空白は、一瞬。
暗闇に落ちた瞬間、あさぎに音が戻って来た。

耳から空気の逃げる、ごぽごぽという音が響いている。
体制を整えないままの入水では、水の壁を突き抜けることは叶わなかった。

阻まれ、拒絶され。
思い切り水面に叩きつけられた顔が、胸が、腹が、足がじんじんと痛んだ。
きっと赤くなっているだろう。

体中が痛い。
けれど、それ以上に、苦しい。
息が、胸が、詰まる。

支えを探して、ごぼりと水をかき交ぜる。
水上に顔が出せても、すぐに沈んでしまう。

浮上を抑えているものなんて、ない。
あるとするなら、それはあさぎ自身の恐怖心だ。

水には浮力がある。
そして、あさぎは、沈んでしまうほど筋肉質な体格ではない。
力さえ抜けば、浮かびあがれる。
思えば思うほど、どこまでも強張っていく身体。

「い、やだ…」

開けた口に、特有の苦み。
塩素の十二分に溶け込んだ、プールの水が入り込んでくる。

ごほごほと吐きだすと同時に、顔が水中に没した。
焦りから声が上がりかけ、肺から大きな空気の塊が飛び出していく。

息が、苦しい。

喉を掻き毟っても、苦しさは変わらなくて。
黒の中をたゆたう銀の泡は、ゆらりゆらりと昇って、消えていく。

光の届かないプールの中は、暗い。

あさぎは、あの日に戻ったような錯覚さえ覚えた。

背中を押されて、崩れたバランス。
水上があさぎに対する嫌悪や怒りに満ちていた、あの日。

怖い。
誰か。

助けを求めて、手を伸ばす。
けれど、暗闇の中伸ばした手は、誰もつかんでくれはしない。
助けてくれはしない。

『これで、のぼせてた頭も冷えただろ?』

なんとか自力で這い上がったプールサイド。
投げつけられた言葉に対する屈辱感に、背中が震える。
言葉に味があるのなら、きっと、呑み込んだプールの水のように、苦い。

『お前さえいなければ、おれは…』

空に昇る泡を追うように手を伸べても、水上はどんどん離れていく。
酸欠に、視界が狭くなっていく。

吐き出す呼気の泡が、消えた。
もがく指先に、恐怖がにじんで痺れだす。
また水を飲んだのか、つんと、鼻の奥が痛んだ。

助けて。
寒くて暗いこの場から、助け出して欲しい。

「早瀬!」

プールに、山城の声がこだまする。

水面に、浮輪が落ちて丸い影を作った。
藁をもつかむ思いで手を伸ばすが、思いとは裏腹に、身体は沈む。
もがいても、もがいても、手が届かない。

(だめだ)

あさぎの水面へと伸ばした腕が、緩んだ。

その時だった。

ザンッと、黒い影が水中に突き刺さった。
水中のあさぎは、恐怖を忘れ、目を見開いた。

白い空気の泡をまとって、足が水を蹴り上げる。
手の平が水を掻き分け、水中を一直線に貫いていく。
微かな迷いすら見当たらない、力強い泳ぎ。

ひたすらに前だけを目指す大成には、泳ぐに適さない衣服も、数か月のブランクも関係がないようだった。

水を掻いていた手に、あさぎの二の腕が掴まれた。
痛いくらいの力で、ぐいと水上に向かって引き上げられる。
掛った水圧はすぐに消え、空気の冷たさが頬に触れた。

瞬きをして、目の中の水を追い出す。

「おい、しっかりしろ!」

耳にまで入り込んだ水を、大きく震わせて、黒羽の声が届いた。

酸欠を思い出して口を開けば、空気が気道を通り抜け、ヒュウと喉が鳴る。
肺に入ってしまったらしい水が、逆流した。
続いて、身体を折り曲げるほどの掠れた咳が漏れる。

それでも、冷えた背を撫でる温かな手から、もう大丈夫なんだと、息が吐けた。

息が整うにつれ、目の前が少しずつ開けていく。
最後の瞬きをすれば、涙のように水滴が流れた。
クリアになった目は、俯いたあさぎの顔を覗き込むように、身をかがめる大成の顔をうつす。

あさぎは、呆けた顔で大成の顔を見上げた。
髪から垂れる雫が、引切り無しに顔を伝っていくのも、気付かないほどだった。

風が吹き抜け、臙脂から濃紺へのグラデーションに染まった空を雲が駆けていく。

(黒羽が、泳いだ)

それだけで、ザワザワと、腹の底が騒ぐ。
喉元まで、何か熱いものが競り上がって来る感覚。

何か、言わなくてはと思うのに。
叫び出したいほどの感情が胸の内に溢れているのに、言葉は喉でせき止められて形にならない。

あさぎは、大成を凝視する。

「早瀬、怪我は!?」

焦ったような足音と焦った声が、あさぎを呼ぶ。
あさぎは、形を得かけた感情を飲み下し、名前を呼ぶ声に返事を返した。

「あ、はい、何ともありません」
「ホントだな!?」

あさぎの安否を気遣いながら走って来たのは、山城だった。
あさぎが落ちた時点で、隠れていた教官室から飛び出したらしい。
プールサイドを走る、今にも飛び込んで来そうなほどの勢いに、少しだけたじろぐ。

スタート台に取り付き、身を乗り出す山城のTシャツの裾が、ぐいと掴まれた。

「今飛びこもうとするなよ、びしょ濡れになるだけ損だぜ」

雲が切れて、月が顔を出した。
月明かりに照らされて、プールサイドが微かに白む。

山城のシャツを掴む腕の先では、塩谷が呆れたような表情を浮かべていた。

あさぎの隣で、大成がキッと視線を強くするのが分かる。
あさぎの背後に居たのは塩谷だけで、大成はあさぎの背後に居た。
即ち、大成は塩谷があさぎを突き落とした所を見ているのだ。

山城が振り返る。

「トーマ、お前一体何考えているんだよ!
 いくら手段は選べないって言ったってな、泳げない早瀬を突き落とすなんて…」
「はいはいはい、説教は後でいくらでも聞くよ」

「突き落としてでも」の意味は、「黒羽を突き落としてでも」では無く「早瀬を突き落としてでも」だったようだ。
声を荒らげ気色ばむ山城をお座成りな返事でいなし、塩谷はあさぎと大成の方に向き直った。

「よう、早瀬、お疲れ、お手柄」
「え、あ、いえ…」
「怪我も無さそうだな?」

塩谷の問いにあさぎは何度も頷く。
大手洋菓子店のマスコットキャラと化した後輩に、スタート台に腰を落ち着けた山城は、それならまぁいいや、と相好を崩した。

そして、目線を大成に移す。

「しっかし、相変わらず速いな、大成。
 服着たままであのスピードはなかなか出ないぞ。
 やっぱり、お前は泳ぐべき人間なんだって再確認したよ」

てらいの無い称賛。
大成は、一瞬、絶句するような気配を見せた。

ごくりと、喉が上下する。
けれど小さな揺らぎはすぐに、ポーカーフェイスに呑み込まれてしまった。

淡々とした声は言う。

「過大評価、もしくはただの贔屓目ですね」
「誰でもそう言うと思うけど」
「そうだとしても、おれはまた水泳を始めようと思って、ここに来たわけじゃない。
 誰が、なんと言おうとも、おれは泳ぐ気はないと、言いに来ただけだ」
「プールバッグ持ってか」
「これは、祖父さんに持たされただけだ。
 おれは、もう、泳ぐ気なんてない」
「へぇ、毎朝毎晩、体力落ちないように走りこみして、ストレッチすら欠かしてない、ってのにか」

静かに事の成り行きを口元に笑みを浮かべて見ていた塩谷が、割り込んだ。
大成は、口を噤む。
そして、スタート台の上で組んだ足に頬杖を付いた塩谷を睨み上げていた。

竦んでしまうような、敵意の視線。
塩谷は、そんな視線など存在しないかのように話を続ける。

「大体、お前さんが飛び込まなくても、何の問題も起きなかったぜ。
 こいつの後ろにはおれが居たし、基一だって教官室で控えてた。
 基一の存在には気付いてなくても、お前さんはおれを視認していただろうが」
「…突き落とした本人が助けると思えと?」
「うきわ落として、助ける意思があることは示しただろ」

返答の言葉はない。
プールを見下ろし、塩谷は口角を持ち上げる。

「認めちまえよ。
 泳いだ時、気持ちよかったろ。
 お前さんはまだ、水泳に未練たらたらなんだ。
 なんて理由で誤魔化すにせよ、本心では、泳ぎたかったから飛び込んだ。
 早瀬については、ただの言い訳だよ」
「…違う」
「違わないね。
 お前さんは、泳ぐための言い訳が欲しかったんだ。
 果たし状の呼び出しに答えてここに来たのも、基一に負けて、泳ぐための言い訳が欲しかったんだよ」
「違う、おれは…」

拳が強く握り締められ、奥歯が噛み締められる。
表情は変わらない風に見えるが、身の内に感情が渦巻いているのが見て取れた。

どうして、頑なに泳ぐことを拒否するのか。

あさぎにはそれが分からない。
実力も、実績も、才能だってある。
それなのに、泳ぐことを拒否し続ける。
その心情が、分からない。

「どうした?何にビビっている?」

塩谷が片眼を眇めて吐き捨てる。
言われて、大成の眼光が強くなった。

「…ビビってなんか、いない」

絞り出すように、大成は呟いた。
その否定を嘲るように、塩谷は片眼を細めて、鼻をならす。

「嘘を吐け。
 おまえさんは心底、『何か』を恐れているよ」

風が、吹く。
夜空よりも黒い雲が流れて、月が再び姿を隠した。

「…おれは」

あさぎの隣で、大成の拳が震えている。

「おれは、誰も、何も恐れてなんかいない!」

初めて、大成の語調が乱れた。

押しとどめられていた感情が、決壊する。
叩きつけられた拳を受けて、バシャリと水面が波立った。

「それでも、だから、泳ぐわけにはいかない」

大成は、絞り出すように叫んだ。
腹の中にため込んだ思いを、吐き出すように叫んでいた。

「負けたら、おれは何一つ、誇ることが出来なくなる!
 すべて、奪われるんだ!」

苦しい。

大成の叫びが、あさぎにはそう聞こえた。
声を上げる度、自分で、自分の首を絞めている。
そんな錯覚。

やめさせなければいけない。

「そんなはず無いだろ!」

あさぎは声を荒らげ、ぐるり、大成に向き直った。

髪に残っていた雫が散って、大成の頬や肩に飛んだ。
その水が、大成を殴りつけているようで、少しすっとする。

握り拳をほどいて、あさぎは深く息を吸う。

「おれは、確かに負けない黒羽は、凄いと思うよ。憧れたさ。
 けど、本当にそれだけの奴なら、おれは多分、追いかけなかった。
 お前の視界に入りたいとか、思わなかったよ。
 お前がいなければ、泳げなくなった時点で、水に入れなくなった時点で、おれは水泳を捨てられてた。
 こんなに苦しむことはなかったんだ!
 それなのに、お前一人が逃げ出すなんて、許さない!!」

そこまでを一息に叫ぶと、息が切れた。
息をのむ大成を睨み上げながら、あさぎは肩で息を繰り返す。

「うっわ、熱烈ぅ」

塩谷の茶々に、頬がカッと熱をもつ。
頭皮が熱を持ち、汗がにじみ出した。
居心地の悪さに俯いて、あさぎは、ハッと息をのむ。
大成のことに夢中になって失念していた自分の状況を、あさぎは急速に思い出した。

あさぎは塩谷に突き落とされている。
つまりは、プールの中、水の中に立っているのだ。

泳ぎたい、泳ぎたいと叫んでいる心を阻んでいたのは、水に対する恐怖心。
飛び込んで、今すぐに泳ぎだしたい。
それなのに、足が竦む。

水に入ることすら、出来ない。
出来るはずなんてない。
そう思っていた。

けれど、今立っているのはプールの中で。

「…嘘だ、絶対、嘘だ」

あさぎは、スタート台を仰ぎ見る。
その視線を受けて、塩谷がニッと八重歯を覗かせた。

「知ってるか?
 絶対なんて、この世には存在しないんだぜ。
 そもそも、自分で飛び込む寸前まで行っていただろうが」

あれだけ水は嫌だってビビっていたのに、黒羽前にしたらこれだもんな。

塩谷が、呆れた顔で頭を掻く。
その横で笑う、山城は言う。

「なぁ、早瀬。
 おれ達の仲間にならないか?
 水泳部を作るには、おれたちじゃ頭数すら足りてない。
 ヤル気のある奴歓迎、泳げる奴なら大歓迎なんだ」

差し出された山城の手に、あさぎは、ごくりと唾を飲み込んだ。

泳いでも、いいのだろうか。
水泳部、と言う枠の中に、どうにか水に入れるようになっただけの自分が、居場所を作っても、いいのだろうか。
それを、認めてくれるのだろうか。

「水に入れるなら、おれだって、だっけ?
 入れたじゃんか。
 それで、何の問題もないだろ」

どうやら、プールでの呟きも、聞かれていたらしい。
それが少し恥ずかしくて、けれど、どこか暖かい。
あさぎは、ゆっくりと手を伸ばした。

ぐいと、手が引かれる。
あさぎはスタート台に足を掛け、這い上がった。

「水泳同好会入部、おめでとうございまぁす」

手を離した山城が、おどけて手を叩いたその時だった。

「お前たち、何してるんだ!」

丸い光がプールを照らし出した。
怒声に振り向いたあさぎは、強い光を真正面から見ることになる。
目が眩んでバランスを崩し掛けるが、山城に支えられ、持ち直すことが出来た。

「見回りだ!」

腕をひさしにして、塩谷が叫ぶ。
上がりにくい飛び込み台を離れ、近くの横岸に泳ぎ着いた大成が、素早い動作で水から上がった。

(どうしよう)

塩谷の視線が周囲を素早くなぞるのが見える。
あさぎはその視線の先を追った。

眩む目の中で動いている影は二つ。
各々分かれて、プールサイドを駆けて来る。

「くっそ、騒ぎすぎたな」

塩谷は眉間にしわを寄せた。

四対二。
経路を選べば、四対一。
向かって行っても、捕まることは無いはずだ。
だが、全員が全員、逃げきることは難しいのではないか。

それに、このまま逃げても、荷物が見つかれば足が着いてしまう。

山城の居た教官室には、あさぎ、塩谷、山城の三人分の定期券や携帯電話、その他諸々の荷物が置かれているのだ。

水泳部の設立は、そもそも学校側が乗り気ではないと言う。
プールへの侵入、無断使用などが明るみに出れば、これ幸いと叩き潰されかねない。

せっかく、もう一度泳ぎ出そうと思えたのに。
泳げないと知った上で、泳ぎたいと思っていいと言ってもらえたのに。

(どうしたら…)

あさぎはおろおろと周囲を見まわした。

「こっちだよ!」

視界の隅で、塩谷が背後から伸びてきた手に、引きずられて、いつの間にか開いていたドアの中に引きづり込まれるのが見える。

見回り二人の影は、正面から迫っているはずなのに。
あさぎは、咄嗟に逃げを打とうとする。

「ほら、君たちもだよ、早く!」

塩谷同様、背後に思い切り腕をひかれた。
勢いでバランスを崩し、床に叩きつけられるように、室内に滑り込む。
バタンと閉められたドアに、視界は真っ暗になった。

「押さえて!」
「あ、ああ!分かった!」

鋭い声に促されて、山城が慌ててドアに取り付いた。
外側から押し開けられそうになって、背中で押し返す。
踏ん張った足に、浮き出した筋が、開けられそうになる度に、細い光の中に浮き上がった。

塩谷も一緒になってドアを支えるが、それでも、蝶番を軋ませながら、細い光が数度、ポンプ室の中に差し込んだ。

ガチャガチャとノブを回しながら「開けなさい」と叫んでいる声に、塩谷が苦しそうにぼやく。

「よりにもよって、アツクルかよ」

アツクルこと厚木は、熱血過ぎて暑苦しいと評判の木田高校の新任教師である。
教科は保健体育。
専門は陸上で、足が滅法速いのが自慢だった。

ドンドン、拳の当たる音。
「先生、そこまでしなくてもいいんじゃないですか?」と控えめな制止をしているのは、温和なことで有名な警備員のおじさんだろう。
ドアがまた押し返され、額に青筋を浮かせた山城が、歯を食いしばった。

「おれも手伝います」

静観の構えをしていた大成も、ドアに貼りつく。
ドアは両側から全力で押され、ギシギシと不満げに音を立てた。

「ね、アツクル相手じゃ、走って逃げてたら誰か一人は確実に捕まってたでしょ?」

誇らしげな声がする。

「ああ、けど、この状況の方が、ましとは、どうしても、思えないんだけど」

そう切れ切れに言い、塩谷は暗闇の中の人影を睨み付ける。

「何のつもりでここにいるんだ、明奈」

サラサラと流れる髪と、堂々とした態度と声。
傍らのそれが、誰であるか気付いたあさぎは、あ、と小さく声を上げた。

昨日の昼休み、あさぎに大成の存在を教えた、新聞部員。
蒲田明奈は、笑顔全開、口を開く。

「何って、救いの女神さまよん。
 わざわざこんな埃まみれの場所で隠れてあげてたんだから、感謝しなさいよね」
「だったら、さっさとどうにかしろよ。
 この状況で、その冗談は、いらっとくる!」

塩谷がイラつきを誤魔化しもせずに叫んだ。

「言われなくても助けてあげますよー。
 でもね、私に何にも言わずに行動するからこういうことになるんだよ。
 ほーんと、君らの動向見張っててよかった」

明奈は、膨れた顔をして見せた。

いい加減に観念しなさい、と言う怒号が再び響く。
止められないと踏んだのだろう警備員さんも加わって、より力強く揺れるドアが揺れた。

今までよりも太い光の帯が室内に伸びて、塩谷は再び叫ぶ。

「だったら、早くしろ!」
「えー、私だってリスク負ってるんだから、タダってわけにはなぁ」
「ふざけてる場合か!」
「私は本気だよ。要求はね、ただ一つだけ。」

そう言って、蒲田は立てた人差指を塩谷に突きつけた。

「今後一切、私に秘密でこういう行動をしないこと。
 しっかりこの目で見届けなくちゃ、あることないこと全部、校内新聞に書けないじゃない」
「無いことは、書くなよ。
 それで、嫌だって言った、場合は?」
「助けは呼べないなぁ。
 ついでに、皆揃ってアツクルに自首でもしますかね」
「なに自爆テロじみた計画、考えてるんだよ、この馬鹿!!」

塩谷の怒号にも、蒲田は動じない。
面倒そうな表情で片耳を押さえ、はいはいと手を振る。

「煩いよ、ただの、ちょっとした取引でしょうが」

どうするの、と山城、あさぎ、大成に順繰りと視線を送る。

「…いいえ、とは、答えられない状況みたいですよ」

あさぎが溜息を吐く。
それを見て、蒲田は質の悪い笑みを浮かべた。

「そう言うこと」
「巻き込みたくないって、おれ達の気遣いも要らないって?」
「うん、はっきり言って、そんなの無駄だもの」

山城の問いに、きっぱりとした答えを返し、蒲田はポケットの中から、携帯電話を引き抜いた。
塩谷と山城は顔を見合わせる。
もう何を言っても無駄だと悟ったのだろう、塩谷が溜息混じりに返答をする。

「…分かったよ」
「よし、言質とったからね!」

蒲田がいくつかのボタンを押すと、あさぎの耳にも何回かのコール音が届いて、途切れる。

「さてと、それじゃ、皆、あと少しだけ頑張ってね」

足に、腕に、目一杯の力が掛かっている。
体育教師の馬鹿力を前に、あさぎの力は限界が近い。
少しってどれくらいですかですか、とあさぎが問おうとした時、ドアの向こう側で新たな声がした。

「どうしたんですか?」
「プールに侵入した生徒がここに立てこもりまして、手を焼いているんです!」
「それはそれは」

声を聞きつけ、蒲田はあさぎに笑いかける。

「よし、舞台は整った」

そう言って、ポンプ室の片隅に立てかけられていたパイプ椅子にやおら、手を伸ばす。

そして、思い切り壁に叩きつけた。
コンクリートブロックで出来た壁は、びくともしない。
けれど、大きな音に、ドアの内側の四人は元より、外のアツクルや警備員のおじさんも動きを止めたようだった。

「…あの、明奈さん?」

こわごわといった風に行動の意図を問うた山城にも、蒲田は答えない。
ただ、息を胸の底まで吸い込んで、声を張り上げる。

「早く、ここから出られるよ!」

蒲田は、なおもガタガタと室内の物品を使用して、大きな音を立て続ける。
その振動に、明り取りの窓が揺れた。

あ、なーるほど。

塩谷が口の中でつぶやくのが聞こえる。
山城に何か耳打ちをすると、ドアから手を離した。

「ほら、行くぞお前ら!
 入り口に重しして、ドア開かないようにしろ!」

そうして、塩谷はバタバタと乱雑な足音を立てる。
何人もの人間が、一つの入り口から急いで出て行こうとしているように。

「逃がすか!私、神社の方に回りますね!」

我に返ったのだろう。
ドアを一枚挟んで、アツクルの声が叫んだ。

足音が遠ざかっていく。
アツクルは再びプールサイドを疾走し始めたようだった。

警備員のおじさんの焦ったような声がした。

「待ってください、厚木先生!
 私は厚木先生と行きますから、ここはお願いしますね!」

先ほどよりも遅いテンポで、足音が去って行った。
それから、数秒の沈黙の後、ノックの音が二回。

「よし、もういいよ」

蒲田の言葉に、山城がドアから手を離し、額の汗を拭う。
何が起こっているのか分からないといった風の顔をしながら、大成はドアから手を離す。

訳が分からず、あさぎは蒲田の顔を凝視した。
視線に気付いた蒲田は、ウインクを一つ。

ギイと軋みを上げながら、ドアノブが回る。
ポンプ室のドアが開いて、月光が差し込んだ。

ドアの隙間から、心底面倒だという顔をしたスーツ姿の男が顔をのぞかせる。
木田高校の数学教師であり、水泳部のお目付け役である多賀真護の顔だった。

「…言ったよな、面倒事は嫌だって」

多賀は笑顔を浮かべているが、頬がひきつって見えるのは、あさぎの気のせいではないようである。
山城が、一歩後ずさった。

「回収するもの回収したら、さっさと行け。
 お前らが捕まったらおれも立場がよろしくない、うまく逃げろよ」
「ラジャりました!」

おどけた敬礼をして、蒲田が荷物を取りに教員室に走っていく。
その後ろを追うように、山城、大成、あさぎが続いた。

目の前を走っていく大成とあさぎがびしょ濡れなことに気づいて、多賀は溜息を吐く。

「塩谷」

隣を抜けようとした塩谷の襟首を掴んで呼びとめ、多賀は尻ポケットから車のキーを取り出した。
ヒョイと近距離から放られた鍵は、塩谷の手の中に飛び込む。

「西門の先に、車停めてある。
 タオルも乗っているはずだから、必要なら使え。
 道々説教をしながら送ってってやるから、なんとか中に隠れておけよ」
「きゃあステキ。絶対に乗りたくないドライブだわん」

軽口をたたくと、塩谷もプールの外に逃げていった。

その背中を見送って、多賀はポンプ室のドアを静かに閉める。

それから数十秒後、ポンプ室兼物置気の中から名前を呼ばれた。
ドアを押し開けると、床の小窓から顔を出した厚木が困惑の表情を浮かべていた。

「逃げ道なんてどこにもないのに、中には誰もいないんです!」





 * * *





週明けの放課後、山城は数学準備室でうんうんと唸り声を上げていた。

「一、二、三、四。
 一、二、三、四。
 あと、一人、あと、一人なんだ…」
「何度数えても、増えるわけねェだろうが」

呆れたような顔で、長机に腰掛けた塩谷は、くわえた細い棒菓子を上下に揺らした。
長机にはプリントと、食べ散らかした菓子類の袋が散っている。

ダメもとで掛け合ったプールの使用許可は、案の定、下りなかった。
人数が足りない、の一言で切って捨てられたのだ。

「私に黙って妙な計画立てるから、こんなことになるんですー」

言いながら、蒲田は教官室の合い鍵に付いたキーホルダーをぐるぐると回す。
ラッコとイルカは、手の中に大人しく収まっているが、亀を模った装飾が憐れなくらいに円を描いていた。

「あれだけ言ったのに、まだ言うか…」

答えた塩谷の顔は、ぐったりと、疲労の色を濃く残している。

先週土曜日の夜、多賀の車は、山城、大成、あさぎ、蒲田、塩谷の家を順に回った。
車に乗っている間中、長々と蒲田の「ハブにされた」と言う恨み事と、多賀の「面倒事を起こすな」と言う説教よりは文句に近いものが繰り返されていた。
しかも、家の立地の関係上、今回の計画の片棒を担いだ山城は、早々に下車することになる。
最後に車を降りた塩谷は、はじめから終りまで、蒲田、多賀の集中砲火を受けているようなものだった。

「しかし、黒羽がうんと言わなかったのは、痛かった」

塩谷の言葉に、あさぎは窓際で頭を下げる。

「ごめんなさい、おれ、役にたたなくて…」

謝罪の言葉に、ふりふりと山城が手を振る。

「気にすんな、おれ達だって失敗続きだったんだから」
「そうそう。
 簡単にあいつをその気にさせられるんだったら、こんなに苦労してないって。
 部の創設に必要な人数は五名。
 しかも、名前だけじゃなく、きちんと活動する奴って制約、なんであるんだかな」

塩谷は、苦いものでも食べたような顔で、菓子を腹に収めていった。

「ホント、それさえなければ、名前借りてすぐなんだけどね」
「え、明奈の悪の力でか?」
「新聞部の情報網と言ってほしいな」
「…しかし、あと一人のアテなんてないからなぁ」

厚い、あと一人の壁。
しかも、同好会の認可書類提出期限は明日に迫っている。
うなだれた山城は、長机に懐いた。

「もうすぐ、夏だってのに」

塩谷、蒲田のにつられ、あさぎは窓の外を見る。
先週末同様、雨雲に覆われた空が、木田高校上空に広がっている。

ガラガラと、ドアが開く音が背中に聞こえた。

水泳同好会のたまり場と化している、数学準備室の主が帰って来たのだろう。

「多賀ちゃ―ん、喉乾いたー。
 かわいいかわいい生徒達にジュース奢ってー」
「まぁ、祝いってことでいいだろう」

多賀の返答に、塩谷はきょとんと、目を丸くした。

ぐるりと回転いすを180度回すと、何かを見つけたようだった。
目元がたわみ口角が上がる。

「…祝いって、何かいいことがあったんですか?」

塩谷の横顔を見たあさぎも、不思議そうにドアを振り返る。

「戻ってきたら、ドアの前で立ってたから、連れて来た」

多賀に背中を押されて入って来た仏頂面。
そっぽを向いた顔は、ばつが悪いのかどことなく赤い。
淡々とした声が言う。

「逃げてるだの、ビビってるだの言われてたままでいるのは、性に合いません。
 おれは、試合に出ない。
 その事情を汲んでくれるなら、おれは、泳ぎます」

呆けるあさぎの横を、山城が喜色満面で、飛び出して行った。


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