物語の目覚める刻





物語を語ろうか。
遥か昔の、もう忘れ去られた時代に存在したという、ソラと呼ばれた大屋根にまつわる話だ。
ソラと、ソラを支えたという樹と星を巡る、消えてしまった物語。
そう、それは月の掻き消えた星夜の晩に、こんな風に始まった――――










暗い、暗い、閉じた世界で四肢が軽いと感じた。
縫いとめられていた水底から、ふわりと浮かび上がっていくような、浮遊感が続く。
夢からの解放を、自覚した。

――途方も無く、長い夢を見ていた。

硬いベットに横たわった身体を、冷えた汗が伝う。
深い眠りの間に作り出された幻影の中で背筋を駆け抜けた悪寒が、鮮やかによみがえった。
鳩尾の辺りが、重く冷たい。

全てを、ハッキリと覚えている。
思い出すだけで、ひゅうと喉が鳴るほどに競り上がる恐怖も、眼前から消えていくもの達の姿も、全て。
伸ばした手の平は虚しく空を掻き、指の隙間からこぼれて行く、大事なもののかけら達。

叫んだはずの声は闇に呑まれた。

未だに覚醒しきらない、霞がかかったようにぼやけた頭ですらも、不毛だと理解していた。
それでも、もしかしたらと首だけを回らせる。

もしかしたら、もしかしたら。
そこにあの笑顔が居るかもしれないという微かな希望。

それでも、切なる願いとは裏腹に、見えたのはランプの炎が照らし出す薄暗い部屋だった。

すぐ傍の壁には様々な色形の乾びた香草。
床には元々は白かったであろう、くすんだ毛足の長いラグと黄ばんだ羊皮紙を束ねただけの作りの荒い古書が散乱している。
ランプの光よりも赤い置き火の燃える暖炉では、大鍋が白い煙を吐き出しながらことことと歌っていた。
瞳を閉じる前と変わる事の無い、門番の部屋が其処に在った。

再び目蓋を下ろせば、落胆の色を隠せない溜め息が漏れる。

「目、覚めた?」

舌足らずで、おっとりとした少女の声が聞こえた。
軋む間接を叱咤して上半身を起こせば、自分が覚えているよりも随分と長くなった髪が、肩を滑り降りる。
自分の心が現実を離れていた間にも、この体は少しずつでも時を刻んでいたのだ。

久方ぶりの灯りに当てられたのか、頭の隅が鈍く痛みを訴えている。

完全に目が覚めたことが伝わったのだろう。
黒々と古びた戸の前で、幼い少女が微笑んだ。

傍らでは同じ年頃の少年が、腕を組んでこちらを観察している。
ガラス玉の様な、何も映さない無関心な紫の瞳だった。

少女の方は桃の化身、ウツルイ。
もう一方の少年は葦の化身、シント。
一見しただけでは分からない、瞳と髪質だけがよく似た双子であり、彼らはこの部屋の持ち主である門番でもあった。

眠る前の確かな知識に出会った事で、思考が正常に働いている事を確認する。
あれは夢であっても、想像ではない。
すでに起こってしまった事実を象徴的に追憶していただけなのだ。

「――どちらだ」

長い眠りの中で香草同様干からびたのか、声は喉に張り付き掠れている。
無理やりに音を搾り出してでも、まずは事態の確認を図りたかった。

問いかけに対して、ウツルイは目を伏せてしまう。
唇をかんで、貝になるその姿は、温和な少女に似合わない行動だった。

「起こしたのは大樹だよ。それも、シゴトを終えたからじゃない」

言葉を捜す片割れの代わりに、一片の興味すらも無い瞳のまま、シントが口火を切った。
状況にも相手の感情にも頓着しない彼には珍しいことに、一拍、隙間が開く。
その顔をちらりと、苦いものが過ぎる。
言いにくい事というよりも、これから口にする単語自体に嫌悪感を抱いている、といった表情だった。

視線だけで先を促せば、半ば吐き捨てられるように言葉が続く。

「アイツ、ソラ崩しする気だ」
「――そうか」

シントのもたらした情報は、ショックも驚きも生むことはなかった。
それどころか、納得さえした。
心のどこかが、ただ漠然と、こんな事が起こると予感していたからかも知れない。
ひっかかりを覚えていた記憶の全てに、ソラ崩しはぴたりと符合する。

「捕縛の、葦。職務、怠慢だな。」
「違うの、シントは悪くないの。モモでも歯が立たなかったんだよ」

いくぶん出やすくなった声でのシントへの非難に、割って入ったウツルイが告げた事実に頭の痛みが増した。
モモと言う名で呼ばれる、普段からウツルイの背後に控える白色の虎は強大だ。
そして、裁断の桃の命令一つで、的を切り裂く残忍さも併せ持っている。

それを退けたという事は、昔よりも確実に力をつけている。

大分、後手に回っているようだった。
何時までもこの場で話をし続ける余裕などはない。

足に力をこめ、一息に立ち上がる。
長く眠った身体は、立つ事を忘れていたように不安定に揺れた。

支えようとするシントを右手で制し、ウツルイの差し出した外套を羽織る。
それは着慣れた、漆黒のマント。
世界の明日を憂う、暗きソラ色の外套だ。

旅立つ準備が整うと、シントが口を開いた。

「猶予は約半年間。今宵より、六つ目の満月が消えるまで」
「確かだな?」
「どうあっても、それまでは保たせる」

シントの表情は変わることは無い。
決意も責任感も、何一つ感じないかのように、ただ、己に蓄えられた知を引き出して口にする。
機械仕掛けの人形のように与えられた役目だけを、ただ、淡々とこなすだけだ。

見習わなくてはと、一人ごちる。
ここから先に心は要らない。
他への執着も、その者が置かれた境遇への憐憫も在ってはならない。
約束を果たすために必要なのは、冷静で的確な判断だけなのだ。
賽を振るのは自分だけに、ソラの為政者だけに定められたシゴト。
負けを許さぬ一番勝負だ。

心が、ゆっくりと冷えていくのが分かる。
遠い日の初めての旅立ちとは違い、心浮き立つ事も無い。

知ると言うことは途方もなく重いことなのだ、と切なげに笑った彼の顔が脳裏に浮かぶ。

(お前の、言ったとおりだな)

吐息と共に、自分への嘲笑が漏れた。

それでも、愚か者は愚か者の道を貫き通さなくてはならない。
爪の長い、他人の物かと見紛う右手を肩の高さまで真っ直ぐに上げると、ぞろりと布が流れた。

「さぁ、物語を始めよう。世界の行方を定めるために」

腕を、右の空間へ振りぬく。
全身を覆い隠すように黒夜のマントをひるがえせば、空気が鳴った。

生まれた一陣の風が、積もった埃を舞い上げる。

「我を導け、舵の七星。ソラの為政者の望むまま!」

音が、声が、薄闇に染みた。
ゆっくりと、しかし確実に、薄闇のはらむ静寂に吸い込まれて消える。
耳に痛いほどの静寂が渦巻いた。

凛と背を伸ばした黒衣の姿は、すでに部屋の中に無い。
はじめから存在しなかった様に、跡形も無く消え去った。

薄汚れた庵に双子の門番が残される。

「どうか」

ドアよりも黒く汚れた木目の床に、ウツルイが躊躇いも無く膝をつく。

「無事に釘打ちがなりますように」

細い指を組み合わせ、頭を垂れて祈る。
シントは頭上の天窓を見上げた。

積年の埃にまみれたガラスの向こうでは、どこまでも遠い北の空には、いつもと同じ北極星が白く輝いていた。


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