り掛かり、塩谷は目の端だけであさぎを見る。
「それでも、黒羽を泳がせたいか?」
あさぎは、首を巡らせ塩谷を仰いだ。
呆けたような声だが、確かに、呟く。
「泳いで、欲しいです」
にっと、塩谷は片頬を釣り上げた。
ちらりと、八重歯が覗く。
ギシリとベンチを揺らして、あさぎの隣に山城が腰を降ろした。
「本当に、いいのか」
頷いて、肯定すると、慰めるように背中を叩かれた。
強めの力で、少し痛い。
塩谷が、すいと目を細める。
「そうと決まれば、明日の午後六時に水着持ってまたここに来い。
泳げないとか、四の五のぬかして逃げるなよ。
お前さんは水着着て飛び込み台に立ってりゃいい。
あいつ、いまだに朝夕のランニングを欠かしちゃいないらしい。
つまり、あいつは泳ぐことに未練たらたらだ。
だったら、おれ達で泳がせてやろうじゃないか。
突き落として、だってな」
言いたい事だけ言うと、塩谷は寄り掛かっていた柵を蹴って上体を立て直し、プールサイド出口へと歩いて行く。
「あ、おい、トーマ!」
去りゆく背中に声を上げ、山城は慌ただしくベンチから立ち上がった。
ごつごつとした滑り止めタイルを走り、コンクリート剥き出しの入口部分まで行った所で、何かを思い出したようにUターン。
ばさりとあさぎの上にタオルを落とした。
視界が白に覆われ、プールと雨空は姿を消す。
洗剤の匂いがした。
「これさ、持ってただけで使ってないから、やるよ。
このままここを出るんじゃ、格好付かないだろうから顔拭きな。
泣くのは、悪いことじゃないけど、泣き続けているわけにはいかないしな」
タオルの上から二度、あさぎの頭を抑えるように叩いて、視界から二本の足は消えた。
少し離れた所で、鍵は放課後までは閉めないでおくよと山城の声がする。
続いて、柵が軋む音も。
目の奥が熱い。
あさぎは、膝に顔を押し付けた。
堪え切れず、噛みしめた歯の間から嗚咽が漏れる。
「…っくしょう、水に入れるなら、おれだって」
涙に掠れた声は雨に滲んで消える。
そしてそれから、あさぎは涙を流し続けた。
悲しみなのか、口惜しさなのか、憤りなのか。
理由の曖昧なまま、涙は流れ続けて。
携帯電話が牧からの着信音を三度短く鳴らすまで、あさぎはプールサイドを離れられずにいた。