ザバリと散った飛沫が、夏の陽光に煌めいた。
水面を破って顔を出した日に焼けた右手が、ペンキの剥げかけたプールの壁面を叩く。

直後に、ピッと、小さく電子音が鳴った。

大成は、大きく息を吸って、酸素を全身に送り込む。
プールの底に足を付くと、大気にさらされた肩から上が、冷える。
ゆっくりと鼓動は静まって行くが、四肢の倦怠感が拭えない。

少しだけ、現実が遠い錯覚を覚えた。

自由形の泳法。
腕は、身体の下でS字を描くようなストローク。
バタ足は膝を使い、柔軟に水を蹴って。
息継ぎのタイミングは、水を送った瞬間に腕から頭を離さずに素早く。

何処まで実現できただろうか。

思い描く動きに、体が付いて来ていない。
前に進むことばかりに意識が取られ、上手く泳げない。
それだけでなく、絶対的に筋力が足りない。

そもそも、考えながら泳いでいる時点で、駄目なのだ。

無駄な力ばかりを使っている。

身体が鈍っているのを自覚した。

(この程度で…)

滲む悔しさに唇を噛みしめながら、大成はゴーグルを押し上げる。
黒の紗幕を外したせいで、急に明るさを取り戻した視界が少しだけ眩んだ。

プールサイドには、タイム計測用の時計である、タイムキーパーが据えられている。
しかし、今となっては、壁を叩いた時点で、くるくると忙しなく回るタイム計の針がどこにあったのか、予想もつかなかった。
自分で自分のタイムを知るために、倉庫の奥底から大成が引っ張り出してきた年代物のタイムキーパー。
それは、時折、時を刻むスピードを変えながら進んでいた。

(分かっても結果は同じか)

動かし続ける意味があるのかさえ疑問に思う、壊れかけた時計。
それでも、大成は計測器を止めようとは思わなかった。

誰かに頼ると言うことは、依存することと然したる違いが無いように、大成は思う。
出来るならば誰に迷惑を掛けること無く「泳ぐ」という行為だけに没頭していたかった。
今も、昔も、何も変わらない。
縁もしがらみも無く、縛られることの無い場所で、一人きりで、水の深くまで思考を沈めていたかった。

だが、タイムキーパーが頼りにならないのもまた、事実。
正確な自分のスピードを知ろうとするなら、きちんとした計測、つまり、ストップウォッチを使った計測が不可欠となる。

試合には出ない。
公式の場では、泳がない。
そう宣言しての入部だった。
けれど、今有無を言わせずタイムは計測されていた。

普段はマネージャーの座に納まった蒲田が計測を担当している。
しかし、蒲田は新聞部との兼ね合いで、プールに顔を出せないことも多い。

今日は、その蒲田のいない日だった。

「50秒フラット」

上から、少し残念そうな色味を混ぜた声が降って来る。

大成は、特に蒲田のいない日のタイム測定が嫌いだ。
なんだかんだと理由を付けても、この蒲田のいない日があるために、壊れかけたタイムキーパーを止められないのかも知れない。

水泳部の人数はギリギリ。
新聞部のある日はマネージャーの代わりにと、ストップウォッチを預かりたいと申し出た男がいた。

名前は、早瀬あさぎ。
自分をプールに、水泳と言う競技に、引きづり戻した男だった。

「昨日より少し遅いよ。
 泳ぎすぎて、疲れてるんじゃないの?」

何でもないことの様な顔で、人の体調を心配する。

あさぎの背後に茂る桜の木は、萌え始めの黄緑をより濃く深く色を変えていた。
陽光に輝く深い緑が、大成の目を射す。

曇天に変わって空を支配し始めた初夏の太陽は、あさぎの微かな表情の変化すら、照らし出していた。
カラカラと笑う顔の中で、微かに寄せられた眉まで、しっかりと。

(何でもないことなんか、無いだろうが)

裏側に隠された感情を想像し、大成は微かに眉根を寄せた。

「かもな。少し休む」

プールサイドに掛けた腕に力を込め、陸へ上がる。
身体中を覆う清涼感と、一抹の寂しさは、似ているような気がした。

「何、大成休憩かぁ?」
「お前さんも、ちょっと、休憩しろよ、体力お化け。
 同じ、ペース、で、泳いでたら、おれが死ぬ」
「そうかな?
 まぁいいや、じゃあちょっと休憩!」

山城と塩谷の少し間の抜けたような掛け合いを背中に聞きながら、大成は思い出していた。

山城からの「果たし状」に、祖父の喜代造に背中を押される形で応じたあの晩。
待ち受けていたのは、この早瀬あさぎだった。

『代わりは、いくらでもいる』

あさぎの「泳げ」と言う言葉にそう答えた。
その一言が、あさぎの記憶のどこかにある傷に触れたのは、確かで。

あさぎは激昂した。
驚くほどに、激しく。
そして、大成を挑発するように眼下に広がる真っ暗なプール飛び込もうとして、落下した。
墜落した。
正確には、隠れていた塩谷に背を突き飛ばされて、真っ暗な水の中に、落ちた。

投げられた浮き輪にも掴まれず、バタバタともがくあさぎに、大成は思わずプールサイドを蹴った。

溺れている。
助けなければ。

そう思ったのも事実だ。
しかし、思ったのはそれだけでは無い。

それじゃあ、と大成は考える。

自分は何を考えていたのか、と。
だが、真っ白になった頭は覚えていない。
飛び込んだその後以外の感覚以外は。

咄嗟に飛び込んだ久方振りのプールは、すんなりと大成の帰還を受け入れた。

柔らかい反発。
塩素のにおい。
水の中を逃げていくコポコポと言う空気の音。
真っ白な頭のまま、水を裂いて進む恍惚。

どうして、手放せたと思ったのか。
そんな疑問を持つほどに慣れ親しんだ感覚に、襲われる。
郷愁に似た感情が押し寄せて、鼻の奥がつんと痛んだ。

ざわめく胸。
息が苦しいのは、湧きあがる歓喜。
水中を舞う泡と共に、浮上する。

取り戻してしまったら、もう、後には戻れなかった。

泳いだのは、金曜の晩。
身回りの教師をマネージャー曰く「空蝉の術」で何とか騙して逃げ遂せた、あの晩だ。

家路を辿る多賀の車の中で、大成はぼんやりと虚空を見つめているしかなかった。

痺れるような感覚が消えない。
胸が詰まって苦しいのに、不快感は無い。
恍惚とした様な陶酔感が大成を包んでいた。

泳いだ。

それ以外の変化など無いはずのその週末は、言い様の無い感覚に苛まれながら過ごした。

無理に例えるならば、空腹に近い感覚だろうか。
飢えて、飢えて、仕方がない。
本を読む気にも、ただ座している気にもなれなかった。

荒れる希求を飼いならすかのように愛犬と共に家を飛び出しては、汗みずくになって帰って来る。
その姿を祖父に見咎められ、大いに笑われたのは記憶に新しい。

そんなに泳ぎたくてたまらんか、と。

泳ぎたくて、じっとして居られない。
泳ぎたくて、泳ぎたくて、心身が疼いている。

(そうだ、おれは泳ぎたかったんだ)

気付かなければ、知らぬふりを決め込んでいられただろう。
しかし、一度目覚めてしまった感情を隠し通すことは、出来なかった。

自分にも、祖父にも。
代償行動は、完全に見透かされていたのだ。

祖父と話す間中、足元にピタリと張り付いた愛犬のケンゾウは、優しげなまなざしで尾を振りながら、大成を見上げていた。
優しい、柔らかな夜の様な毛並みは、暖かい。
安心する。
気付かれないように息を吐き出して、大成は考えた。

二兎追う者は一兎も得ずと、人は言う。
「木田に留まる」ことと「水泳」を天秤にかければ、木田に残ることの方が、考えるまでも無く重要なはずだ。
重要なはずだった。

しかし、今は天秤が揺れる。
ぐらぐら、ぐらぐら。
今は、どちらに傾くのかすらわからない。
それほどに、大成の中で、水への希求は抑えがたいものへと変わっていた。

競技としての水泳は、捨てた。
けれど、「泳ぐ」だけならば。

自分の中で甘言が首を持ち上げる。

俯いた地面には、ランニングシューズが見える。
おろした頃は、目に痛いほど白かったのに、今はもう薄汚れてしまった。
履き潰す寸前のランニングシューズだった。

「好きなように生きればいい」

低く乾いた祖父の声に、大成は弾かれた様に顔を上げた。
ここ数年で、格段にしわの増えた顔は厳つく、大成を見ている。

「…でも」

大成は言葉を躊躇い、口ごもった。
自分の中でも、答えは未だ出せていない。
それを、口に出してもいいのか。
纏まらない感情など吐き出しても、誰にも伝わらずに消えていくだけだ。

無駄なこと。

伝わらないのなら、伝えたいことも、言葉も無駄なものだ。
自分にも訳が分からないのに、解決策も、どうしたいのかも分かりはしないのに。
そんな言葉を吐き出すことに、何の意味があるのか。

唇を噛む孫を前に、喜代造は苦笑を浮かべた。

「デモもカカシも、この辺りにはないぞ。
 まぁ、東の畑の方に向かえばカカシくらいはあるかもしれんが、そう言うことじゃない」

頭半分低い位置から伸びて来た手に、頭を撫でられる。
節くれだって、しわくちゃの老人の手に撫でられるのは、久しぶりだった。
最後にそうされたのは、何時だっただろうか。

途端に子ども扱いされたように感じ、大成は身じろぐ。

しかし、押さえつけるような力が加わった手は、外すことが出来なかった。

「いいか、大成。
 他人の着物は、身丈が合わんぞ。
 そんなものを着ていたら、着物がどんなに粋でハイカラでも、格好なんか付きやしない」

喜代造の言葉は時折、分かるようで分からない。
ただ、自分は泳ぐことを欲し、祖父もそれにかかる面倒事をすべて引き受ける気でいることだけは分かった。

「まだまだ尻の青いひよっこがウダウダと考えるな。
 自分で決めて、好きに生きりゃあいいさ」

これ以上、甘えることはすまい。

木田に残ると決めた時、大成はそう決めた。
それだけの「迷惑」と「責任」を祖父は、祖父たちは大成のために抱えていたのだ。
だから、これ以上は。
そう思っていた。

しかし、それ以上の強さで、泳ぐことを欲している。

柔らかな水の腕は、それほどに魅力的で。
空気の音だけが支配する静寂な世界は、愛おしくて。

衝動が、抑えきれない。

「…いいのか?
 きっと、またいろいろと面倒が起きる」
「構うもんか、所詮オレの息子とその嫁が小うるさく騒ぐだけだろうが。
 それくらいの面倒、庭師の喜代ちゃんがパパパーっと片手で片付けてやるわい」

喜代造は、目を細めて笑った。
何か、眩しいものを見るような顔で。

好きに生きることに罪悪感は、ある。
しかし、身の内の衝動は押さえこめない。
泳ぎたい、泳ぎたいと、血が騒ぐ。
狂おしいほどに、求めていた。

そうして、週の改まった月曜日、大成は数学準備室の扉を叩いたのである。

水泳同好会設立の申請書は、期限ギリギリの滑り込みセーフで受理された。
学校で授業のある間だけ、毎日掃除をすることを条件に、プールの使用許可も下りた。
結果が出せなければ、今季限りの同好会であるとクギも刺された。
人数も少ない。

決して順風満帆とは行かない船出だったが、大成は構わなかった。

「泳げる」と言うことが、今の大成には重要だったのだ。
誰に縛られることも無く、自由に泳げることが。

(でも、あいつは泳げない)

風雨に汚れた白いスタート台の上で、水中の山城と話すあさぎを視界に納める。
何を言われたのか、焦った様子で右手を振っているのが見えた。
それでも、白い台の上に付いた左手が、微かに震えている。

(―――やっぱり、水が怖いのか)

同じように、いや、もしかすると自分以上に泳ぐことを欲している。
裏腹、怯える心を抱えて、それでも、あさぎは逃げない。

いままでも、これからも、プールサイドに立ち続けるのだろう。

一度は水泳を捨てた自分と、捨てざるを得なかったあさぎ。
引きずり戻された自分と、自分から戻ることを決めたあさぎ。

どちらも一度は水泳を捨て、戻って来た。

はた目から見れば似ているようで、しかし、実は決定的に異なっている。

(どうして、怯えながらもあの晩、そこに立つことが出来た?)

聞くことの出来ない問いが、胸の内で渦巻く。

問うことは、出来ない。
もしかしたら、そこに傷があるから。
自分と同じように、触れて欲しくない記憶や思いが、存在していると思うから。

だから、大成は想像するしかない。

泳げる者への羨望もあるだろう。
戻りたくて戻りたくて仕方ない場所へ、一人迎え入れられようとしている大成への嫉妬心もあっただろう。
それでも、早瀬あさぎは薄闇の中、スタート台へ立ったのだ。

憐れだと、思った。
自分などに憧れて、水泳に縛られて、苦しんでいる目の前の男が。

同時に、歓喜する自分も否定することが出来ない。

(あいつにとって、おれの代わりは、居ないのか?)

口の端に、他人には分からない程度の笑みが浮かぶ。
けれど、それもすぐに消えた。

『おまえの代わりなんていくらでも居る。
 ――自惚れるな』

脳裏をチラつく否定の言葉は、緩みかけた唇を再び噛みしめさせるには、十分だった。

(そんなこと、分かっている)

金網に引っかけていたタオルを、荒々しくもぎ取った。
抜け目なく準備されていたプロテインを片手に、ベンチを目指す。

「ちゃんと、分かっているよ、父さん」

呟いた声は、口の中ですぐに噛み殺された。
湧いた、喜びと言う感情と共に。



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