まばたきよりも、少しだけ長い闇だった。
真っ暗から濃紺、濃紺に微かな橙がが混ざっていく。
段々と明るくなった視界は、小枝子の居場所を映しだす。
映るのは、淡い淡い灰色。

夜を孕んだ、白い布に包まれた場所だった。

(ここは、どこ?)

訝って、小枝子は周囲を見回す。
どうやら、三段の階段の様なものに布が掛けられているようだった。
その布と見なれぬ段の骨組みに守られた空間で、膝を丸め、目を閉じていた。

潜りこんだ時間は、分からない。
けれど、確かに記憶の断絶があった。
周囲は既に薄闇に包まれた時刻になっていた。

なぜか濡れている頬を拭い、布の中から這い出す。
古びた畳のささくれ立った感触が、手の平と膝をちくちくと刺激する。

小さい手だ。
なぜかは、分からない。
そう感じた。
元々、こんな手のはずなのに。
何もつかめない、守られているだけの、小さな手の癖に。

暗がりよりも、少しだけ闇の遠のいた空間に出る。
天井が、高い。
誰のものか分からない手の跡が恐怖心を煽る。

周囲を見回しても、何も居ない。
誰もいない。

ただ闇と、日本風の部屋の中に、白い布が掛けられた三段の階段があった。
一段目には、白い四角い箱。
二段目には、果物と花。
一番下の段には、線香立てが並んでいる。
そうして、白木の板に書かれた戒名と俗名。

小枝子の隠れていたのは、仏事用の祭壇の中だった。

数々の花が手向けられて、ゆっくりとくゆる煙が、立ち上っている。
白い菊と青々としたシダ植物の葉の中で目を射るオレンジの色は、極楽鳥花。

大嫌いな花だ。

手を伸べて、むしり取る。

湿った手触りをクシャリと握りつぶし、捨てる。
嫌悪感に、気持ちが悪くなった。
自分の唾液すら、気持ちが悪い程の吐き気だった。

無理矢理に口の中にたまった唾を飲み下し、数度の深呼吸をする。
段々と鼓動が落ち付いて行く。
落ちついて来ると、周囲が気になった。

そこは、どんよりと湿った、暗い家のであることに気付く。

とても居心地が悪い。
粘るような空気の重圧に、息が苦しくなる。
嫌な場所だ。

(私の、家?)

気付いた瞬間、小枝子の鼓膜を音が揺らした。
無音だった世界に、突然のざわめきが満ちて、痛いほどだ。
小枝子は耳を塞いだが、音はそれすら突き破って満ちて来る。

怒号と金切り声が飛び交っている。

父と母が、言い争いをしている声だ。
きっと、自分が近づいたら、いつも通りのふりをするのだろう。

足音を潜め、廊下を進む。
柱の影から、覗いた部屋の中では、祖父が暗い顔で俯いていた。
その手から零れたものだけをいとおしむのが、祖父の悪い癖だ。
手の中にある時には、顧みることもしない癖に。

「早く死んでしまえばいい」

その冷たい言葉を、小枝子は忘れることが出来ない。
一生、覚えていようと思う。

隣室で、何かが割れる音がして、兄の仕業だとすぐに気がついた。

(そうだ、窓を割ったんだ)

ガラスが割れる。
母が泣く。
父が怒声を上げている。
祖父は、無音を貫き通していた。

これは、同時に起こった事ではない。

けれど、全て確かに起こった事だ。
小枝子がその目で見たことだ。

あの日々と同じように、小枝子は何も出来ずに俯くしかない。
膝を抱えて、耳を塞いで、それでも音は染みて来る。
大音声や重苦しい沈黙に、責められる。

昔は、こんなことは無かった。
家族は家族で、家は安息の場所だったはずなのだ。
小枝子が、そう思っているだけだとしても。

ぎゅうと強く目を閉じても、いくら強く耳を塞いでも、現実は確かにそこにある。
ギシギシと不協和音をたてながら、それでも柳田と言う血縁と婚姻をよりどころとした集団は、存在し続けていた。

(どうしてこんなことになっているのだろう)

痛いほどに耳を押さえて、小枝子は考える。
祖父がいて、父がいて、母がいて、兄がいる。
何が変わってしまったのだろう。

考えて、答えを知りたくて、小枝子は緩慢な動作で膝から顔を上げる。

祖母が、居ない。
柳田冴は、長い病苦を堪えた末に、逝ってしまったのだ。

それだけで、家の中は暗い。
不協和音が響き、崩壊はもう目の前だ。

電気がついているのに、こんなにも人がいるのに、闇だ。
自分の姿すら見失うような深い闇の中で、小枝子は小さな光を見出した。

発光するのは、小さな箱。
白い布が掛けられた段の上に据えられ、光っている。
中にあるのは、白磁の壷だ。

祖母の、否、祖母だったカルシウムの塊が入っている。
四十九日が過ぎるまで、と、家の仏間に鎮座した、祖母の欠片。

震える手で、固い布を取り払う。
鼓動が、五月蝿いほどに耳に響く。

「小枝子」

その音に混じって、祖母の声が聞こえた気がした。
祖母が、呼んでいる。
小さく、微かに。
けれど、確かに。

小枝子は、祖母の声が好きだった。
怒っていても、笑っていても、何処までも通る、その声が大好きだった。
今はもう、思い出せない声だけれど。

小刻みに揺れる指先が、小さな骨を掴みだす。
それは、喉の骨だった。
小枝子の大好きな声を発した部位。

小枝子には、何も言えない。
事態に、抵抗することなど出来ない。
けれど、祖母の冴ならばどうだろうか。

きっと、こんな所で蹲ってなどいない。
家人を怒鳴り付け、尻を叩き、無理やりにでも前進させるだろう。
いや、するはずだ。

祖母は、そういう人なのだから。

祖母の声が欲しい。
強さが欲しい。
祖母の様になりたい。

そうすれば、壊れゆく家族に対抗できる。

ただ、壊したくなかった。
壊れて欲しくなかった。
願うのは、それだけなのだ。

(けれど…どうすれば?)

どうすれば、祖母のようになれるのだろう。
怯まない強さを手に入れられるのだろう。
家族の崩壊を止められるのだろう。

いくら思考を巡らせても、打開策など浮かんでこなかった。
けれど、断片的に思い出した言葉がある。

『知っているか?
 食物は、身体を作る。
 つまりは、何を食べたかによって、人は変わることが出来る』

なんてことは無い、小さな日常の会話だった。
しかし、奇妙に忘れることが出来ない。
馬鹿らしいと思いつつも、もしかしたらと言う希望が捨てられない。
願望が消えない。

ゆっくりと、腕が持ち上がる。
鼻先に近付いた白い破片からは、むっと焦げたような乾いたにおいがした。

舌に乗せれば、粉っぽさを残して、胃の中に落ちて行くのだ。
知っている。

(そうだ、私は…)

胃の腑が、喉が、焼けるように熱い。
内臓を、何かが伝うような違和感が不快だ。
けれど、吐き出してはいけない。

意に反してせり上がる嘔吐感に、身もだえる。
現実が、薄い。
どんどん薄くなっていく。
なぜだろう?

わからない。
分かりたくない訳ではないのだ。
分からないだけ。
分かりたくないだけだ。

自分が、小枝子から分離していく。
そんなものは錯覚なのだ。

せり上がっているのは、骨ではない。
自分なのだと認めることが出来なかった。

認めることを拒否するのは、心情。
だが、思考は理解している。
理解してしまった。

自分が何ものであるのかを。

ずるりと、小枝子が剥ける。
『サエ』が、生まれる。

世界は再び暗転した。

四肢が力を無し、崩れ落ちた。
真っ暗な闇の中に戻って、影の『サエ』は蹲るしかない。

「思い出していただけたようですね」

ことんと、背後で足音がする。
喉を押さえたまま、サエは振り向くことも出来ない。
気持ちが悪い。

目の前がハレーションを起こし、いくつもの光がチラつく。

「貴方は、小枝子さんの願望の形。
 その名前を、祖母に求めた」

額に、汗が浮きだす。
脂汗だ。
苦悶に眉が寄った。

「…そして、私が生まれた、と言う訳ね」

自嘲の笑みを浮かべ、サエは呟く。

指先が、痺れ始めた。
唇は既に疼痛に支配され、動くことも無い。

噴き出した汗は、滑りを残したままで冷えて行く。

自分は誰だ?
分からない。
思考が混濁する。

自分は、サエだ。
冴であって、冴ではない。
小枝子であって、小枝子でない。

絡まる思考に、サエはどうすることも出来ずに立ちすくむ。

「『姥皮』を、知っていますか?」

声がする。
酷く柔らかな、ビロードの手触りのする声が。

「昔話の中で、家を追い出され、山奥に逃げ込んだ少女に、森に住む老婆が与えた衣です。
 着ればたちまち老婆の姿に変わり、脱げば元の姿に戻る魔法の布です。
 老婆は、少女を家族の鬼たちから守るため、『姥皮』を与えた」

ごほり。

喉を痛めるような咳を、サエは吐き出す。

「小枝子さんは、『姥皮』を得るために行動を起こした。
 そうすることで、冴さんになろうと思った。
 けれど、人は誰になることも出来ない。
 だから、貴方が生まれた」

ごほり。
また、一つ。

喉の奥に、異物感を感じた。

「自分である以外、方法は無いのです」

手の平で口元を押さえ、せり上がる何かを必死に抑え込む。

(だめだ)

吐き出してしまったら、失ってしまったら、サエの中から冴が消える。
サエは既に冴と言う姥皮を剥かれているのだ。

冴が無くなれば、サエは小枝子に戻る。
小枝子でしかなくなる。
そうなれば。

「私は、消えてしまうじゃない…!」

苦鳴の様な声が、木霊した。

「だからどうした」

感情の無い、氷の声がする。
闇から浮き出すように、白皙の美貌を持った男が腕を組んで立っていた。
凍てついた黄金の瞳が見下ろし、黒い髪が、ざわりざわりと揺れている。

「鬼なんざ、元々居ちゃいけねェ存在だ。
 それくらい、自分が一番分かっているだろうが。
 とどのつまりが、記憶だの想い出だの希望だのの副産物に過ぎねェ」

蹲るサエの眼前に、少女の脚が現れた。
赤い少女では無い。
サエが履いているこげ茶のローファーと瓜二つの靴を履いた脚だ。

脚を辿り、視線を上げて行く。
そこには、小枝子が立っていた。

周囲に散った、サエの皮膚の一枚を拾い上げ、ほほ笑む。

「お帰り」

小枝子は更に、サエから零れ落ちた表皮を拾う。

一枚の皮膚が絡み付く。
纏わり付く。

肌に、ニキビが出来た。
白い肌がくすむみ、暗くなる。
細く長かった脚が、短くなる。
太くなる。

小枝子の姿が変わって行く。
飲み込まれて行く。

『本当』に近付く度、小枝子はどんどんと醜くなる。
サエからかけ離れた姿になる。
そんな姿は見たくない。

「駄目!」

サエは地に落ちた皮を掻き集めようとした。
しかし、薄い冴達はサエの腕をすり抜け、小枝子に帰って行く。

ふわりふわりと揺れるような淡い光を発しながら、零れ落ちたサエは在るべき場所に戻った。
深い息をついて、小枝子は目を開く。
少しだけ色素の薄くなった瞳は柔らかに撓んで、サエを見下ろす。
それは、酷く優しい、けれど寂しげな色を刷いていた。

「私は、お祖母ちゃんになりたかった。
 お祖母ちゃんは私の理想で、願望だった。
 けれど、なれなくて、貴方を作りだしてしまったんだね」

小枝子の手が、まったく同じ姿をしたサエの髪を撫でる。
労わるように、憐れむような手付きで。

「…どこまでも私は私なのにね」

言われて、喉が引き攣った。
口の端が吊り上がり、目の奥が熱くなった。
鼻の奥に溢れるのは、雨の香り。
涙のにおいだった。

「もう、いいよ。
 自分が美人じゃないのは、知っている。
 誰にも頼りにされないし、家族が壊れて行くことすら、止められなかった。
 膝を抱えて、蹲るしかなかった。
 お祖母ちゃんになりたくて、骨まで食べたのも私」

小枝子は、サエを抱え込む。

「どうしようもないね、私って。
 ごめんね、辛いことばかり引き受けさせて」

サエが、小さく咳をした。
ころりと、白い塊が喉を伝って落ちる。

サエが、消える。
小枝子の頬を、雫が流れた。
涙にぬれて、黒々と光る瞳で、小枝子は鬼灯を見る。
黒の少年が、微笑んでいる。

「ねぇ」

困惑が、呟きに変わる。
突然路肩に置き去りにされた犬のような目で、小枝子は丸眼鏡の奥の漆黒の闇を見た。

「こうやって、私は私の理想って影を否定したけれど、でも、私は、どうしたら?
 どうやって生きて行ったらいいの…?」

長く、祖母は小枝子の指針だった。
それを無くしてしまったら、小枝子には何もない。
空っぽだ。
伽藍堂になってしまう。

「大丈夫。
 貴方は、貴方だ。
 誰の真似をしなくたって、誰にならなくたって生きていられる」

今までだって、これからだって。

鬼灯は再びほほ笑んだ。

小枝子は、小さく肯いた。

闇が、薄れる。
世界が、白んでいく。
視界の端に、揺らぐオレンジ色が混じった。

「夢は、覚めました」

声が、柔らかく染みる。
心の奥底まで、じんわりと。

重力に逆らえず、瞼が落ちて行く。

「お祖母ちゃん、今まで、ありがとう。
 それから、ごめんなさい。
 ゆっくり、眠ってね…」

声を最後に、小枝子は現実に帰って行った。




 * * *




「さてと」

小枝子だけを現へ返した隠の中で、鬼灯は行燈を振るった。

「お佐用、最後の仕上げに掛かろうか」

鬼灯は深い闇を見やる。
どこまでも見透かすような、見通すような、そんな目をして、どこまでも深い闇を見通した。
ゆっくりと、ぼやぼやと長い黒髪に赤い椿の花を飾った、赤い晴れ着の少女が、闇の中から浮き上がって行く。

彼女、赤い少女の名前は、佐用。
佐用は、八坂神社に祭られている若宮、神として祭られた人間の霊である。

鳥羽地区と呼ばれる土地にある、寂れた八坂神社の周囲には田園が広がっている。

この稲田は、元々「鳥羽の淡海」と呼ばれる程に大きな沼地だった。
豊臣と徳川の治世の狭間、地域の生産性向上を目指し、灌漑作業が行われることになったと言う。
埋め立て作業は、難航した。
幾人も、何人も、動員された人足たちに死人が出たのだ。

それ以来、八坂神社周辺の土地は癖地と呼ばれるようになった。
癖地には、俗に怨恨の情が染みついている、もしくは見えないモノがいるとされている。
その荒らぶる「見えないモノ」を鎮めるためには、供物を捧げることが必要だと言うのが当時の常識でもあった。

供物になるのは、食物。
または、生きた動物。
中でも一番有効なのは、若い娘とされていた。

鳥羽の淡海を田に変える。

そのために沼の底に沈められ、人柱とされたのが、佐用と言われている。

だが、真偽のほどはわからない。

八坂神社に神主はおらず、来歴確かな「八坂神社」の分社を名乗って要る割には、地元住民からは金毘羅さんなどと呼ばれてもいる。
関係する資料はいくつかの戦火を越える内、すでに焼失し、殆ど残っては居ない。
市営図書館にあったわずかな資料を探しだし、鬼灯がそう解釈したと言うだけである

鬼灯は彼女の本当の名前すら知らない。
水神を鎮めるために、人柱として沈んだ美女、大蛇にさらわれ沼に沈んだ松浦佐用姫から取って、佐用と名付けたに過ぎないのだ。

どうにも分からないことだらけの神様と神社、それが鳥羽の八坂神社だった。

それでも、一つだけ確かなことがある。
鳥羽の八坂神社は、21世紀の今日でも「願う」人々が訪れる場所、と言うこと。

神に感謝する場所から、願う場所に姿を変えた神社には、たくさんの願いが集まってくる。
変わった祈願の方法であれば尚更だ。

願いがあるなら、供物を捧げろ。
祭られた佐用がそう言う態度を取るのは、悲しき哉、自然なことに鬼灯は思う。

だが、佐用は自分にも規則を設けた。
供物を受け取るのは、契約が成立した場合のみ。

それ故、佐用は願いを叶える時ははしゃぐ。
少なくとも、先ほどまではそうだった。

今、その瞳に揺れるのは、怯え。
佐用は、心底何かを恐れ、転がるような忙しなさで鬼灯の後ろに隠れた。
学生服の生地に皺が生まれる。

「やっと真打ちの登場か」

どこか興奮した声色の龍牙の周囲を、風が取り巻いている。

「龍牙、今回は駄目だ。
 これは佐用が見つけて来た『鬼』だ」
「わかってるよ」

見つめた。
三人が、三人、真っ暗な闇の一点を。
ゆっくりと、しかし、確かに蠢く小さな山の形をした闇だけを。

足元に、白い炭化したカルシウムの塊が転がっている。
拾い上げて、鬼灯は見据えた闇に向かって投げた。

「お返ししますよ、『冴』さん」

闇に、骨の落ちる音は響かない。
きっと、冴が受け止めたのだろう。
思いに囚われて、どこにも行けなくなった冴が。
影そのものに変じてしまった冴が。

手の中の長脇差、行燈に光が灯る。
零れた炎が闇を壊し、照らす。

「貴方はもう、何ものからも自由だ。
 家族からも、貴方が嫌った、貴方自身からでさえも」

脇差に灯った焔が燃え上がり、闇の塊に引火する。

輪郭を火に縁取られた闇は、腰を曲げ、やせ細った手足をしていた。
どんどんと燃えて、炭化する。
灰になる。
人と同様、火に焙られて消えて行く。

佐用の制服を握る力が強くなった。

「…冴ちゃん、なんだか、違う人みたいだった」

鬼灯は小さく頷く。
そうして、燃え盛る闇を見通した。

「貴方は、こんな幕切れを願っていたんでしょうか」

黒を纏った少年、鬼灯の問いに対する応えは無い。
ただ、闇が燃えている。
燃え盛る隠の中で、赤い少女と龍神と学生が、立ちつくしている。

「夢は、覚めました」

呟いた佐用の黒々と艶やかな髪には、薄汚れた赤いリボンが結ばれていた。


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