東のソラが白む。
それが、捧げの儀開始の合図だった。

いく千もの瞳がソラ神の神殿に注がれる。
白色のみが欠けた色の洪水も、興奮にきらきらと輝く顔も、微かに覗き始めた陽光の片鱗によって徐々に明度を上げて始めていた。

祭壇からは、群集の一人ひとりはよく見えない。
けれど、嬉々とした感情を感じる。

彼らは待っているのだ。
全ての穢れを消し去った、全ての罪が許された新たな日々の幕開けを。

シュラはその様をただ、冷たい瞳のまま静かに見下ろしていた。

里は馬鹿の集まりじゃないのか。

そう思うのはこんな時だ。
これからこの祭壇で起こるのは、自分が起こす事になっているのは、血なまぐさい行為だ。

尊い儀式。
救いをもたらす供犠。
言葉を変えて誤魔化そうとも、どんな優美な言葉で飾ろうとも、鬼子の命は潰えて星守りは殺人者となる。

物語でも伝説でもない、現実。
それを、今や遅しとばかりに、嬉々として待つ心情が知れない。
睡魔に攫われた子どもを揺り起こし、背負うてまで、観覧しようとする理由が分からない。

シュラはゆるゆると視線を動かす。
屈強な男女が固まって佇んでいる武芸者の集団の中に、ロシの姿は無い。
介添え役の任に倣い、鎮守の杜から鬼子を祭場に引き立てているのだ。

進んでこんな殺しの片棒を担ぐような真似をしたがる年少の少年の心もまた、シュラには分からない。

メラクは武芸者の里だ。
依頼を受け、山奥に隠れる里から一歩でも踏み出せば、そこはすでに阿修羅の庭。
人を、温かな温度を持った生き物を屠る事など日常に変わっていく。
感傷など抱く暇も無いほどの早さで。

この里に居ると、分からなくなる。
狂っているのは、この場所なのか、それともこんな思いを抱く自分か。

己が感傷的な思考シュラは失笑を零す。
この苦痛を割り切る事も、拭い去る事も出来なかった。

どんな事を思おうとも、何のために行おうとも、起こす結果は変わらない。
変える気も無い。
けれど、もしかしたら、決意するまでの過程には、この不快感も含まれているのかも知れないと思った。

――チャリリ。

細い金属の擦れ合う音に、思考は明け行く新月の夜で焦点を結び直す。

祭壇前の北広場に背を向けたシュラの前で、厳かに、けれど確実に白木戸の荘厳な扉が開いていく。
ソラ神の社の中には、少女が長い袖で恭しく、漆塗りの鞘に収まった片刃の剣を捧げ持って立っていた。

鍔の無い造りは対等の立場で攻防の伴う戦いの為に作られた物ではない事を匂わせている。
少女が一歩踏み出す毎に鳴る足輪の音が酷く耳に付いた。

「星守り様、断罪の剣に御座います。どうぞお受け取り下さいませ」
「ああ、ご苦労だった。下がれ」

足元で、細い金属が再び鳴る。
かむろの頭を下げて、巫女は捧げの儀の流れを撫ぜた。
シュラ自身、何度も何度も師匠によって教え込まれた儀式の中身を何一つたがえず、その型通りの応対を交わす。

『東がどんな祭司を仕立てても、きっと、今のお前には敵わない』

キシ翁が何時に無く強く言ったのは一週間ほど前の事だ。
あの温和な中に烈火の如き情熱を秘めた老人は、事の外シュラに目をかけ、その在り様を高く評価してくれていた。

(爺様、悪いな)

一瞬の罪悪感にどこか体の奥の方がちりりと痛む。

師匠への借りは途方も無く大きい。
過去、臆病者と言われ、実の親にすら諦めと軽蔑の眼差しを向けられた自分を、それでも見捨てずに目を掛けてくれた師匠。
礼などは言った事も無いし、言わずに終わるつもりだ。
何時かはその恩義に報いようと思っていたのに、何もしないまま、出来ないままに遂にここまで来てしまった。

里中の蔑みの目、嘲笑、陰口、後ろ指。

今後、自分が老人に残すのはそう言うもの。
恩を仇で返す事になってしまう。
だから余計に、痛むのだ。

それでも、決意は揺らがない。
見据えるべき未来は、手の平から零れない。

これでもまだ人は自分を臆病だと評するだろうか。
裏切り者と詰られる事はあろうとも、それだけは無い気がした。

かむろと思考の上側を滑っていくだけの会話をした後、差し出された刀剣の柄に手を掛ける。

黒檀だろうか。
血の紅さえも吸い込んでしまうほどの黒々とした持ち手は、馴染んだ間棒とは違い、冷え冷えと心身を冷やした。
鍛えられた鋼が、血を、命を喰らう事を欲している。
そんな気がした。

姿を木々の陰に隠したまま昇る朝日に響く、どんどんと言う太鼓の音。
かむろが戻った神殿から、神官が滑り出る様に足音も無く現れた。

「その昔、空と大地の間に世界は生まれた。
 海に生まれた生命がやがて陸へとのぼり、長い年月を要し、その姿を変じていった。
 幾多の進化と滅びを繰り返し、生まれた人族は知恵を手に入れた。
 炎を操る術を知り、創造を知った我々は、やがて世界の覇者となった」

語る声は、白く変わりいく大地を、ソラを渡っていく。
包み込むような声色が語るのはメラクに伝わる『天地再生』神話。
幾度も聞かされた、不快な話だ。

滔々と紡がれる神官の調の中で、思う。

もしも、この祭壇に立つことが出来ていなかったのなら、たった一人、シュラの抱く不快な思いなど大多数の歓喜に紛れて、祭りの場から消えてしまっただろう。
数百のうちの一つなど、そんなものだ。
何か行動を起こしたとしても、すぐに捻り潰される。
里にとって神聖とされる捧げの儀は、多数の武芸者たち守られているのだ。

でも、今は違う。
祭りの一翼を担う事で、星守りになる事で警戒の外側を手に入れた。
『機会』を手に入れたのだ。

時が訪れるまで、儀式は続く。
神官は弛むこと無く詠い続ける。

「しかし、我らが天下はある日、突然脆くも崩れ去った。
 進み過ぎた人族は世界の摂理に弓を引き、神の怒りを買ったのだ。
 大地には穢れが根を張り、世界は滅びにひた走る。
 神の鉄槌は、不浄を抱いた全ての者に振り下ろされるだろう。
 だが皆の衆、恐るる無かれ!
 我らは穢れを払えさえすれば、長らえる事が出来るのだ。
 断罪の夜明けは間も無く訪れる。
 暗澹の夜が今明ける。
 一切の穢れを背負うた供犠の鬼子が、新たな日々の礎になるだろう。
 祝え、讃えよ、ソラ神を!
 清浄の時、今訪れん!」

大きな袂を翻した神官が声高に口上を叫べば、森の木々から夜明けの小鳥が飛び立って行った。

そして、現れる。
好きに飛び立つ事が出来る野の鳥とは違う、捕らわれの籠の鳥が。

白き衣は選択肢の無い旅路を歩む証。
その赤い瞳を覆う布の色さえ白い。

ロシに手を引かれ、祭壇に降り立ったのは、滅びの星の下に生まれた不運の子。
異端の里人、鬼子だった。

「首を差し出せ」

高圧的なロシの声に従って、白き少年が頭を垂れた。
腕は後ろ手に縛り上げられて、身動きが取れない状態に見える。

星守りは唇を噛み締めてその様を睨み付けた。

拳に込められた力が振動を生み出し、武器が微かに音を立てる。
介添え役も鬼子も、些細な変化に気付く事は無い。

儀式は、滞り無く進んでいく。

「星守り様、お願いいたします」

鬼子を引き立てて来たロシは慇懃に頭を下げて元の巣穴へ帰って行った。

太陽が山際を照らす朝焼けの朱色。
鬼子の髪のと衣の白。
握り締めた刃物と嵌めた籠手の黒。

明度を上げつつある色彩の対比は目に鮮やかにシュラの目を射た。
吸い込んだ朝の空気は、肺の内と共に心を澄ませていく。
日はもうほんの数分で顔を覗かせるだろう。

剣の柄を右手に、鞘を左手に。
力強く握り締める。

刃物はすらりと軽やかな音を立てながら、容易く二つに別れた。

(やるぞ)

これは覚悟ではない。
決意だ。

太鼓が打ち鳴らされ始める。
どんどどん、どんどどん、どんどどん…と、一定のリズムで。

観衆が息を呑むのが分かる。
見なくても。
この先に訪れるだろう一つの命が潰えると言う現実と、仮想でしかない清浄を待ち侘びて。

シュラが振り翳した長刀は、切っ先で真っ直ぐに天を指す。
微かに顔を出した陽光に反射し、金属独特の狂気を孕んで底光る。

「陽の力をその身に宿し、断罪の時、訪れん!」

神主が叫んだ。

断罪の夜明けを越えて踏み込むは、穢れ無き朝。
これから昇る朝日は確かに、シュラにとっては罪からの開放となる。

他の里人に混乱をもたらす物だとしても。

「セイル」

突然名前を呼びかけられて驚いたのか、鬼子が肩を揺らし、星守りを仰ぎ見ようとする。

「なんでもない振りしてろ。
 ――約束、果たしに来た」
「は?」

状況を飲み込めていない不運の贄が発した困惑の声には答えなかった。

ただ白刃を、大地に引き寄せられるに任せて真っ直ぐに降り降ろす。

傷付ける為だけに鍛えられた剣が、その使命を違えようとしていた。
鬼の子の背を目指して、降る銀に跳ね返る朝日。
金刃は降りた先で、鬼子を拘束していた紐を鮮やかに両断、切り裂いた。

たいした力は込めていない。
けれど、吸い込まれるように、斬れた。

続いて、一呼吸の間も無く、星守りの手から幾つもの小さな影が放られる。
素早く、観客がどよめくよりも、速い動作だった。

幾つもの破裂音がこだまする。
観客達は動揺を露わにし、悲鳴や怒号を上げながら危険の中心地へと変わった祭壇から遠ざかろうとした。
立て続けに起こる音に己や身内の身を庇い、ただ、逃げる事しか考えていない。

「ええい、うろたえるな!通せ、通せ!!」

ソラ神の祭壇を目指す面を被った人々でさえ、波に押し流されて思うようには進めなかった。

祭りの最中、面を着ける事を許されるのは祭司と星守り、それに里の外に名を示して仕事を求める事の出来る、武芸者の里メラクの名に恥じない『御目見』の者だけだ。
非常の中を駆け抜け、非常の中に生きる者たちさえも、圧倒的多数の流れには逆らえない。

冷静な判断力を生かして波間を縫うように進んだ、戦慣れした武芸者の内の数人が、木製の階段を駆け上がった時には、すでに星守りの姿は消えていた。
白き禁色の鬼子と共に。

「皆、鬼子を探せ!見つけ次第ここにつれて来い!
 最悪、死んでいてもかまわん」

我に返った長老の命令が響き渡る。
その言葉を聞き、仮面は森の中に消えていく。

「大それた事をしおって」

弟子の思惑通りに起きたのだろう混乱を傍観し、キシ翁が呟いた。

シュラと言う弟子は、貪欲だった。
心身ともに負けない、強い自己を得る為にただ邁進し続けている日々。

同時に、時折酷くこの里の体制や生き方に抱いた不満の片鱗も垣間見せていた。
言動の端々に表れる、表面上は静かな、けれど燃え滾る怒りの感情を有している事にも気付いていた。

捧げの儀に対して嫌悪を抱えているはずのシュラが、祭司を志願した時の並々ならぬ眼光の鋭さ。

何か起こすつもりだと言う、確信に似た予感はあった。
だが、それ以上に、あの瞳に揺らめく意志の炎に賭けてみたかった。

里に入り込んだ狼に手を下せなかったという事件以来、シュラに付き纏っていた臆病者の評価。
事実に反する汚名を拭い去るには絶好の機会だとさえ考えていた。

キシは知っている。
あの時シュラが恐れたのは、狼と言う獣ではない事を。

(しかしまさか、こんな事を計画していたとはな)

呆れ半分心配半分に目を細めるロシ翁の背後でゆっくりと太陽が顔を覗かせ始める。

暗澹の夜は、今明けたのだ。





 * * *





里の囲いを突破する目前で感じた人の気配に、隠れ潜んだ大岩の影。
差した朝日のあまりの眩しさに、セイルは顔を歪めた。

薄暗かった森が白く輝き、色を変えることも落ちる事も無かった、光沢のある厚手の木の葉に反射する。
久方ぶりの太陽、そして、迎えることは無いと思っていた夜明けが訪れたのだ。

目蓋を覆っていた布は安全の為に外し、腕に結んでいたが、走るうちに何処かに消えてしまった。
檻であると同時に鎧でもあった闇はもう鬼子の手の内には無い。
心から欲した光でも、セイルにとっては明るすぎた。

横合いから、暗色の狼の面が差し出される。

「着けとけ、少しは違うだろ」
「あ、ああ」

受け取って、その面の持ち主である星守りの顔を眺める。

岩に背を貼り付け、僅かな視界に神経を尖らせる横顔はその手の中の刀の切っ先に似て、鋭い。
凛と張り詰めたその様を、セイルは凝視する。

「…何だよ」

視線に耐えかねたのだろうか、周囲への警戒を解かないまま、少しの意識と雰囲気以上の鋭さを孕んだ瞳がセイルに向けられた。
その光の加減で青が見え隠れする濡れ羽色の黒い瞳に、改めて確信する。

「シュラ、お前、ばかだろ」
「数年ぶりの再会で、言うに事欠いてそれか」

気になっていた気配は遠退いたのだろう、ぐるりと、今度こそ完全に向き直ったシュラは、助け甲斐がない、と眉根を寄せた。
自分達が逃走中と言うことを考えてだろう、文句を言う声量は随分と抑えられている。

「何だよ、お前お涙頂戴の感動的な再会とか期待してたわけ?
 そんなおセンチな趣味してないぜ、おれ」
「そこじゃない、ばかってなんだよ」

鬼子を救うと言う事は、里に牙を剥く事と同意であり、何処までも無謀な事。
手利きの追っ手が多数付く事は目に見えている。

逃げ切れる確証は無い。
生き延びる保障も無い。

その場に残っても、捕らえられても、行き着く先の変わらない鬼子と違い、シュラにとっては危険以外に得るものは何も無かった。

「昔の、ガキの約束一つで、こんな事するなんて、ただの馬鹿だ」

シュラの行動を、セイルは詰る。
平静を保とうとする表情の中で、暗い青だけが揺れていた。

気まずい沈黙が、岩陰を支配する。

「おやおや、随分と酷い言い方だねぇ」

脊髄反射で弾かれたような素早さで、不意に聞こえた声から遠い方にセイルを突き飛ばしたシュラは、武器を構える。
そして、岩陰から現れた涅色の長外套を見るや、片刃の剣の鞘を払った。

「誰だ」

セイルを背に庇うように、シュラは一歩前に出る。

現れた人物は、一見したところ武器を有していない。
だが、ビロードの外套と熊を模った面に完全に隠されている。
中に何を持っているかも、着込んでいるかも分からない。

「何の用だ」

シュラの構える刀の切っ先は、ビロードの喉に照準を合わせていた。
数歩踏み込むだけで、突きが決められる。
全体重をかければ、その喉が防具で守られていたとしても、昏倒させるくらいは出来るはずだ。

「恐いねぇ、その様に凄まれては声も出なくなってしまう」

外套の男が笑う気配がした。
降参とばかりに両手を挙げる様はあくまで楽しげで、突きつけられた刃に恐怖する気配すら無い。

少しの気配も感じさせず、近寄ってくるほどの人物だ。
きっと、場慣れしているのだろう。

それでも、逃げるためには負けられない。

「斬られたくなければ、質問に答えろ。
 面を着けてはいるが、里の追っ手じゃないのは分かる。
 この里で熊面をつけているのはタズの親爺だけだが、体格が端から違うぜ。
 あんた、奉納試合に乱入してきた、魔術師だろう。
 おれ達に危害を加えないと分かりさえすれば、このまま逃がしてやる」

平坦な声のまま恫喝し、シュラは構えを正した。
それを見た外套の男はさも可笑しそうに笑う。

「はは、何を言うのかと思えば…
 脅しと言うのはねぇ、自分が優位に立てた時するものだ。
 現時点で私がその気になれば君達のような子ネズミ、ほんの一捻りだというのにどうして脅しが成立しようか。
 それから、君は未だ逃げ切れるつもりでいる様だが、里の包囲網は固まってしまったよ。
 柵という柵、入り口と言う入り口に御目見達を筆頭にして数々の手勢が集まっている。
 いかに星守りと言えど多勢に無勢、その上、馴れた武器も無いとなれば、逃げ切る事など不可能だろうねぇ」

言うなれば君達は袋のネズミだ、と評する声には喜色が増していた。

「だが、私が君達を無事にこの里から出してやろう。
 まぁ、君達が私の提示する条件を飲んでくれれば、の話だがねぇ」

シュラが警戒を強くする。
その背で、ずっと口を閉じていたセイルが口を開いた。

「シュラ、刀収めて。この人の話を聞こう」
「おい、何言って…」
「シュラ、駄目だ!身体動かすな!」

目の前の男への警戒を弛めないまま、振り向こうとしたシュラにセイルが警告を叫ぶ。
がちりと動きを止めたシュラの背にトンと硬い物が当たった。

それが何であるかは分からない。
けれど、シュラは背筋を這い上がるような怖気に襲われた。

ゆっくりと、首を回らし、背に突きつけられた白刃のきらめきを確認する。
腕を視線で追っていけば、前面にいる男と同様、熊面と暗い長外套が確認できた。

「この人がその気になれば、おれもお前も何時でもあの世にご案内だったわけだ」

首に黒から伸びる白い腕を巻き付かせ、セイルは口元を歪めた。

「…仲間が居たとはな」

瞠目していた一瞬の隙に、正面の男に剣を構えた利き腕を押さえつけられ、シュラは低く唸った。
生き物とは思えないほどにひやりと冷たい手の平は、力を込めている様子も無いのに、引く事も振り払う事も叶わない。

舌打ちをするシュラの周りを、黒衣の男の笑い声が回る。

「仲間だって?笑わせるねぇ。
 その解答は不正解だよ、星守りのシュラ君」

ぱちりとセイルに巻きついた指が鳴った。
刹那、シュラの腕に掛かっていた負荷が消える。
そして、どさりと言う音と風圧が。

何が起きているのか確認するために、シュラは首ごと前を向いた。
だが、そこにあったはずの黒は無い。

消えた敵を探して彷徨った視線は、地に落ちた黒布を捕らえるが、その中に人の形は無い。

吹く風に攫われ、地に落ちた外套が翻る。
中に貯まった土くれから、細かな砂塵が舞った。

「ああ、驚かせてしまったようだねぇ。
 あれは、ただの傀儡。私の作った泥人形さ」

言葉が終るのを待たず、シュラは右足を素早く一歩前に踏み出す。
その足を主軸に、屈み込みながら体を反転。
左足で思い切り大地を蹴り、男の刃を構える腕の中へ。

「まだ戦る気かい、困ったねぇ」

それほど困った様子もない呟きにセイルの危機感は煽られる。

「少々手荒には成るが、守り手殿には気絶していただこうかねぇ」

耳のすぐ傍で、独り言のように聞こえた不穏な発言に、体が勝手に行動を起こした。
舌を噛まない様歯を食いしばり、地面を蹴る。
ガンと、鈍い音がした。
今まで大した抵抗を示さなかったセイルに油断していたのか、男は面の上から頭突きを食らい、するりと、セイルの首から白い腕が離れる。

後頭部での攻撃に、自身も痛手を負った様で、セイルは強い耳鳴りの中、頭を抱えた。
暗む視界に倒れそうになるのを、シュラが慌てて支える。

「おい、何してるんだよ、このばか」
「今、ちょっと怒鳴られたくない、真剣に」

頭に響くのだろう、セイルは耳を塞ぐ。
その様子に、シュラは渋面を作って口を噤むしかなかった。

(脳震盪か)

意識の混濁も失神、嘔吐感も無い様だから、きっと軽い。
今は動けなくても、少しすれば回復する類の症状だろう。
心配するほどではないようだ。

ならば、とシュラは再び黒マントに意識を向ける。
ならば、相手の損害はほとんど無かったと思っていいだろう。
面に守られていたのだから尚更だ。

予想よりはダメージを食らっている風な不審人物は、ふらふらと二人から距離を取る。
それでも、シュラの意識が自分に向き直った事に気付いたのだろう。
男は暢気な声を出す。

「いやいや、私とした事が見事に不意打ちを食らってしまった。
 穏やかに商談、と行きたかったと言うのに、やはり何処までもメラクの里は野蛮なのかねぇ」
「生憎だったな。
 この里じゃ、顔も見せられない様な野郎は信用するな、って言われてるんだ」
「やれやれ、いくら里を裏切ろうともメラク人はどこまでもメラク人か」

男の台詞は、神経を不快に撫でる。
再び剣を構えたシュラの前で、不気味な程に透き通った細い指が、熊の面をなぞり、外した。

「はじめまして、打ち手、守り手のご両人。
 夢幻師にしてソラの為政者、ムヅキがお迎えに上がりました」

どうぞ、共に御越し下さいますよう――そう言って、慇懃無礼に頭を下げたムヅキがその顔を上げた。
現れた顔は、面と同様の白と言うよりは、白の中に微かに青を混ぜ込んだような病的なもの。
フードに囲われた顔が笑みの形に歪んでいた。

「打ち手に、守り手?」

聞きなれぬ単語をおおむ返しに繰り返しながら、シュラは眉間の皺を深める。
握った武器の柄は、手の内に再び収まり、再びの反撃を狙っている様にもみえたが、ムヅキはやはり、気にした様子も無い。

「そうか、この里には、『天の釘打ち』が伝わっては居ないんだったなぁ」

それも仕方ないか、とムヅキは外套にふわりと風を含ませながら、木の上へと跳び上がった。

「それでは、何も知らない君たちに、このムヅキが語ってあげよう。
 この世界の成り立ちと、そこにある危機救う手立てを」

ざわりと、木々がそよぐ。
ピリリ、危機感に身体が反応した。

咄嗟に傍らのセイルの手を握る。
握り返される。

瞬間、意識が遠のいた。



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