雨が降っている。
霧のように細かく、けれど、多量に降る雨が、しとしとと音も無く大地を濡らしている。
そんな悪天候の中を、大成は雨具も無しに、自転車を走らせていた。
夏はもう目の前で、湿気を多く含んだ空気は、纏わり付くように重く、身体を汗ばませる。
けれど、降る雨は違う。
実体を持った水分は。こんな季節でも冷たく染みる。
確実に体温と体力を奪っていく。
「今日は、この辺りが頃合いだ。
雨で水温が下がり始めているだろう。
風邪でも引かれちゃ面倒だから、さっさと上がって、さっさと帰れ」
プールサイドに張り出した更衣室の軒下で、柵に凭れかかったまま多賀が声を掛けてきたのは、ちょうど大成の四肢が冷え始めた頃だった。
冷えは、無駄な疲労を蓄積させ、疲労は怪我を誘発する。
一応顧問と言う立場になっている、何時もどこか気だるげな数学教師の判断は的確だ。
反論の余地は無い。
だからこそ、大成自身、その判断に従ったのだ。
(でも、動き足りない)
左手首にはまった、防水加工の施されたスポーツウォッチに視線を落とす。
垂れこめる雲の緞帳の所為で、少しばかり薄暗く感じるものの、日没まではまだ時間がある。
夕食の支度前に一走りすることも可能だろう。
そう考えて、ペダルを踏み込む力を増やせば、自転車が速度を増した。
田畑が、民家が、どんどんと通り過ぎていく。
顔に当たる雫をなおざりに拭いながら、大成は家路を辿った。
大成の家は、木田駅前の木田高校から、自転車を15分ほど走らせた所にある。
年末年始にはそれなりの賑わいを見せる神社の参道を横切り、続く田圃を越えた先の集落に建てられた家だ。
黒羽家は、風雨に燻された濃い飴色の木製の外壁で、軒を連ねた家々から少し離れて建っていた。
家の周囲を囲む庭には、柘植、金木犀、梅、柿などの様々な木々が植えられている。
庭師時代、祖父が引き取って来た木だ。
枯れかけていたもの、捨てられかけていたもの、引っ越しで置いて行かれるもの。
理由はどうあれ、「不要」にされた木を、喜代造は持って帰って来た。
「庭師が木を捨てるなんて、できる訳がないだろう」
祖父はそう言って、手際よく木々を植えたのだ。
手入れの甲斐があってか、新天地での生活を始めた樹木は強かった。
青々と葉を茂らせ、季節ごとに花や実をつける。
そして、風が吹くとざわめき、揺れるのだ。
まるで森の中の様な感覚さえ覚える、黒羽家の庭の初夏は、色鮮やかだ。
梅雨の名残のように降る粘りつくような雨に濡れ、木々の根元では盛りを過ぎた紫陽花が咲いている。
紫陽花は、祖母の好きだった花だ。
庭木同様、どこから集められ、さまざまな色をしていた花たちは、黒羽家の庭に咲くうち、いつしか青一色になった。
今年も、花ではない花を水色から鮮やかな青に色を変えて、年季の入った建物と庭を包んでいる。
じじじと焦げるような音を発てて光る街灯が見下ろす山ツツジの木が、細かな毛に露をためて心なしか項垂れていた。
紫陽花の群れをすり抜け、花を落とした水仙を踏まない様に、大成は車庫を目指す。
湿ったスニーカーをおろした先で、芝生が含んだ雨水が跳ねた。
ふと、大成の自転車を押して進む足が、止まる。
きゅうんと、どこからか犬の声がしたのだ。
寂しげで訴える色を帯びたその声は、聞きなれた愛犬の声であると気付く。
「…ケンゾー?」
自転車を停めた大成は、問い掛けるように相棒を呼びながら、鳴き声の聞こえた方角に足を進めた。
その先にあるのは、小学校時代の教科書や持ち主の居なくなった箪笥など、不要になった物が手当たり次第に放りこまれた納屋だ。
土と埃の混ざったにおいがする。
覗き込むと、鳴き声と共に、暗がりが動いた。
雲を抜け、開いた戸の隙間から射した薄明かりの中に、黒い犬が顔を出す。
昔、こんな雨の日に拾い上げ、それ以来、大成の家族になった犬だ。
衣替えを終えたばかりの制服が、ズシリと重い。
濡れたままの大成は、愛犬の傍に屈みこんだ。
イギリス産の猟犬に似た黒い大きな犬は、嬉しげに尾を振りながら大成の手を舐めた。
ケンゾウは、本来室内外の犬だ。
普段は、祖父の喜代造の齧る茶菓子を目で追いながら、茶の間でのんびりと寛いでいるその犬が、今日は足元にドックフードと水こそ置かれているものの、今は暗がりの納屋に押し込まれていたのだ。
嫌な予感がした。
いや、嫌な予感しかしない。
設けられた庭を囲む腰ほどの高さの柵の隅にある、押し戸を開ける。
庭の入口に止めたままの自転車は雨ざらしのままだ。
家の外周を回り込む。
そこに在るには、今の住まいより一代古い家を改装して作られた車庫だ。
常ならば、祖父の仕事用原付と余所行き用スクーターが停まっている場所には、一台の車が止まっている。
降る雨を纏ってなお、底光りするように輝いた大きな車だ。
威圧感すら与える黒のドイツ車。
口の中が苦い。
台所の窓から、白い湯気が流れ出している。
混ざり込んだにおいは空腹の胃を刺激するのに、家の中に入りたいとは思えなかった。
捨てられた木、捨てられていた犬、置いて行かれた不要物、祖父、自分。
安息の地が、崩れている。
一度、要らないと切り捨てられた物が肩寄せ合って生きる場所がここだ。
じゃくりと、背後で靴音がした。
手の平に、汗が滲む。
「大成」
低い声に逡巡する。
振り向きさえしなければ、無かった事に出来る。
そんな気がした。
「呼ばれたら、返事くらいしたらどうなんだ?
そんなことで、社会に出てからどうするつもりだ」
しかし、それはどこまで行っても所詮錯覚で、現実は一つも変わりはしない。
その人物は、そこに居る。
再度、威圧的な低音に名前を呼ばれて、ゆっくりと振り向くと、そこにあったのは濃紺の傘、黒いスーツに銀のフレーム眼鏡。
「…久しぶりですね、父さん。
どう言った気の迷いで、こんな田舎に帰って来たんですか?」
発した声が、少しだけ尖る。
威嚇か、対抗か、怯えか。
理由を探っても、少しも好意的な答えは出てこない。
大成の父、黒羽文彦は日本有数の有名企業の広報をしている。
元々は地方支社の営業マン部長であったのが、その話術と販売実績を買われ、数年前に本社勤務になったのだ。
大成は、終始眉間にしわを寄せ、高圧的に話す家での父しか知らない。
愛想や話術、人柄が勝負であろう営業がなぜ父に務まったのだろうか。
それが不思議でたまらない。
「聞いたぞ。
お前は、また泳ぎ始めたそうじゃないか。
本当なのか?」
珍しくも、捨てて行った故郷へ帰って来た理由に合点がいく。
誰から漏れ聞いたかは知らないが、大成が再び泳ぎ始めたと聞きつけ、帰って来たのだ。
過干渉にも程がある。
「…まだ、負けては居ないですよ」
「馬鹿なことを」
久方振りに会った父親は、眉間の皺を深くする。
不機嫌な印だ。
何か気に食わない事があると、隠しきれずに皺が寄る。
そんな所ばかりが、良く似ていた。
「まだ、自分は特別だなんて妙な自惚れを抱いているのか。
そんな夢は、もう醒めたんじゃないのか?
それなのに、まだお前は…」
「そんなんじゃ、無いですよ」
大成は、自嘲気味に笑った。
その笑いをどう解釈したのか、さらに深くなるのは父親の眉間の皺と親子の溝だ。
右腕が大成の腕を掴んで、家の中へと引きずろうとする。
「いいか、大成。
明日、お前も東京に来るんだ。
学校だったら、父さんがこんな田舎町の県立高校よりもいい所に入れてやるから。
それがお前の将来のためだし、いつかお前も父さんに感謝するようになる」
人の話も聞かず、我を押し通す。
その悪癖は、数年が経った今も治っては居ないようだった。
力いっぱい、その手を振り払う。
その手に無理に従う事は無いのだと、従わなくてもいいのだと、教えてくれたのは祖父母だ。
だから、自分はここに居る。
この手を、振り払う事が出来る。
何度だって。
睨みつける目に、力を込める。
なりたいものと、なりたくないものの差くらい、もう分かる。
「貴方のようになるために、ですか?」
息子の言葉の棘を、文彦は聞き逃さなかった。
「親をバカにするのもいい加減にしろ!」
怒鳴り声が、響いた。
物陰から様子をうかがっていたケンゾウが、びくりと怯えた動きをする。
ケンゾウに対する、前の家での扱いは知らない。
けれど、大きな音や怒号、手を振り上げる動作に極端に怯える様子から、あまりいい扱いをされていたとは思えなかった。
だから、黒羽家では大きな音を嫌う。
「…怒鳴らないで下さい、ケンが怯える」
押さえた声で反論し、大成は眉間を睨みつける。
反論も、反抗も出来る。
でもそれが、今の自分の精一杯だ。
ぎろりと見下ろす視線を、真正面から受け止めるほどの勇気は、無かった。
踵を返して、玄関へ背を向ける。
「大成!」
雨に濡れても、構いはしない。
もう、今更だ。
「負けたら、約束通り東京に連れて行く。
水泳なんて遊びは、さっさと捨てなさい。
いつまでも遊んでいられる時代は過ぎたんだ、いい加減大人になれ!」
背中に当たった声に、肺が重くなる。
完璧を求める父は、一度の失敗も許さない。
だから自分を完璧であると思っている。
思い込んでいる。
だから正しい自分に反抗する息子は、間違ってる。
父の思い描く道を逸れ、大成は捨てられた。
どこまでも、狭量で矮小な人物だと思う。
知っているのに、巻き付いて離れないのは、この身を覆う劣等感だ。
大成は、振り切るように駆けだした。
今の家には居辛いのだろう、ケンゾウも大成の後を負って、横に並ぶ。
気遣わしげな視線に、微笑みを返して見るが、上手く笑えているかは分からない。
足に、ぐっと力を込めると、ケンゾウも真似をするように加速する。
大成がケンゾウと出会った日も、こんな雨の日だった。
だから、もしかしたら、その日のケンゾウもこうして駆けたのかもしれない。
こうして、一人と一匹は雨の中、再び逃げ出した。