どこかで、気の早いヒグラシが鳴く。
雨雲の灰色が空を覆う、約束の夕暮れ。

山城はベンチに座り、プール横の神社の林の中から聞こえる、気の早い蝉の声を聞いていた。
その横では、塩谷がしゅこしゅこと足踏みポンプを踏んで、浮き輪に空気を送っている。

「さて、これで準備完了。
 『もしも』があっても、助けられるぜ」

最後の一踏みを殊更思い切り踏み込む。
口を栓で止め、大きく頷いた頭に合わせて、汗ばんだ前髪が束になって流れた。

「…あのさ、今更だけど、ホントに大丈夫なんだよな?」

問いに、塩谷は山城を振り向いた。
その顔にはでかでかと『気が進まない』の文字が見える。

「大丈夫だって、腹くくれよ。
 おれ達にはそう長い時間が残ってるわけじゃない。
 悪いが多少荒っぽくなっても、目的は達成しなきゃならない。
 黒羽勧誘前にそう言ったのはお前だろうが、基一。
 それに、ここまで準備しちまったんだ、今更後には引けないだろ。
 状況的な面でも、気持ち的な面でも、な。
 そうだろ、……早瀬?」
「――はい」

ギイと、山城の左手で、物置の扉が開いた。
中から出てきたあさぎは、水着に水泳帽姿。
そのまますぐにでも泳ぎだせそうな装いだった。

ゆっくりとした足取りで、二人の前に立ったあさぎに、ヒュウと塩谷が口笛を鳴らした。

「似合ってんじゃん。
 長い間、水泳捨ててる奴とは思えないぜ」

言いながら放たれたゴーグルを、あさぎは左手で受け止る。
昨日の気弱さはどこへやら、その顔はきりりと強い。

「さてと、駒は出そろった。
 あとは黒羽の野郎が来るのを待つだけだ。
 ところで基一、ホントに黒羽は来るんだろよな?」
「来るよ、絶対。
 おれ達には頼もしい味方がいる」

山城の答えに、塩谷は片頬を釣り上げる。

「言い切るじゃんか、頼もしいな。
 それじゃ、黒羽獲得作戦、決行だ」

プールの大時計は、六時半を示していた。





 * * *





夕暮れの住宅街を影が走ってくる。
一つは何処まで近づいても影のように真黒な、大きな犬。
もう一つはその犬が寄り添って走る、大柄な少年。

日課である夕方のランニングを終えた大成と、その愛犬、ケンゾウだった。

大成の息は、弾んでいる。
何時もなら、息の一つも乱さず走り抜ける事ができる、慣れたランニングコースであるはず。
それなのに、肩で息をするほどに、息が荒れる。
額からは汗がだらだらと不快なほどに流れ落ちて、切れ長の目をしょぼつかせた。

(十五分はロスしたな)

瞬きで汗の粒を払いながら、大成は腕時計を見やる。
予定よりも帰宅が遅れてしまった。

急いで夕飯を作らなくてはならない。
今日の夕食当番は大成で、ただでさえ感情の上下が激しい祖父は、腹が減ると、押し黙ったまま口も利かなくなるのだ。
家の中で二人きり、その状況は少々辛い。

ランニングの途中、重くもつれた足を呪う。
無駄な思考をする脳に、酸素を奪われたのだ。
呼吸の荒れる理由もまた、同様。

余計な思考は、未だ頭を支配する。

『お願いだから、こんな所でくすぶってんなよ…』

そう言ったきり、膝を折った男。
名前も知らないそいつは、馬鹿みたいに、真っ直ぐに真っ直ぐにぶつかってきた。

(それに、)

大成は考える。
何故、どうして、あんな風に泣いたのか。
自分が水泳を辞めたことが、あの男に何をもたらしたのか。

考えても、考えても、分からない。
答えにようなものに辿り着けたとしても、それを否定する声がする。

『お前の代わりなんかいくらでもいるんだ』

そう、だから、こんな思考は己の自惚れでしかなくて。
それでも、何度振り払っても、泡のようにこぽこぽと浮き上がっては頭の中を満たしていく。

「もしかしたら」を何度も打ち消しながら、大成はポストの蓋を開けた。

その脇をすり抜けて、ポストに顔を突っ込んだケンゾウが夕刊をくわえる。
それは、十五分遅れの何時もの出来事。
玄関へと踵を返したケンゾウの口の端から、折りたたまれた白い紙が、舞落ちるまでは。

夕闇に舞う白に、大成が愛犬を呼ぶ。

「おい、ケン。何か落とし――」

紙を拾い上げようとしたその指が止まる。
目は、その紙に吸い寄せられた様に動かない。

折られた白い紙。
表面には下手な筆遣いで『果たし状』とあった。
不格好な文字には、見覚えがある。
頭の中で、クシャリと慣れた笑顔が浮かんでは消えた。

どうして放っておいてくれないのか。

腹の中で苛立ちが煮える。

拾い上げて、大成は指先に力を込めた。

破ってしまえ。

そう思った。

風が吹く。
雨の匂いの乗った風に煽られ、手紙は、開かれることも破られることも無く、手の中でかさかさと音を発てている。

「おう、大成。
 いつまでそこでぼさっとしてんだ?」

がらりと、黒羽家の引き戸式の玄関が開いた。
古びた戸は、カタカタとはめ込まれたガラスを揺らす。

「何だ、手紙か。
 読まないで、いつまで持ってても仕方ないだろうが」

出てきたのは大成の祖父、喜代造だった。
言うが早いか、スパンスパンと履き古した草履を鳴らし、孫のすぐ横に並ぶとその手の内から手紙をさらってしまう。

「あ、おい、じーさん、止めろって」

孫の戸惑う様な声など聞かぬふり、老人らしからぬ動きで、喜代造は大成から遠ざかる。
それから、枯れた指先をぺろりと舌で湿して、『果たし状』を開いた。
中身も包み用の紙と同じ筆跡の文字が並んでいる。

老眼鏡の上から覗く目が細められ、紙を遠ざけ、紙面の文字を追った。

「なになに、黒羽大成へ、木田高二年山城基一が、決闘を申し込む?
 200メートル、泳ぎ方は何だっていい、勝ったらお前は水泳部員。
 負けたら、今後一切、水泳部に入れとは言わない。
 今夜七時、木田高校のプールで待つ、か。
 山城基一っちゃ、金毘羅さんとこの坊主だな?」

どうするんだ?
朗読を止めた喜代造に問われて、大成は答える。

「行かない。
 おれは、水泳は嫌いだ。
 だからやめたんだ。
 それに…今日はおれが夕飯当番だろ」

明後日の方を向いたまま答える大成に、喜代造は年月によって刻み込まれた眉間のしわを深くした。
普段はしっかりと相手の目を見て話す大成が目を逸らすのは、何かを隠したいと思った時。
今は黒羽家の愛犬であるケンゾウを、弟と二人こっそりと拾い、納屋で匿っていた時と同じだった。

そうして、喜代造は鼻の穴まで大きく膨らまし、息を吸い込む。

「こっの、大馬鹿野郎が!」

夕暮れに、怒声が轟いた。

長年の職人生活で鍛えた喜代造の喉が、吠える。
禿げあがった頭まで紅く染め、血管を浮き上がらせ、老人は声を張り上げた。

大音声に驚いたのか、庭を闊歩していた鳩が羽音を残して逃げていく。
驚いた大成は、目を剥いて祖父を見た。

「だったら、オレの顔見て言ってみろ!
 本気で嫌で泳ぐが嫌でやめたって言うなら、言えるはずだろうが」

そうして、喜代造は顔中に皺をつくって笑う。

「飯は要らんから、自分の気持ちに決着つけて来い!
 それができるまで、家にゃ入れないから、覚悟しておけ」

かかかと言う大好きな水戸黄門そっくりの哄笑を最後に、玄関の戸は再び閉じられた。
ぴしゃりと無愛想な音を残して。

溜息を曇り空に吐き出し、大成は額を押えた。
右手の中では、果たし状の文字に皺が生まれる。

「ほぅら、持って行け、大!」

二階の窓から、声と共に影が降って来る。
それは大成の古い鞄で、中には水着にゴーグル、ご丁寧にタオルまでもが詰め込まれていた

水泳部を引退すると同時に、燃やしてくれと差し出した水泳道具一式を、どうやら祖父は保存していたらしい。

喜代造の横、二階の窓から顔を出したケンゾウが、エールを送るように、ウォンと大きく一声吠えたのを最後に、窓は閉められる。

橙の落ち始めた小さな庭に、一人取り残された大成は呟く。

「何のために、おれが泳がないと思っているんだ、クソじじい」

左手の腕時計が示す時刻は六時半。
木田高校のプールに着くには、丁度良い時間だった。





 * * *





あさぎは、ごくりと唾液を呑み込んだ。
プールの入口とは反対側、真ん中第三レーンのスタート台の上で、あさぎは水面を見つめている。

頭上に広がる今にも泣き出しそうな曇天は、ようようと訪れた夕闇を加速させていた。
プールに射すのは、ちかちかと瞬きを繰り返す街灯の明かりだけ。

男子更衣室の扉の上、壁に掛けられた時計の長針が、ガクンと大きく揺れる。
時刻は、七時。

約束の時刻になった。

あさぎは目を閉じ、深く息を吸う。
肺の中を新しい空気で満たして、満たして、透馬の言葉を思い出していた。

「今夜七時、黒羽がここに来ることになっている。
 基一の言う通りなら、古めかしい決闘とやらを受けるために、な。
 お前さんの仕事は奴を迎え撃つことだ。
 とは言っても、飛びこまないで、スタート台の上に立っていりゃいい。
 黒羽も来はするものの、泳ぐ気なんて毛頭ないだろうしな。
 だから、早瀬、お前さんには黒羽を挑発しろ。頭カッカさせて、周りを見えなくしてやれ。
 その挑発に乗って泳ぎ始めりゃ儲けもの。泳がないなら泳がないで…」
「泳がないで、どうするんですか?」
「突き落して泳がせるだけだ。あいつは、きっと泳ぐってことに飢えてるぜ。
 一回水に入れちまえば、こっちのもんだ」

たれ目がちな目を細めて、悪役然とした笑いを浮かべ、塩谷はそう言い放った。

あさぎの、背筋が凍る。

包み込むように親しかった水に、弾かれる恐怖。
全身に響く衝撃。
突然暗闇に突き落され、上下感覚さえ見失う戦き。
生命すら脅かす酸素不足に心が荒れて、荒れて。

そんな思いを、黒羽にはさせたくは無かった。
自分以外の誰にも、知って欲しくは無かった。

逸る心に、慄く身体に言い聞かせる。

そう、だから泳がせてしまえばいいのだ。
塩谷の言う様に挑発する事で、自分から。

視界の隅で、影が動く。
思考に落ちていたあさぎは、はっと顔を向ける。

げた箱を抜けて出てきたのは、予想に違わず、黒羽大成、その人だった。

微かに震える唇を舐めて湿らせて、あさぎは口を開く。

「遅かったじゃないか、約束の時間は過ぎている。
 尻尾巻いて逃げたのかと思った」
「――おまえ、昨日の奴か。
 おまえも、山城さん達の仲間だったわけだ。
 それで、山城さんは何処に居る?」

こんな物寄越してと、大成はクシャリとしわの寄った紙を取り出した。

黒羽大成へ、木田高二年山城基一が、決闘を申し込む。
200メートル、泳ぎ方は何だっていい、おれが勝ったらお前は水泳部員。
負けたら、今後一切、水泳部に入れとは言わない。
今夜七時、木田高校のプールで待つ。

あの手紙の内容は、既に山城から聞き及んでいる。
そうでなければ、それが何か分かるはずもないだろう。
薄闇、離れた場所の紙が何であるか、あさぎに見える事は無いのだから。

だからきっと、自分がどんな顔をしていたって、相手にも見えないだろうとあさぎは思う。
それでも、不敵に微笑んでみるのは、自分を鼓舞するため。

強気に、強気に。
あさぎは自分に言い聞かせる。

「早瀬あさぎ」
「なんだ?」
「おれの名前は、早瀬あさぎだ。
 お前でも、昨日の奴でもないよ。
 手に持っているそれ、山城先輩が出したって言う果たし状だろ?
 もう勧誘されたくなければ勝ってみろ、ってやつ。
 それなら、おれが相手だ」

全てを一気に言いきって、あさぎはフゥと息を吐く。

大成は、全く動きを見せない。
顔に覚えが無いだけでなく、早瀬あさぎの名前にすら、覚えがないと言うことか。

自分の存在のちっぽけなこと。

「さっさと着替えて来いよ、プールの使用許可ないか取ってないからな。
 そもそも、こんな時間の使用許可なんて、下りるわけもないしね。
 それとも、いつもお前の後ろばっかり泳いでたおれじゃ、相手にならないか?」

自虐的な台詞だった。
微かに、鼻の奥が痛む。

それでも、肩の力は抜けない。
抜かない。
気を抜いてなど、居られないのだ。
ここから先は、塩谷の描いた絵の上で踊り続ける訳にはいかないのだから。

それに、場所も、状況も悪い。
どんなにふてぶてしい物言いをしてみせても、足が震えてくるのを止められない。
どんどんと暗くなる水面に、恐怖を抱いた。

対する大成は、プールサイドに数歩踏み込んだまま、動かない。

それは、あさぎにとって好都合だった。
塩谷の考えた筋書きでは、大成がプールのヘリに立ったら、山城が後ろから突き飛ばして落とす事になっている。
山城は、きっと気乗りしないながらも、計画通りに事を起こすだろう。

けれど、プールに近づかなければ好機は訪れない。

背後のスタート台の影には、塩谷が膨らませた浮き輪が転がっている。

『危ないと思ったら、投げてやれよ』

そう言って、あさぎに手渡されたそれ。

溺れてパニックになった人間を、慌てて飛び込んで助けだす危険性は知っている。
溺れる本人は、冷静では居られないのだ。
救助は、余程泳ぎに慣れた人物でも、二次災害の危険が伴う。

溺れる、とは、それほどに怖いことなのだ。
だからこそ。

(自分から、泳がせないと)

あさぎは思いを強くする。

雲が、するすると滑るように流れていく。
雲間に覗く月からの光が、現れて、消えて、大成に注ぐ。

「おれは、泳ぎに来たわけじゃない」

月光の下、大成はギュッと拳に力を込めた。

「同好会のメンバーは、おれしかいない、だ?
 馬鹿も休み休み言えよ。
 探すのが面倒ってだけで、代わりなんていくらでも、何処にでもいるだろう?」

そうして、大成は唇を噛み締める。
おれの代わりなんていくらでもいる。
言葉にする度、自覚するから、記憶に沈めていたいのに。

山城も目の前のこいつも、どうして放って置いてくれないのだろうか。

「さっさと、他を当たれよ」

そう言って、大成はプールに背を向けようとした。

「――ふざけんな」

静かな声が、投げつけられる。
その声は怒気を孕んで、大成の視線をスタート台の上に引き寄せた。
半身のまま、大成はあさぎに焦点を合わせる。

スタート台で俯いたあさぎ顔は、髪と夜の黒に隠れて、窺うことが出来ない。
怒りの理由を測りかねて、大成は逡巡する。

「お前は勝手に自分を批評して、自分には才能がないなんて、代わりなんていくらでもいるなんて言う。
 けどな、それじゃあ、お前に追い付こうって必死になってたおれは何なんだ?
 その程度の野郎の背中、必死になって追いかけていたって言うのかよ!?」

頭の中で、冷静なままの自分が、熱くなった自分を見ている。
冷静にって、決めたじゃないか。
けれど、そんな声に構っていられない。

昨日の熱が再燃する。
掴み損ねた、混じり合った感情の名前を、また一つ発見する。

ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ…

プライドが軋んで、悲鳴を上げている。

過小評価。
卑下。

そんな自己評価は、時に周囲までもを貶める。
上のものが代えの利く存在であるなら、無価値なものであるなら、それより評価されないものは何だ?
チリか?
クズか?

自分より下のものなど居ないも同然、そんな大成の思考の仕方が、頭にくる。
嫌悪の感情を抱きながら、それでも憧れていたその姿勢。

大きな感情の振れ幅は、それだけ大きい。
好意と憎悪は背中合わせだ。

あさぎは、大きく息を吸い込む。

こんな奴、気にした自分が馬鹿らしい。
落とされてしまえ。
さっさと、塩谷の罠に落ちてしまえ。

こちらに縫いとめられたかのように動かない視線を睨みつけ、あさぎは声を張り上げる。

「今、やっと分かった。
 おれの憧れてた、追いかけてた黒羽大成って奴はそんなつまんない野郎だったんだってな!
 だったら、その代わりとやらにおれがなってやる。
 その程度のお前の代わりなんか、泳げないおれで――」

十分だ。

そう続けようとした瞬間、背中に重圧がかかった。
視界が揺れる。
バランスが、崩れる。

心臓がうるさい。
呼吸の音もだ。

そうして、背中を思い切り押されたんだと気付いたのは、黒い黒い水面が、目の前に迫った時。

(ああ、あの時と同じだ)

身の内で、恐怖が弾けた気がした。


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