顔無し、名無しの影法師。
泣くも笑うも真似ばかり。
―――あなたは一体、誰ですか?
影法師
どくん、どくんと、煩いほどに、大きく心臓が脈打っていた。
『八坂神社の椿の前にお供えをすると、神様が助けてくれる』
そんな噂が、この鳥羽市の外れに位置する八坂神社には存在する。
ただの作り話だ。
分かっている。
それでも、藁にも縋る思いで、柳田小枝子は八坂神社の境内に立っていた。
手の中にあるのは朱色の布。
これは『神』への供物だ。
鳥羽の八坂神社に祭られた神は、女神であるらしい。
それも、まだ年若い娘であると言われている。
彼女が喜ぶものを供物として捧げると、その対価として、願いを叶えてくれると言うのだ。
小枝子は、件の椿の前まで、歩を進める。
青い葉が茂る木には、たくさんの髪飾りがなっていた。
願いを胸に、幾人もの人が結わえたであろう布や髪飾り。
今は、色彩を欠いて、当時のままに木に生っている。
白く日に焼け、泥に汚れ、今は夜闇の黒に染まった願いの具現たち。
それだけの強い思いが存在し、この地に集まっている。
好奇心からの供え物もあるだろう。
イワシの頭も、と言った感覚からの供物もあるだろう。
しかし、そこには大なり小なり、人知を超えた人ならざる者に頼りたい、と考えるほどに強い願望が確かに存在していたのだ。
供物を供えた者たちの願いは、叶えられたのだろうか。
供物は、鳥羽の八坂神社に祭られた、神の気に入ったのだろうか。
そんな事を考えながら、小枝子も願いの証を椿の枝に加えた。
てらりと厚い椿の葉が、月光と蛍光灯の明かりが入り混じった光を照り返す。
手を動かすたびに葉が揺れて擦れる音が、ひどく大きな音として、鼓膜を揺らした。
見上げた空に輝く、ひと際大きな明かりは、もう、西の空に消えようとしている。
沈み行く月と、時折ジジジと音を発てる街灯の光に滲んだ濃紺の空。
昼よりも黒い雲が流れていく。
その形は、まるで、追いかけっこをする、二匹のウサギのように見えた。
餅つきウサギが、沈みゆく月の船から逃げ出したのだろうか。
そんな空想に、微笑んだのは、ほんのわずかの間。
一匹のウサギは、すぐに夜に溶けて消えてしまった。
消えたウサギを前に、小枝子の心に浮かぶのは、小さな小さな恐怖。
それは、空のウサギに似た雲と自分を重ねる自己投影から。
あの雲のウサギの様に消えたくはない。
そんな事は無いと思っていても、古くからの癖はなかなか抜けない。
高校を卒業しようと言う今でも、空想癖は根強く小枝子の中に蔓延っている。
誰にも知られたくない、とても子供じみた癖だ。
誰にも言わない想像は、ただひたすらに加速する。
頭の中だけで、自己の頭の中にあるものだけを糧に、膨張する。
気休めでいいから、何かに縋りたい。
微かに重く痛む鳩尾を押さえ、小枝子は椿の枝に紅いリボンに呟く。
「どうか、私を助けて」
吐息に少しの音が乗る程度の微かな声。
これは、浅ましい願いだ。
『神様』以外には、誰にも聞かれたくは無い。
抱いたことすら、知られてはいけないと思った。
(私は、汚いな)
草木までが眠りについたような、静寂が肌に優しい。
愛しい、恋しい、夜の世界。
存在するのは自分一人で、日中に感じる疲労感が、嘘のように消えていく。
小枝子は、冷えた空気を胸一杯に吸い込んだ。
「しっかりしろ、サエ」
緊張故の動悸が、静まっていく。
昼に照る太陽が、小枝子を委縮させるのに対して、闇夜に輝く月は優しく包み込んでくれる。
眉唾物とは思いつつも、神様に頼りたくなる程の願い。
小枝子には、消して欲しい人物がいる。
それは、もう一人の自分。
度々現れる、自分の影のように良く似た、自分そっくりの人物の消失を願っているのだ。
このような現象を、心理学の用語を引用し、俗に「ドッペルゲンガー」と呼ぶらしい。
ドッペルゲンガーと呼ばれる生き写しの自分は、不意に現れる。
町中に。
学校に。
家に。
彼女は、小枝子のように話し、小枝子のように振る舞う。
けれど、それでいて小枝子では無い。
姿形は似ていても、彼女と小枝子の経験は違うはず。
同じではないはずなのだ。
小枝子は、ただ一人。
だが、ドッペルゲンガーに出会った小枝子の友人知人は口を揃えていう。
いつもの小枝子だった、と。
誰も、誰一人として、気付かなかったのだ。
その事実に、背筋が寒くなった。
頼りになる自分になろうとした。
いつでも明るく振る舞おうとした。
思い描いた、理想の人間になろうと必死だった。
肩肘を張って、気を張って、帰宅する頃にはぐったりと疲れる毎日。
自分のドッペルゲンガーと出会ってしまった人間は死ぬ。
そして、ドッペルゲンガーは、その主になり代わる。
少なくとも、表面上は同じものとして。
なり代わった偽物は、小枝子として生き、周囲は入れ替わった事など何一つ気付かない。
小枝子のこの辛さなど、知りもせず、小枝子が築いた立場を得る。
普段ならばそんな話を一瞬でも信じた自分に冷笑を零すような事実だ。
しかし、『小枝子』は事実現れている。
存在している。
どんどんと薄くなっていく現実感と反比例して、どんどんと濃くなっていく疎外感。
嘘だと、思いたかった。
それでも、もしも自分が消えてしまうのなら。
(その前に、ドッペルゲンガーを消そう)
だから、小枝子は神に願う。
願わずには居られなかった。
浅ましいとは理解しつつも。
自己の汚さを知りつつも、小枝子は願ってしまう。
どちらかが消えてしまう運命ならばと、考えてしまう。
どうか、どうか。
「私を、助けて」
「ふぅん」
背後で、弾むような子どもの声がした。
瞬間、どろりと、周囲を取り巻く空気が重くなる。
聞こえていた笹の揺れる音や、蛍光灯の音、風に乗って届く遠くの救急車の音が消えた。
耳が痛くなるほどの静寂が支配する世界。
視界が、急速に夜ではない闇に包まれていく。
つうと、前髪の生え際を汗が伝った。
「それが、あなたのお願いごとなんだね、『サエコ』ちゃん」
緊張に、小枝子は声すら出す事が出来ない。
「何で、名前を知ってるか、不思議なのかな?
でもね、そんなの当たり前なんだよ。
あなたは、『八坂神社の若宮』と契約を交わしたんだから」
遠のいて行く笑い声を最後に、小枝子の世界は元の姿を取り戻した。
しかし、結んだはずのリボンは、椿の枝から姿を消している。
急いで振り返っても、背後には、ぽたぽたと水を垂らす龍を模った手洗い場があるだけだった。
怖気が、小枝子の背筋を駆け抜ける。
(ここに来ちゃ、いけなかった)
直観的に、小枝子は思う。
この場所は、来るべき場所では無かったのだ。
ここには、自分を害するものがいる。
直感した。
恐くて恐くて、小枝子はもう、周囲に視線を走らせることができなかった。
耳を塞ぎたくなる衝動。
それでも、腕は動かない。
ヒタリ。
どこからか、足音がした。
音の方角は分からない。
しかし、足音は一歩ずつ、小枝子の方へと向かって来る。
迫って来るのが分かる。
しかし、どれだけ近づいて来ようとも、音は渦巻くように反響する音の方向は特定出来なかった。
ヒタリ、ヒタリ。
音が、近づいてくる。
言い知れぬ恐怖に、足が動かない。
恐れだけが、頭の中を支配していた。
(嫌だ、来ないで)
来ないで、こないで、コナイデ。
小枝子の頭の中で声が回る。
「来るな!」
悲鳴が木霊した。
闇の呪縛が途切れ、足が自由に動きだす。
粘度の高い水分の中に居るように、全身に纏わり付く闇。
掻き分けながら、振り払いながら、小枝子はひたすらに参道を引き返していく。
転がり出るように鳥居の外へと飛び出した瞬間、空気の粘度が一気に落ちたのを感じた。
不意に吹き始めた風が、周囲の笹をさわさわと揺らす。
元の場所へ、知っている場所へ帰って来た。
そう思うと、安堵のため息が漏れかけたが、再び口腔に消えることなる。
何かの視線は振り払えない。
背中に、ピタリと張り付いている。
背後に存在する何か。
それは、ついて来ることはないものの、いまだ小枝子を見つめているのだ。
恐ろしかった。
同時に、その視線の主が気になってしまう。
恐怖と、好奇心。
好奇心に負けた小枝子は、ゆっくりと背後を見た。
振り向いてしまった。
朱色の剥げた、古びた鳥居の奥に、神社の本殿が街灯の光にぼんやりと浮き上がって見える。
しかし、光の届かない部分は、闇に沈んだまま。
深い闇は、すぐそこに終わりがあることなど、信じられないほどに深い。
一度沈めば、二度と浮き上がる事など叶わない、底なし沼のような闇に思えた。
そして、小枝子はその中に見てしまう。
浮かび上がるのは、鮮やかな紅を。
背景の暗さなど物ともせずに、確りと網膜に焼き付いて離れない人影。
それは、晴れ着姿の小さな女の子の姿をしていた。
(幽霊だ…!)
直感的に理解する。
こんな時間に、深夜に、小さな少女が外を出歩く訳が無い。
七五三の様な晴れ着を着て、寒空の下、寂れた神社の境内で、一人楽しげに笑っているわけがない。
何より、背景の暗さを無視するように、無理矢理背景にはめ込んだように、暗さから浮かび上がっているなどと、有り得ない事だ。
ただ、怖かった。
早鐘に変わった心音に負けない速度で、小枝子は地面を蹴っていく。
民家。
田圃。
夜を照らす街灯。
景色はどんどんと飛び退る。
走って。
走って、走って、走って。
足を動かすごとに、飛ぶように風景は変わっていく。
確かに遠退く神社に、小枝子は安堵した。
しかし、それも束の間のこと。
荒い息に暫し俯いて、再び顔を上げた時、目の前に広がった光景に愕然とした。
見開いた黒い目に映る風景。
そこには、塗料の剥げた朱色の鳥居があった。
龍を模った石が、口から滴を垂らす、手洗い場があった。
地面に敷き詰められた玉砂利が、参道が、灯篭があった。
境内の片隅では、血で染めたかのように真っ赤な椿の花が風に揺れている。
煮凝らせたように濃い闇が、その場所の名を告げていた。
「八坂、神社…」
小枝子は呆とした声で呟く。
そこは、今し方、逃げ出したはずの神域。
幽霊が現れた場所。
太古からの神と共に若宮を合祀した、鳥羽の八坂神社だった。
「ふふっ」
コロコロと鈴の転がすような高い笑い声が、どこからか響く。
小枝は、境内の小さな常夜灯が照らし出す周囲に素早く視線を走らせた。
神社の縁にも、赤くほころびかけた花を付けた椿の前にも、人の気配を感じない。
視界に映る空は濃紺。
星がちらちらと輝き、吹く風にざわめく木々。
赤い着物姿の少女は、どこにも居なかった。
(…神経過敏だ)
自分に言い聞かせた刹那。
「お帰りなさい」
眼の前に、幼い少女が立っていた。
楽しそうな少女の声は、先ほど、神社の境内で聞いた声と同じものだった。
眼に入ったのは、大きく牡丹の描かれた着物。
その上の幼い顔は、人形のように整い、作りものめいた笑みを浮かべていた。
「逃げようとしても無駄だよ。
ここは八坂神社の神域、私の領域なんだから」
こつんと、少女はポックリを鳴らし、その場でくるり回って見せる。
長い黒髪に結ばれた真新しいリボンが、鮮やかに翻り、暗い夜に色を添えた。
少女は、心底楽しそうに微笑んでいる。
しかし、満面の笑顔に裏があるように思え、小枝子は膝をついたまま身構えた。
警戒心が、全身から溢れ出す。
「私は、八坂神社に祀られた神様だよ。
『サエ』の願いに呼応して、眷属と共にここに来たの」
少女は、笑う。
楽しそうに、にこにこと。
長い黒髪に結ばれた、紅いリボンが、どこからか吹く風に揺れている。
「眷属たァ、言うじゃねェか」
頭上高くから降って来た声は、脅すように低められてなお美しい男のものだった。
声と同時に、ばさりと布が翻る音がする。
着物姿の少女の傍らに落ちて来たのは、浅葱色の羽織をなびかせた影。
項で一つに結わえられた長い髪が、蛍光灯の白に照らされて長く尾を引いた。
着地の瞬間、カロンと軽い音を発てたのは、男の履く白木の下駄だった。
体勢一つ崩す事無く地面に降り立ったその男は、冷たい目で小枝子を見下ろす。
不思議な黄金の瞳は、検分するような色を帯びていた。
作りもののように整った造作の中で、鋭く光る複雑な色合いをした瞳だけが異彩を放ってる。
(吸い込まれそうだ)
思ったが最後、魅入られたように動けなくなる。
視線を逸らせなくなった。
舌打ちをして、男の白い左腕が持ち上げられた。
細い白魚の様な指が広がると、暗色の手甲に包まれた手の平の中で、ぐるぐると空気が唸る。
渦巻いた風は、少しずつ膨らんでいく。
「おい、女。
お前は、『助けて欲しい』んだな?
だったら、さっさと思い出せ」
そうして、優雅な動作で手放された風は、黒の深くに潜って消えていく。
呑まれて、消えて、数拍の沈黙。
パシュ。
風が爆ぜる。
真っ黒な虚空が破裂音を奏でる。
音に続いて、周囲を包む濃く深い闇が割れた。
そう、文字通りビロードのように艶やかな闇が『割れた』のだ。
「こいつが誰で、お前は誰なのかを、な」
ひび割れた、黒い闇の欠片が剥落する。
ボロボロこぼれて、宙に舞う。
それは、まるで色彩を反転させた雪のようだった。
暗の立花は千切れ、零れ。
闇の中から人影が現れる。
最初は、腕。
続いて、ひびは胴に伸び、足に伸び、首へと伸びて行った。
徐々に全貌を現していく人影。
その容姿に、小枝子は目を見開いた。
声が、声にならない。
口腔が驚嘆によって支配されたまま、吐息となって零れ落ちる。
砕け散った闇の中から現れたのは、小枝子と瓜二つの目。
そっくりな鼻。
全く同じ位置にある黒子。
そうして、小枝子と同じ口が音を零す。
「今晩は、私の『影法師』」
ざわざわと揺れる竹の音すら消えた世界で、小枝子の荒れた呼吸音だけが響いていた。
恐怖から細くなった気道が送る酸素は、思考をまとめるには少なすぎて、喉に声を張り付かせる。
はくりと、血の気の引いた唇だけが動く。
喉を過ぎる呼気が、ヒューヒューと風に似た音を発てて鳴る。
小枝子の右手が、固く握られた。
喉を湿して、小枝子は再び声をひり出す。
「何を言って…」
表情同様虚ろな声には、しかし、感情が乗っていた。
その動揺と不安を拾い上げ、男の傍らに立つ小枝子は悲しく笑う。
「あなたは私の影。
私と同じであって、同じではない。
私の影を引き受けたもの」
小枝子は大きく首を振る。
闇から生まれ出た小枝子を睨み付け、叫ぶ。
「…違う」
金属を打ったような硬質な声。
どろりと淀んだ黒に響く声は、恐怖に裏返る。
「影は、私じゃない!」
悲鳴が闇を揺らせば、小枝子の体がぶれて揺れた。
しかし、小枝子はその変化に気付かない。
今、世界を支配するのは、金切り声の否定。
底が抜けそうなほど、小枝子は叫ぶ。
「影は貴方だ!」
声は、遠く遠く、響いた。
今度はぐらりと、世界の全てが揺れるほどに。
根幹まで、揺るがすように。
小枝子は耳を塞いだまま、しゃがみ込む。
男の傍らに立つ、小枝子の身体が歪んで、ぶれる。
「『サエ』は私だ!」
声が響く。
ワンワンと叫ぶ小枝子の脳髄深くまで、声が届く。
「偽物の癖に!!」
叫びに、『小枝子』が揺らぐ。
悲しい笑みを浮かべて。
周囲を包む闇すらも、揺らぎ、世界がひび割れる。
パラパラと『影』の小枝子が現れた時のように。
「『サエ』さん」
柔らかい声がした。
声が鼓膜を揺らすと、頭上から零れ落ちていた黒い欠片が止まる。
角を落としたような、子守唄のような優しい声は、先ほど現れた男よりも若い男の物だった。
少年に近い、中性的な声。
声の主を探して振り向いた小枝子が見たのは、闇に浮かぶ白い顔。
浮かぶ顔の白さに、小枝子は再びぎくりと肩を強張らせた。
長い髪を項で結った男が、不満も露わに鼻を鳴らした。
「遅せェ、阿呆」
「ごめん」
男の氷の声に少年は苦笑する。
白い顔が近づいて、人物の輪郭がはっきりと区別できるようになった。
暗闇と真っ黒な学生服に黒髪の男との間に、境が見極められるようになる。
少年は、人ならざるものから、人に変わった。
白い顔を包むのは、真っ直ぐで真っ黒な髪。
地味な印象を受ける、整った鼻の上に乗るのは、丸い形をした銀縁の眼鏡。
闇を吸い込んだような学ランに光る金のボタンだけが、男の身に付けた唯一の色だった。
小枝子に向け、男の色素の薄い口唇が動く。
「貴方の名前は?」
問われて、反射のように小枝子の唇も動き出す。
「『サエ』」
答えに、男は悲しげに眼元を歪ませた。
チャキリと、小さく金属音が鳴く音が鼓膜に刺さる。
男によって、捧げ持つように握られた棒状の何かは、ぞろりと長く伸びた。
それは、鞘から抜かれた刀だった。
「灯れ、行燈」
少年の低められた声に呼応して、周囲の闇を呑みこんで黒く底光る刃が光り始める。
孕んだ色は、臙脂。
朱。
紅。
さまざまな色をした、赤。
刃が、刀身全体が赤く燃える。
紅い焔の欠片が舞う。
周囲の闇を焼き尽くして、淘汰して、駆逐する。
焔の明かりで、闇の中の全てが浮かび上がった。
正面には、真っ黒な少年。
背後の時代がかった羽織袴姿の男。
先ほど、神社の暗闇から浮かび上がり、小枝子を見つめていた少女はその隣。
そして、二人に守られるように、真っ黒な影から浮かび出て来た自分が立っている。
神社居たはずだが、周囲から様々なものが消え去っている。
残っているのは、それだけだった。
ただ、少年の声だけが、耳に染みる。
音として、脳の、思考の、深い部分まで染みて滲む。
「貴方は、忘れてしまっている」
世界が、少年の声に共鳴する。
わんわんと揺れている。
振動が、小枝子の鼓膜を襲っていた。
聴覚を支配する音は、もう、声として知覚が出来ない。
それほどに、大気を、小枝子を揺らす。
「貴方の正体を」
声は小枝子を揺るがせ、震わす。
襲い来る震えを止めたくて、小枝子は自身の体を抱きしめた。
その指先に感じる、滑り。
水気と温かさを含んだ、滑らかさ。
ずるりと、腕に沿って指が滑った。
(…何?)
訝りながらも、二の腕を握り締めていた指先を見て、小枝子は愕然とする。
指の下では、皮膚がこそげ、桃色の肉が大気に露出していた。
じんわりと滲む温かな水分は、黒い。
それが、何であるかに気付いたと同時、強烈な痛みに襲われた。
「―――っ!」
声にならない悲鳴が、喉を駆けあがる。
漏れ出でる。
痛みと恐怖に思考が混線した。
自身に起こっている事実に、頭がついて行かない。
しかし、感覚はある。
痛みで、真っ赤に染まる頭の中。
周囲を回る悲鳴。
ほんの少しだけ浮上した小枝子と言う思想が、思う。
(だめだ)
この薄皮を、剥がしてはいけない、と。
剥がれゆく皮膚を、守らなければいけないと。
これを奪い取られれば、自分は生きて行くことが出来ない。
何をすればいいのか、分からなくなってしまう。
すべきことすら、見失ってしまう。
思えば思うほど、表皮は剥落する。
「それは、貴方が被った『サエ』さんの一部だ」
加速させる少年の声は、柔らかい。
腕だけでなく、足から、腹から、顔から、頭から。
小枝子は、どんどんと剥けていく。
露出していく。
「離別は、痛みを伴う」
また一枚、剥がれた皮膚が闇に舞う。
その中に、無理に作ったような表情で笑う自分の顔が見えた気がして、小枝子は目を見張った。
「けれど、離別無くして前進は無い」
ぴりぴり、ぴりぴりと音を発てて剥がれゆく皮膚を、凝視する。
塊一つ一つは、自分。
厚さ一ミリにも満たない皮膚に浮かんだ自分の顔が口を開く。
「私は『サエ』」
別の皮膚に生まれた、別の小枝子が呟く。
「『サエ』は何でも出来る。
皆に必要とされる、大事な人」
また別の皮膚は。
「私の名前は『サエ』」
口々に呟かれる言葉たちが、反応し合い、反響する。
闇の中、真っ赤に腫れあがった小枝子を包んで、つむじ風のように舞う。
頭が、割れるように痛んだ。
「そうでなければ、要らない」
いつの間にかしゃがみ込んでいた小枝子の口から、零れ出るのは苦鳴。
何よりも、心が痛む。
これ以上、この声を聞いていたら、頭がおかしくなってしまうと思った。
だから、小枝子は耳を塞ぐ。
全てを否定するように。
それでも、塞いだ耳を貫いて、皮膚の声は小枝子を取り巻いて呟く。
「『小枝子』なんて必要ない」
「…やめて」
小枝子の拒否など、関係が無いかのように、数多の皮膚は喋り続ける。
声を発する小枝子たちは、どんどんと退行し、幼くなっていく。
また、小枝子自身も同様に。
「必要なのは『サエ』」
「止めて」
「明るくて優しくて、何でも出来る『サエ』」
「嫌だ」
「『小枝子』じゃ、何にも出来ない」
「聞きたくない」
「『小枝子』は」
「やめろ」
「『小枝子』が」
「喋るな」
「『サエ』は」
「黙れ」
「私が『サエ』のように振る舞わなければ家族は、」
静寂が小枝子を包み込む。
「そこが、『サエ』の、貴方の起点ですか」
柔らかな声がする。
視界が、世界が、暗転した。