隠が、ざわめいている。
淀んだ黄泉の国の空気に、流れが生まれた。

鬼灯は、長脇差の行燈を抜き放った。

闇に、刀身が煌めく。

躍りかかって来る鬼に、刀を振りおろす。
額を切り裂かれ、つるりと白い肢体が、闇に沈んだ。
刀が、力を取り戻していた。

(よし、いける)

闇の中の気配は、変わらない。
しかし、見渡せる範囲が、大幅に増えている。

世界の変革を確信した。

少年―――相良凪を一瞥する。

座り込んだままの凪は、眉を寄せ、瞬きを繰り返していた。
必死で、現状を認識しようとしているんだろう。
自分の信じていた現実が揺らいだ時、人はこんな顔をする。
鬼灯の『言霊』が効いているようだった。

(この子は、他者の影響を受けやすい)

それは、隠の影響をもろに受けると言うことでもあった。

土蜘蛛は、とっくに彼の手を離れている。
黄泉の国自体も、鬼灯たちの戦いやすい形に変えることが出来た。
周囲には、鬼の気配が集まっている。

(だったら早々に、現に戻した方がいい)

鬼灯は、そう判断した。

風の流れを、頬に感じる。
すでに、道は開いているはずだ。

「行って」

風の行く方へ、鬼灯は少年を押しだした。

「早く行って、時期にこの国の住人が集まってくる。
 君なら見つけられるから。
 地上へと続く、『黄泉つ平坂』を」

薄闇の中、少年の駆けていく背中を見送りながら、鬼灯は脳裏に描き続ける。

イザナギの辿った道、黄泉つ平坂を。

少年の黄泉の国は変わった。
黄泉の国と地獄の混雑を正し、黄泉の国から罪人の刑場と言う認識を排す。
それによって、黄泉の国を、死者の国に変えたのだ。

蜘蛛の反逆は、予想の範疇。
その危機から少年を助け出すことで、敵でないことを強調。
少年の『名前』を得た。

空腹から、機嫌の悪い龍牙をさらにイラつかせながらも、静止したかいがあるというものだ。

人は、さまざまな言葉に囚われて生きている。

性別、容姿、年齢、所属…
人間は他者の認識と言う牢獄に繋がれている。
そして、良くも悪くも、それ無しでは、自己を規定出来ない生き物だ。

その縛りの中でも、堅牢強固な力を持つものが、名前だった。

名を得ることが出来れば、その他の檻に、影響を及ぼすことが容易になる。
名前が得られたことで、少年の黄泉の国を変化させることが出来た様に。

「そのまま走って!」

光る刀を横薙ぎに、迫りくる死者を退けながら、鬼灯は叫んだ。

漏れ出た行燈の火が燃え上がり、黄泉の国の住人たちを網膜に映し出す。
燃え上がる赤に照らされる、のっぺりとした白。

周囲に残るのは、鬼だけとなった。

死者たちは、ぱちぱちと、音と光を発している。
時折、感光体が反応できないほどの閃光が走る。
それは、雷光だった。

龍牙が、呆れたように言う。

「罪人だったり、死者だったり、かと思えば雷神か。
 忙しい奴らだな」
「鬼飼う者の認識が安定していないから、仕方ないよ。
 でも、そろそろ元の姿になってもらおうかな」

キチ。

答えた鬼灯の手元で、行燈の鍔がなる。
肩幅に足を開き、体の前面で、刃が構えられる。

正眼の構え。

周囲に、行燈の内から焔が溢れ出す。
燃え広がった火は、周囲の鬼すべてを取り巻いて、蜘蛛たちの行動領域を限定する。

体勢を整え、鬼灯は口を開いた。

「君たちは『土蜘蛛』じゃないか」

『土蜘蛛』。
鬼灯の口が、言霊を吐き出した途端、雷神たちの体が、ぶるりと震えた。

死肉に包まれた、白い背中が割れていく。
割れた皮膚と肉の隙間で糸を引く粘液。
それは、昆虫の脱皮の情景だった。

ミリミリと、皮膚を軋ませながら、鬼が本来の姿を現していく。

背後に、龍神の気配がする。
じゃらりと、数珠が擦れる音がした。
必要無いとは知りつつも、鬼灯は、少しだけ行燈の切っ先を左に流す。

「決着はここでつけるよ」
「言われるまでもねェ」

対峙するのは、土蜘蛛。

蜘蛛の紅い目が、鬼灯を視界にとらえる。
長い足がざわめくように前進。
胴体を彩る体毛は、虎模様だった。

凝らした目には、黒い闇が動いたように映る。

蜘蛛と、虎、悪鬼を混ぜ合わせた異様は、全部で二十匹ほど。
鋭い犬歯を見せ二人を威嚇していた。

「なんだ、少ねェな」
「共食いで、減ったんじゃないかな?」

躍りかかった一匹を、鬼灯は真正面から迎え撃つ。
蜘蛛の右前脚を切り裂いた刃は、頭蓋を左へと抜けて行った。
その横で、龍牙の鋭い爪が閃いて、頭をつぶされた四匹が瞬く間に肉塊に変わる。

変わったはずだった。

足に牙を剥いた蜘蛛の顎を縫いとめ、動きを封じる。
暴れる土蜘蛛の上で、鬼灯は呟いた。

「変だ」

この蜘蛛は、何かがおかしい。

どんどんと蜘蛛は地に伏していく。
与えた傷は、致命傷。
動けるはずは無いのだ。

(なのに、何で)

鬼灯は、視線を周囲に走らせる。

立ち上がる蜘蛛の頭部には、鮮血鮮やかな裂傷。
紅い目の光は消えている。
頭蓋が砕けているのは確実で、脳細胞が無事であるとは思えなかった。
蜘蛛が今だ動ける道理が無い。

「何故、まだ動く」

同様の疑問持ったらしい。
傍らに着地した龍牙が、不快を顕わにした。

二人の眼前で、土蜘蛛は立ち上がる。
何度でも。
何時までも。

(…致命傷も、関係が無い?)

鬼灯の頭の中で、閃いたものがあった。

「そうだ、ここは黄泉の国だ!」

蜘蛛の前足がのびる。
鬼灯はバックステップで、足元への攻撃を避けた。

「黄泉の国は死者の国だ。
 つまり、ここにいるものは皆死んでいる。
 死んでいるものをもう一回、殺すなんて不可能ってことだ、このッ!」

体勢を立て直す間もなく、逆袈裟に脇差を振りぬいて、前進してくる蜘蛛を後退させた。

龍牙の右横では、別の蜘蛛の顎が大きく開かれる。
閉じられる前に、切り裂いた龍牙の腕が胴を抜けた。

体液が四散する。

「そう言うことか」

鬼灯は、龍牙の口元が、笑みを形作るのを見た。

どんなに打撃を与えようとも、襲い来る土蜘蛛。
そんなものを相手に、龍神は不敵に笑ったのだ。
心底、楽しそうに。

蜘蛛が、龍牙に白い歯を剥く。
龍牙は、猛攻をさらりと流し、その胴の下へと滑り込んだ。

白魚の指が、黒く長い土蜘蛛の脚を捕らえる。
服の上からでも分かる、浮き上がる筋と筋肉。
一本背負いの要領で、担ぐと、脚が引き千切られていく。

危険に気付いた蜘蛛が、龍牙を噛み殺そうと歯をむくが、危なげも無くかわされた。

「鈍い」

それは、蜘蛛の動きに対してか、鬼灯の頭の回転に関してか。

龍牙は次の歩脚に手を伸ばしていく。

二本、三本と、失われていく脚。
右の歩脚すべてが無くなり、蜘蛛は身体を支えきれなくなる。

隠にも重力はある。
大きな音を発てて、蜘蛛は倒れた。

浮き上がった左側の三本を、龍牙の翻した右手が、一太刀の元に切り払ってしまった。

ボロボロの胴体と、六つの脚だったものが、散らばる。
空気中に水分量が増して、皮膚が粘りつくような気がした。

龍牙が、腕に残った蜘蛛の一部を振り払う。

「死人の傷は治らない。
 傷が回復しないなら、バラしちまえばいいだけの話だろうが」

吐き出す言葉も行動も、物騒極まりない。
けれど、白皙の美貌に浮かぶのは、見とれるほどに優美な微笑みだった。

少しの間、鬼灯は呆然とする。

「…力押し、か」
「理にかなった兵法だろうが」

四肢を失った蜘蛛は、腹を上に向け、胴体だけを蠢かせている。
もしも、起き上がれたとしても、歯の届く範囲は、極端に狭くなっているはずだ。
確かに、合理的な戦い方だった。

これで、蜘蛛を行動不能にすることが出来る。
だが、渦巻く違和感は消えない。

まだ、おかしい。
何かが、変だ。

まだ無傷な蜘蛛の一匹がひり出した金色の蜘蛛の糸が、空を飛ぶ。
気付いた時には遅く、行燈を握る鬼灯の右手に手に絡みついた。

仲間が戦闘不能にされ、危機感を覚えたのだろう。
蜘蛛たちは、いきり立つ。
がちがちと、歯が打ち鳴らされた。

「やっと本気になったか」

龍牙の足にも、金色が絡みつく。
行動範囲が、一気に制限された。

それでも、龍神の整った部品たちは、傲然とした態度を崩さない。
避けられなかったのか、避けないだけなのか、判断がつかない状況だった。

「お前らは、死なない以外はただの雑魚だ。
 こんな糸なんか使ったところで、おれ達には勝てない。
 お前らはあのガキには追いつけねェ。
 坂を登りきる頃には、お前らはここで無様に転がっているだろうよ」

龍牙の嘲笑する。

力に裏打ちされた自信。
それは、事実だ。

事実、蜘蛛に、龍牙が負けるはずがない。
傷も治らない不死身なだけの蜘蛛など、足留めにしかならないのだ。

―――足留め。

思い至った事実に、血の気が引いて行く。
衝撃に、顔が青く染まった。

年下だからと、侮る気は無かった。
無かったはずだった。
しかし、あの幼い容姿に、どこか油断していたのも確かで。

違和感の理由を理解した。

どうやら、してやられたらしい。

鬼灯は、黄泉つ平坂へと踵を返した。
そのまま走り出そうして、失敗する。

蜘蛛の糸によって拘束されたままの右手は、動かない。
蜘蛛によって定められた範囲から、抜け出すことはかなわなかったのだ。

引き千切ろうと引っ張っても、糸はビクともしない。
人間の力では、どうにもならない強度の、蜘蛛の糸。

「龍牙!」

鬼灯は、龍神の名を呼ぶ。

早く、この場を脱しなくてはいけない。
止めなくてはいけない。

気ばかりが焦っていた。

蜘蛛の糸で制限された範囲の限界まで、鬼灯は黄泉つ平坂へ近づいて行く。

このままでは、少年の、凪の願いが、叶ってしまう。
成就してしまう。
そんなことは、させられない。

「龍牙、この糸を切ってくれ!」
「あぁ?蜘蛛くらいでなに焦って…」
「違うんだ!」

意図の伝わらないもどかしさで、鬼灯は焦れる。
焦れて、焦れながら叫ぶ。

「そいつらを倒しても意味が無い!」

伸びきった強固な糸が、肌に食い込んだ。
赤い線が、鬼灯の皮膚を汚す。

(痛い)

しかし、そんなことに構っている場合ではないのだ。

「あの子を、相良凪を追い掛けられないのは、蜘蛛じゃない!
 僕たちの方だ!
 足留めをされているのは、僕たちの方なんだよ!」

背中に、風が叩きつけられた。
鬼灯に向かって、追い風が吹く。
攣れた肩が痛む。

肩に痛みが走ったのは、一瞬だけ。
後方に引っ張られた後、蜘蛛の糸は、呆気なく断ち切られた。

「このまま走る!」

振り返りもせず、崩れた体勢を急ぎ立て直した鬼灯は、走り出す。
風が吹いて、鬼灯の実力以上の速度が乗った。

足が、縺れそうになる。

背後には、追って来る蜘蛛の何重もの足音があった。

鬼灯に追いつき、並走するのはスピードを抑えた浅葱色の羽織。
伝わるのは、無言の威圧だ。
状況の説明を求められているらしい。

「あの蜘蛛は、ただの囮だ。
 僕は、黄泉つ平坂を作るために、地獄を黄泉の国に変えた。
 でも、それだって凪くんの計算の内だったんだ。
 隠から罪人の刑場的性格を消し去ることで、蜘蛛は再び凪くんの配下に戻っていたんだ」 

声に、悔しさが滲む。

「土蜘蛛が、一匹として、凪くんを追わなかったのがいい証拠だ。
 二十匹以上もいるのに、すべてが僕たちに向かってきた。
 もしも、本当に僕たちを殺そうとしていたなら、数に頼んで一気に来るはずだろう?
 一匹ずつなんてお上品なこと、するわけがない」

息が、切れかける。
走り続ける鬼灯に、龍牙は無言で先を促す。

「加えて、凪くんの目的は、弟の『黄泉還り』だ。
 蜘蛛はその手助けを目的に生まれた鬼に過ぎない」

鬼灯の腕を、吐き出された蜘蛛の糸が掠めていく。

「おれ達を追ってくるのがいい証拠、か」

呟いた龍牙が、振り向いた。
翳された右手の内で起こった風は、暴風となって、蜘蛛に吹き付ける。
微かに、龍牙の上体が揺れた気がした。

「ちっ」

舌打ちは、とても小さい。
けれど、鬼灯の耳には確かに届いた。

不自然な体勢にバランスを崩したらしい。
万全な状態の龍牙では考えられないことだった。

どうやら、思った以上に体力が削られている。
それでも、鬼灯は何も気づかないふりで話し続ける。

龍牙の高い矜持は、心配を嫌う。
しかし、それだけでは無い。
鬼灯が大丈夫だと信じている限り、龍牙が完全に消え去ることは無い。
大丈夫だと、思えばいい。
騙すのは、他でもない自分自身だった。

「鬼の本体は彼と一緒にいる。
 いるはずだ」

地面よりも高い位置で、白い光がチラついている。
それは、地獄の終わり。

走るごとに、近づく。
どんどん、近くなる。
そこは、黄泉つ平坂の出口だった。

少年たちがその境を越える前に、止めなければいけない。
黄泉の国を抜けた先では、もう、真実は隠しきれないのだ。

前方で動く二つの背中を、眼鏡越しの視界が捕らえる。

鬼灯は、素早く行燈を抜刀した。
刃先に、火炎が生まれる。

背後ではぎゅるり、風の渦巻く音。

「舌噛むぜ、口は閉じてろ!」

突然の龍牙の声にも、理由を問う暇さえ無い。

同時に、龍牙に襟首をつかまれ、軽々と投げられた。
少年の頭上を飛び越える投擲。

眼鏡がずり落ちるが、構っていられない。
眼下に迫る地面。
必死で受け身をとった。

走る凪の進路を阻んで、鬼灯は着地する。
坂を登っていた凪の足が止まった。

鬼灯の視界が、ぐるりと回る。

衝撃は、思いのほか無い。
咄嗟の受け身が成功したのだ。
しかし、勢いを殺しきることは出来ず、そのまま前に転がる。

「いきなり何すんだよ!」

起き上がりながら、凪より後方に残った龍神に苦情を叫んだ。
視界がぼやけ、状況を判断できない。
不安から、慌てて地面を探ると、すぐに硬い感触に触れた。

眼鏡を無事に確保する。
世界が、鮮明さを取り戻した。

「五月蝿ェ。
 文句言う暇があるなら、そのガキ何とかしろ」

答える龍牙の体は、動かない。
正確には、動けないかった。

拘束するのは、金色。
煌めく土蜘蛛の蜘蛛の糸だった。

投擲は、糸を避けるためだったようだ。

「早く」
「…わかった」

龍牙の声に、鬼灯は行燈を一振り。
火の粉が散る。

生まれた炎の垣根が、龍牙と蜘蛛、鬼灯と少年二人を隔ていく。

虫は、火を恐れる。
蜘蛛は、此方側に進んでくることは出来なくなった。

「龍のお兄ちゃん、見捨てるんだね」

凪は、弟と共に逃げるでもなく立っていた。
鬼灯は、凪に視線を送る。

「このままじゃ『土蜘蛛』のご飯だよ」

炎の向こうから、蜘蛛が、がちがちと歯を鳴らす音がする。
さまざまな、音がする。

それでも、凪は後ろを振り向くことは無い。
不自然すぎるほどだった。

「君は、後ろが気にならないの?」
「気になるよ。
 けれど、黄泉つ平坂では振り向かないことが、黄泉還りの鉄則でしょう?
 それくらい、ぼくも知ってる」

火の向こうの龍牙は、すでに姿も見えない。
金色の繭に包まれているかのようだった。

「どうしたの、お兄ちゃん。
 『龍』が消えそうで、恐くなっちゃった?
 弱虫なら、僕の邪魔なんてしなきゃいいのに」

言葉も無い鬼灯に、凪は強者の笑みを浮かべた。

「早く、助けてあげた方がいいよ」

忠告らしきものを言い置いて、鬼灯の傍らを歩いて行く。
そして、嬉しそうな足取りは、徐々に加速していった。

(どうすればいい)

鬼灯は、思考を巡らせる。

凪はどんどん、黄泉つ平坂を登って行く。
このままでは、黄泉還りが成立してしまう。
深い深い隠を出て、背後を振り返った瞬間、凪は真実を目にしてしまう。

「調子に乗るんじゃねェや、ガキ」

火炎に照らされた、繭が抗議の声を上げた。

ミリミリ、ミシミシと、糸が軋む。
頂点から、緑の鱗を纏った鉤爪が顔をのぞかせる。
それは、龍の左腕だった。

「龍牙!」

鬼灯の静止の声。

それでも、吹き荒れる、暴風。
渦巻く大気の流れは容赦なく、蜘蛛を襲った。

女郎蜘蛛の歩脚。
虎の胴体。
赤い目の顔を、飲み込んでいく。

「いやだぁあぁあああああ」
「たす、けてぇ」

聞こえる声は、蜘蛛の断末魔。
ボーイソプラノの絶叫。
同じ顔、同じ声で、奏でられる苦鳴だった。

残る蜘蛛たちが、声をそろえて叫ぶ。

「「「にいちゃぁぁあ!」」」
「…え?」

坂の上、弟の手を引いて頂上、光の中まで駆け上がっていた凪は、その呼び声に足を止めた。
暫しの空白。
青白く染まった顔が、ゆっくりと闇へ向かう。

振り向いたら、見てしまう。
砕け散る、蜘蛛の姿を。
黄泉の国から引きずり出した自分の虚を。

知ることになる。

「振り向くな!」

鬼灯は坂を駆けのぼる。
駆け登りながら、再び静止の声を上げた。

だが、凪の首の動きは、止まらない。

そして、視界に映り込んだのは、闇の中で風に呑まれて消えていく、蜘蛛たちだった。
真っ赤な目以外、見なれていた弟の顔をして、凪を呼んでいた。
助けを求めていた。

それから。

凪の視線が流れる。
より近くの状況を把握する。

凪の腕が掴んでいるのは、小さな子ども。

「…嘘、だろ?」

凪は、掴んでいた冷たい手が、思いのほか大きいことに、気付いた。
今頃になって、理解した。
自分が、何を取り戻したいと願っていたかを。
自分が、喪失したものの正体を。

手を握るのは、弟では無い。

亡くした弟よりも、凪が失ったことに喪失感を覚えたもの。
それは、凪の手を離さないままで、笑う。
口の端だけを吊り上げて笑う、酷薄な、笑い方で。

「やぁ、凪」

そこに居たのは、まぎれも無い『凪』だった。

ずぶ濡れの、今より少しだけ幼い、半そでを着たあの日の凪。
弟を、守るものを持っていた、自分。
ヒーローの様な誇らしさを持っていた、自分。

ぐいと手を引かれ、凪は再び闇の中に引き戻される。
握りあった手が、ゆっくりと溶けて、混じっていく。

飲み込まれていくような感覚に、嫌悪感を覚える。
喪失していく自分を感じる。
だが、同時に、消えて行くことに安堵感を覚えていることも事実で。

再び、闇の奥底に引きずり込まれて行く。

けれど、凪はその手を振り払えなかった。

ドキドキと、頭の中で血流が脈打つ。
息が、乱れる。

汚い。
どこまでも、自分は酷薄な人間だったという実感が胸を締め付ける。
助けたかったのは、弟でなく、自分。
自分だけ。
弟は、ただの手段でしかない。

思考は黒く塗りつぶされて、目の前にいる自分以外が、見えなかった。

「さっさと引っぺがせ!」
「分かってる!」

怒声とも、裂帛の気合とも判断の付かない龍牙の声が、闇を切り裂く。
返事が返ると同時に火風が生まれ、『凪』に襲いかかった。

凪の眼前で、『凪』が、燃えていく。
時折、凪の肌を撫でるほどに近付く炎に、熱は無い。
しかし、燃え盛る炎は、目をそらせない奇妙な吸引力を有していた。

「行こう!」

凪の手を、坂の上へと導く手があった。
背後から伸びて来て、凪を黄泉つ平坂の出口へと誘う手は、鬼灯のものだった。

とても暖かい、生者の感触を持つ手に導かれ、凪は黄泉つ平坂を駆けて登っていく。
黒い背中から漂ってくるのは、涼やかな香りだった。

「やり直せないことが、世の中には有る。
 その最たるものが、死だ。
 死んだ者は、どうやっても生き返らない。
 悔やんでいるなら、少しでも長く生きて。
 覚えている者がいなくなった時、人は本当に死ぬんだ」

言い聞かせるように、鬼灯は続ける。

「だから、戻ろう。
 悪夢はもう、お終いにしよう」

洞窟の切れ目が見える。
光が降り注ぐその場所は、酷く暖かい。

凪と共に引きずられていた、『凪』も光の中に姿を現した。

「蜘蛛の糸を辿って、光の中に出ることが出来れば、そのものは救われる。
 黄泉つ平坂を抜ければ、生者の国へ甦る。
 この世とあの世を繋ぐ道『黄泉つ平坂』を、塞ぐのは『岩境』」

鬼灯が、言霊を発した。
声に呼応して、突如現れた巨石がもうもうと土煙を舞い上げる。
寸での所で横に転がった龍神の鼻先で、洞穴は消えた。

黄泉の国への、道が閉じる。

世界は、光に満ちた。

鬼灯は刀を構える。

「『凪』、あなたは生き返った。
 だから、もう一度、ここから『黄泉の国』へと送り返します」

行燈が、焔をまき散らす。
焼きつくす。

「…あ、あぁ!」

苦鳴を上げながら、はらはらと半そで姿の『凪』が剥落する。
煙る砂ぼこりの隙間に、風の姿が見えた。

「龍牙、喰え!」
「命令されるのは好きじゃねェが、貴重な飯の時間だ。
 従ってやるぜ」

鬼灯の声に、いつの間にか現れた、巨岩の上にとぐろを巻いた巨大な龍が、大きく口を開けた。
白い牙と、真っ赤な口のコントラストが鮮やかだと、他人事のように、凪は思う。
そのほんの少しの時間に、蜘蛛は龍の口に呑まれていった。

全ての情景が、ゆっくりと流れていく。

凪は、無性に眠気を感じ、目を閉じた。
その耳に、柔らかい声が届く。

「『夢は、覚めました』」

声が、染みる。
染みて、滲んで、凪の一部に変わる。

そして、静寂が満ちた。
世界は再び暗転する。

暗転して、再び視界が戻って来た時には、農業用貯水池の傍らに、一人茫然と立っていた。

寒さが、じわじわと体に忍び込む。
茜から濃紺に色を変じた空。
東の空には星と月が、輝き始めていた。

小さく、小さく、コオロギが鳴いている。
目に映る家々の明りがぼやけて映るが、涙の訳はもう、凪には思い出せない。

なぜ、この場所に居たのだろう。
この場所で、何をしていたのだろう。
記憶がごっそりと抜け落ちたようで、何も思い出せない。

ただ、哀しかった。

「帰えろう」

呟いて、凪はふらふらと家路を辿る。

その小さな背中を見送りながら、鬼灯は頭を下げた。
無言で、深々と。
自分の不甲斐無さを噛みしめながら。

一晩寝て、起きれば、凪には変わらない日常が待っているだろう。
虚と鬼と、それらに関する記憶を失った、それでも、日常が。

「…助けて罪悪感抱えていたら、世話ァねェな」
「もしも、うまく立ち回っていたら、蜘蛛だけを退治出来た。
 明らかな失策だよ」

龍牙は、苦いものでも食べたような顔をした。

「帰ろう。
 今日は少し疲れたよ」

笑顔を作った鬼灯は、龍牙を促し帰路に就く。
口の減らない龍牙には珍しく、黙ったままで鬼灯の後を追った。
下駄のカラコロ鳴る音と、鬼灯の踏みしめる靴の音が、段々とため池から遠ざかって行く。

「評価、一見計画的だが読みが浅い甘ちゃん」

不意に、声が降って来た。
一緒にチリリと焦げるような視線も。

龍牙と鬼灯が、それぞれ爪と刀を構えて振り返る。
するりと揺れる、白と黒の尾が、視界の端に映った気がした。


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