「この、莫迦者!」
耳元で響いた大きな声に、鬼灯が目覚める。
ぐらり、崩れる漆黒。
闇が、形を失った。
黒に向かって伸ばした鬼灯の手を押さえているのは、対照的に白い手、桜色の鋭い爪。
視線を流せば、龍牙の無駄に整った顔が視界に映った。
「…龍牙?」
状況が、上手く読み込めない。
「にいちゃ、助けて」
辛うじて人の形を保っただけの闇が、呆けたままの鬼灯に手を伸ばす。
「うるせェよ」
龍牙の右手に、風が巻き起こる。
渦を脇腹に喰らった人影は、鬼灯の眼前から煙のように消え去った。
「幻術か」
つまらなそうに呟く龍牙の手の中には、蜘蛛が一匹。
握りつぶすと、世界はまた、真っ暗になった。
少年の作った隠の一部が崩壊したのだ。
その中で、龍牙だけが、発光するように浮き出して見える。
「…ごめん、取り込まれかけてた」
「分かってりゃいい」
「でも、その分、彼の虚の正体は掴めた」
「そうかよ。
だが、俺には関係ないな、そっちはお前の領分だ」
学生服のズボンを払い、立ち上がった鬼灯を見下ろし、龍牙は溜息をつく。
「一応聞くぞ、お前の名は」
「鬼灯薫」
「そのドスの銘は」
「ドスじゃない、長脇差の行燈だ」
面倒だという態度を隠しもしない、それでも心配しているが故の龍牙に質問に、鬼灯は端から答えていく。
手の中には、しっかりと握られる脇差の柄。
もう一度、力を込めて握り直す。
「僕は、薫だ。
『鬼遣らい』の鬼灯薫だ」
自分を見失わないように、何度も何度も、脳裏に刻み込む。
鬼灯は、自分の行動を反省する。
感情に押し流され、自己の輪郭を失った。
自分を見失った。
(遣らい失格だな)
鬼灯は、自嘲する。
共感なくして、他者の虚は見抜けない。
けれど、同調をしては、取り込まれてしまう。
他人の虚と対峙するときに、油断は禁物だ。
遣らいであることは、常に隠に喰われる危険と隣り合わせ。
油断した途端に、自分の存在さえ危うくなる。
取り込まれるギリギリで、寄り添う。
これが出来なければ、遣らいを続ける資格はないのだ。
「灯れ」
鬼灯は、手の中の行燈を抜き放ち、明かりを確保する。
暗闇が、微かに微かに、見通せるようになる。
「どうやら、おもしれェことになっているらしいな」
龍牙が毒づいた。
行燈の燈色の薄明かりの中、喰らい合い、取り込んで大きく肥大した蜘蛛が、闇の中で蠢いていた。
いくつもの目がぎょろぎょろ動き回る。
そして、その頭の上には、鬼飼う者の少年が居た。
「あーあ、折角足止めできたと思ったのになぁ」
少年は、口をとがらせたかと思うと、大きな蜘蛛の頭を撫でて言う。
「でも、ちょっと遅かったね。
もう、ぼくらは、地獄に行ける」
ふわりと少年は蜘蛛の頭から飛び降りる。
重さの感じられない、軽い着地。
少年はトコトコと蜘蛛の背後に回り込んだ。
そこには、池があった。
周囲に桃色の蓮の花が咲き乱れ、透明な水をたたえる池。
「見てよ、この子が見つけてくれたんだ」
優しげな、愛しげな手つきで、少年は寄り添った大蜘蛛を撫でる。
スルスルと糸を吐く蜘蛛が、蓮の葉から葉へと糸を紡ぐ。
「ここが、地獄を覗く蓮池だよ」
大蜘蛛の尻からひり出されるのは、金糸。
細く煌めく蜘蛛の糸。
それが、みるみる寄り集まって、太く、長くなっていく。
言うならば、それは蜘蛛の縄だった。
少年の顔に浮かぶのは、自信に縁取られた、挑戦的な微笑だった。
少年は、大蜘蛛に飛び乗り、ポケットに手を入れる。
取り出したのは、現と同様、ジャムの空き瓶。
鬼を閉じ籠めていた瓶だった。
ポンと、軽い音がする。
瓶の蓋がひねられ、開く。
池に向かって蜘蛛は前進する。
沈み始めた蜘蛛の後に続きながら、少年は瓶を放り投げた。
「じゃあね、お兄ちゃんたち」
ずぶり、ずぶり水の中に沈みながら、少年は、楽しげに手を振る。
金糸をその手に掴みながら、少年は清水に呑みこまれていく。
「あのクソガキ!」
龍牙が張り詰めた声を上げ、走り寄ろうとした。
しただけで、行動に移せなかったのは、湧き出した小さな影達が、龍牙の足に、着物の裾に、獲り付いた所為だった。
そして、白い顔が痛みに歪み、数滴、暗い地面に赤が散る。
残され、転がった、蓋の外れた瓶からは、黒い黒い、小さな影が湧き出していた。
その湧き出した蜘蛛が、龍牙に喰らい付いているのだ。
舌打ちをして、龍牙は己に付着した蜘蛛を払う。
何度払っても纏わりつく蜘蛛たちに、龍牙は不快感を露わにする。
「散れ!」
龍牙が叫び、風を巻き起こる。
風に、散り散りに、文字通り蜘蛛の子を散らす勢いで、蜘蛛は隠の闇に消えていった。
それでも、途切れること無く、瓶の中から溢れ出る蜘蛛の濁流の前では、物の数ではなかった。
ここは少年の作った世界で、龍牙と鬼灯は異物。
異物は、排除されるか、同化させられるのが運命である。
圧倒的に不利な状況だ。
「龍牙!」
鬼灯が叫び、燈の光が闇に煌めく。
蜘蛛に埋まりそうになる龍牙に向かって一閃。
切れた闇から、動かない蜘蛛たちが落ちて、闇に溶けていく。
その鬼灯の足元にも、黒い小さな影は、ひしめき、蠢いて、地面に縫いとめている。
二人は、少年の元に、近づくことも出来ない。
その間に、大蜘蛛諸共、少年は完全に、ぬめる闇を映した水に呑まれて消えた。
小さな蜘蛛たちは、一匹一匹ならば、龍牙の足元にも及ばないほどの下級の鬼、オニである。
しかし、洒落にならないほどの数が獲り付いているので、駆除するのは容易なことではなかった。
何度振り払っても、ざわざわ、ざわざわと這い上がってくる。
龍牙は、少しずつかじられている。
体力がそぎ落とされているのは、明らかだった。
助けようにも、鬼灯の足元にも、蜘蛛がまとわり付き、動きが取れない。
「消えろ!」
黒に埋まり行く龍牙を横目に、鬼灯は、瓶を狙っての一閃を放つ。
しかし、リーチ以上の距離を前に、切っ先は地面を切り裂くだけだった。
バラバラと斬られた鬼が落ちていく。
斬っても斬っても、溢れ出す蜘蛛。
喰い破られる、龍神の白い皮膚。
(龍牙が、喰い殺される!)
鬼灯の焦燥が加速した。
目の前が、朱に染まりかけた瞬間、舌打ちが聞こえた。
冷たい気配が、滲みだす。
それは、姿が見えなくなるほどの蜘蛛に覆われた龍牙からで。
闇色の、左手が持ち上がるのが、微かに視認出来た。
「一気にいく、準備しろ」
龍牙は、ゆっくりと腕を持ち上げた。
「舞え、渦風」
立って居られないほどの突風が巻き起こり、鬼灯は腕で顔を覆った。
二人に獲り付く虫たちが、吹き飛ばされていく。
身軽になった龍牙は、小蜘蛛が再びまとわりつく前にと、空へ飛びあがる。
鬼灯の手に、冷たい感触。
龍牙が風を起こしたのは、蜘蛛を蹴散らすことだけが目的ではなかったらしい。
手の中を見れば、黒い泉へと続く金の縄が納まっていた。
それは、先ほどの蜘蛛が吐き出した糸で編まれた、縄。
地獄へ下った、少年に繋がる、縄。
手がかりである『蜘蛛の糸』は、鬼灯が掴んでいる。
「『地下の帝国』に続く、『蜘蛛の糸』」
少年の隠の産物を、鬼灯は、己の隠で補填する。
蜘蛛の糸は、少年の幻想でありながら、鬼灯の夢に変わった。
鬼灯は抜き放った行燈の刀身を撫で、叫ぶ。
「『宿れ、彼岸の火!』」
行燈が燈色に煌めく。
鬼灯は、自分に獲り付き始めた蜘蛛を焼き払った。
少年の鬼を焼き払った。
さらに、きらり、行燈を翻し、足元の地面に突き立てる。
「燃えろ!!」
世界が、染まる。
闇が、紅蓮に飲み込まれた。
地面が燃え上がり、可憐な蓮の花々を焼く。
蠢いていた蜘蛛たちの溢れ出る瓶ごと、焼き払う。
跡には、黒々と闇を映す蓮池だけが残った。
「手こずらせやがって」
傍らに、緑の黒髪を棚引かせた龍牙が、音も無く着地する。
白い頬の、蜘蛛によってかじられた傷跡が痛々しい。
(それでも、無事だ)
鬼灯は、額の汗を拭い、大きく安堵の息を吐き出した。
「何呆けてるんだ、早く追うぞ」
ザカザカと足音も荒く、龍牙は草履を鳴らして『隠』を進んだ。
鬼灯は、浅葱の羽織にも滲む紅に、表情を引き締める。
親玉は、まだ残っているのだ。
向かう先にあるのはあるのは、清水をたたえた池。
真っ直ぐに地獄の底まで続くと言われている、仏が蜘蛛の糸を垂らした場所。
下に向かう池。
少年が蜘蛛を探し、地獄に落とされた弟を救い出すために作り上げた隠が、金の縄が、鬼灯の手の中で光っている。
二人は、身を乗り出して、覗きこむ。
予想通り、黒々と深い闇の中に先ほど蜘蛛が吐き出した一本の細い救いの紐が揺れていた。
少年と大蜘蛛の姿は、見えない。
闇に溶け落ちて、全てが真っ黒に染まっている。
それでも、奥底の深いところに、何かが蠢く気配があった。
「黄泉還り、か」
鬼灯は、呟く。
地面の下に、広がる隠の深淵。
そこは、死者の国だ。
鬼灯は、穴へと踏み出す一歩を躊躇う。
「おい、頓馬」
前を進む龍牙が、鬼灯を振り返った。
「余計ことは、するんじゃェぞ」
鬼灯は視線を逸らす事無く、相棒の表情を探った。
いつもと変わらない。
少なくとも、鬼灯にはそう見える。
答えを返さない鬼灯を置いて、前に向き直った龍牙は、ぬめる闇の中に沈んでいく。
己の輪郭すら、溶け出すような黒を宿した世界に。
この先は、行燈の光すらも、意味を成さない。
唯一の道しるべは、蜘蛛の吐き出した黄金色。
「そっくりそのまま返すよ」
呟いて、鬼灯は冷えた闇の中へと足を進めた。
そうして、深く、沈んでいく。
少年の隠の奥底まで。
* * *
もうすぐ、もうすぐだ。
会える、逢える。
(もうすぐ、迎えに行くよ)
鼻先さえ見えない暗闇を、少年は、下へ下へと向かっていた。
暗闇が、周囲を取り巻く。
闇は、ぬめる様に濃い。
見なれた、夜の飼いならされた黒とは、気配が違っていた。
進もうとする体に、重くまとわりつく。
一切の光も見出せない程の深い闇だ。
自分が、本当に存在するのかも、不安になる。
自分の輪郭すらも危うくなる。
先を行った蜘蛛と、握り締めた蜘蛛の糸の感触が、少年の道標だった。
ちらりと上を仰げば、蜘蛛の吐き出す糸が、闇の中で、唯一、存在を主張している。
握り締めた金糸の微かな煌めきは、真っ直ぐに暗い頭上に伸びて、いつしか消えていた。
ずいぶんと、地獄の深いところまで来てしまった。
それでも、糸がある限り、帰り道を見失うことは無い。
「恐くない」
少年は、蜘蛛の糸を下って行く。
四方に反響し、湧き出る苦悶の声にも、一つの言葉を呟きながら。
「ぼくが、助けなきゃ」
耳を塞ぎたくなる衝動。
少年は、理性を持って抗う。
声を振り払うように、少年は首を振る。
真っ暗な中でも、視界が揺れるのが分かった。
すこし、安心する。
蜘蛛の糸を握り締め、それでも少年は降下する。
不意に、足に何かが触れ、それ以上下ることが出来なくなった。
足を擦らせて探ると、そこには足場があった。
先に降りていたはずの蜘蛛の気配が、傍らにある。
降りて来た池は、見えないほどに遠い。
少年は確信した。
(底まできたんだ)
慎重に、地面に降り立つ。
スニーカーの底が、妙な弾力感を伝えて来る。
表面は柔らかいのに、芯を持ったように硬い。
ビシャリと、妙に湿った地面だった。
ぞぞぞ。
空気が動いて、硬く、短い毛の感触が少年の手に触れた。
暖かくも、冷たくも無いそれは、蜘蛛の体だった。
少年は、短い体毛にしがみ付きながら、地面を撫でてみる。
冷たい地面は、柔らかい。
薄い膜の中に、何か柔らかいものを詰めているような、そんな感触だった。
「行こう。
お前なら、風の居場所が、分かるはずだから」
蜘蛛の体が蠕動する。
早く、早くと少年を急かすように。
蜘蛛と共に前進する度に、地面から飛沫があがる。
ひと際高くまで飛んだ飛沫が、顔に付着する。
付いた汚れが不快で、少年は顔を拭おうと腕を上げる。
臭気が、鼻をついた。
それは、先ほど地面を探った手だった。
鉄錆のような、しかし、もっと湿った臭い。
確かに、嗅いだことのある臭いだった。
しかし、少年には、それが何の臭いであるか、判断が付かない。
地獄の底には何があった?
頭がくらくらして、足に力が入らなくなった。
周囲の闇がざわめき始めた気がするのは、気の所為なのだろうか?
こわくて、不安で、少年は確かめたくなる。
「止まって」
少年の声に呼応して、蜘蛛は足を止めた。
それでも、辺りの闇は、ざわめき続ける。
ざわざわと揺れながら、それはだんだんと少年に近付いてくる。
鳥肌が立った。
恐怖や不安が、締め付けて来る。
胸が、苦しくなる。
(恐くなんか、無い)
少年は自分に言い聞かせた。
ここに、弟は居る。
自分を、待っているのだ。
見つけずに、一人で、逃げ帰るわけにはいかなかった。
蜘蛛のぞぞめく体毛を握り締め、少年は、胸一杯に闇を吸い込んだ。
「風!」
少年が、弟を呼ぶ声が地獄に反響する。
ワンワンと、空気が戦慄く。
「風、どこに居る?
迎えに来たんだ、返事をして!」
広い広い、黄泉の国で、少年は、たった一人の人を探す。
何か判らないものの気配が、周囲を取り巻き始めている。
何も起こらない。
けれど、無限に増えていく恐怖心。
(恐い、こわい、こわいこわいこわい…)
逃げ出したいと思った。
それでも、少年は逃げない。
金色の僅かな光が、勇気づけるように光っていた。
「風、風!」
少年は、叫ぶ。
奈落に落ちた、弟の名を。
(今度こそ、たすけるんだ)
少年は、唇をかみしめる。
弟を守れる、強い兄でありたかったのに。
最悪な形で、その期待を裏切ってしまったのだ。
だから、少年は願う。
今度こそ、と。
「風!」
「…にいちゃ…??」
数回目の呼びかけに、呼応する声があった。
それは、間違い無く、弟の声だった。
拙く呼ぶ、弟の声だった。
少年は、震える足で、声のする方へ向かった。
しかし、視界の利かない恐怖と歓喜から震える足元は、覚束無い。
それでも、嬉しくて、嬉しくて。
蜘蛛を手放し、足元の何かを蹴散らしながら、少年は足早に闇を駆けた。
「風!」
「にいちゃ!」
呼び声は、だんだんと近くなる。
どんどんと少年の元へ向かってくる。
そして、小さな手が、過たず少年の服をつかんだ。
「にいちゃ、どうしてここにいるの?」
「迎えに来たんだよ、家に帰ろう」
少年は、ついに弟をその腕に抱きしめた。
感触に、刹那、怯む。
それは冷たい、冷たい、死者の感触だった。
弟から伝わる冷たさに、少年の指先は冷える。
反対に、目の奥が熱い。
(…死んでいるんだ)
ここは、死者の王国。
ここのいるのは、皆、死者なのだ。
「『よみがえり』って、言うだろ?
あれは『黄泉の国』から、還えって来ることを言うんだ」
気持ちとは裏腹、晴れ渡った空。
白と黒のクジラ幕が翻る午後に、聞いた話を思い出した。
「でも、還ってくるためには、気をつけなけりゃいけないことがある」
瓶詰の蜘蛛たち。
龍の足留め。
そして、蜘蛛の糸。
教えられた事は、きちんと出来ているはずだ。
だから、大丈夫。
早く、早く。
連れて帰らなくては。
両親が、待っている。
あの暖かい場所を、取り戻さなくては。
「行こう、風。お家に帰ろう」
「お家?」
少年は、弟の手を掴みながら、もう一方の腕に巻き付けた金の糸を示した。
「この蜘蛛の糸を上って行けばすぐに還れるから」
「うん」
少年は、弟を抱きしめる。
強く、強く。
もう放さないように。
周囲に集まってくる、何か分からないモノの気配に、少年は顔を上げる。
「『下のかちかち』」
ぎちぎちと、大蜘蛛は牙を鳴らす。
そうして、向かい来る何かに喰らいついて、少年たちから離れていく気配がした。
袋が破れ、水分が溢れ出るような音。
一歩、一歩、蜘蛛が離れる。
絶叫が、増えていく。
「にいちゃ、怖い…」
「黙って」
少年は、弟の手を引いて、蜘蛛の糸を辿って走り出した。
走って、走って、池の真下まで。
ぐにゃりと、柔らかい足場。
立ちこめる臭気。
絶叫。
声が渦巻く。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
遅れがちな弟に焦れて、背に負うて、少年はさらに走る。
恐かったのだ。
どうしようもなく。
自分が。
自分のいる場所が。
少年は、この足元が、一体何で出来ているのかを悟ってしまった。
自分が土蜘蛛に、何を命じたのか、分かってしまった。
見えなくても、理解してしまった。
放った言葉が重い。
叫び出したい。
逃げ出したい。
恐怖を背負って、少年は必死に走る。
何度もよろめきながら。
躓きながら。
それでも、弟を手放す事無く。
蜘蛛の糸が真上に見えた時だった。
足を取られ、少年は地面に倒れ込んでしまった。
顔に跳ねる、水分。
思わず掴んだ先は、硬い中身と、弾力を持っていた。
肘か。
膝か。
角ばった硬い骨と、それを包む皮膚。
それは、人間の死体の感触だった。
「ひッ」
少年はたじろぐ。
起き上がろうと、足に力を込めるも、立ち上がることは出来なかった。
足を取られたものが、まだ残っている。
その足を滑らせたもの。
つまりは、少年の足を掴んだもの。
恐る恐る、少年は肩越しに振り返る。
闇の中には、五指を有する、白い手がぼんやりと浮き上がっていた。
真っ暗な、鼻をつままれても分からないような闇の中で、発光するように浮き上がっていたのだ。
ヒタリ。
手が、少年の足を叩くように移動する。
ヒタリ。
手は、少年の足を這いあがって来る。
それは、冷たい、冷たい、感触を有していた。
死人の肌の、感触だった。
「うわぁあああああああああああああああああああああぁ!」
押さえることのできない悲鳴が、喉を突き破った。
まとわり付く手を必死に蹴り、払い、少年は土蜘蛛の作った蜘蛛の糸に縋りつく。
腕に、足に、渾身の力を込め、少年は昇って行く。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ…)
背中の弟の重みは忘れた。
言葉だけが、頭の中で氾濫する。
少年は、必死に、上だけを目指した。
よじ登る足が、痺れる。
手の平が、裂けるように痛む。
早く、昇ってしまわなくては。
「にいちゃん、下!」
肩越しに掛けられた弟の声に、少年は我に返る。
足の間から、昇って来た金の縄が、長く続いていた。
いつの間にか、地獄の底から、ずいぶんと昇って来たようだった。
「下は、見ちゃだめだ!」
少年は弟をたしなめるが、弟は、繰り返す。
「違う、下、下見て!!」
少年は目を凝らす。
糸の近くで、闇が蠢いている。
そんな、気がした。
(何だ?)
じわり、ぞわり。
蠢く影は、だんだんと近づいてくるようで。
背筋を汗が伝っていく。
どんどんと、影の輪郭がはっきりし始める。
黒い闇に、浮き上がる白。
青白いほどの、白。
白。
それは、先ほど見た、足を掴んだ手と、同じ色をしていた。
誰が、掴んでいるのか、顔は見えない。
しかし、形は分かる。
それは、緩慢に、しかし、確実に糸を伝い昇る、人間の姿。
紅く血に濡れた、人間の姿。
少年は、目を見開く。
その頭上では、音がした。
何かが、ピシピシと切れる音。
音。
それは、重みに耐えかねた、蜘蛛の糸の悲鳴だった。
(切れる…!)
切れてしまえば、地獄まで真っ逆さまに落ちていくことになる。
帰り道すら、失ってしまう。
カンダタのように、逆戻り。
抜け出すことは、できなくなる。
死んでしまう。
(そんなのは、嫌だ)
どうすればいいか、考える。
生存本能が、思考を加速させた。
「『下のかちかち』!」
恐怖が、喉を突き上げる。
少年の唇が戦慄いて、土蜘蛛に指示を飛ばす。
「悪い人はみんな、食べちゃえ!!」
地下にいるのは、人間だと知っていたのに。
死人であれど、人間であると知っていたのに。
少年は指示を出した。
その声に従うように、紅く発光する蜘蛛の眼が動く。
土蜘蛛の体が躍り上がった。
ギラリと、牙が光る。
亡者の足を、腕を、噛み千切る。
頭が飲み込まれていく。
声すら、上げることが出来ずに、呑まれていく。
それは、まるで、少年のジャム瓶の中を再現しているようだった。
少年の蜘蛛は強くなる。
殺せば殺すほど、蜘蛛は強くなっていく。
「やった、やった!」
歓喜の声が、出る。
溢れ出る、笑い声が止まらない。
止まらない。
けらけら、からからと、喉をついて、流れ出す。
乾いた笑い。
軽い、軽い、狂った、それ。
「これは、ぼくたちの糸だ。
ぼくたちが『黄泉還る』ための糸だ!」
プツン。
ぷつ。
ぷつ、ぷつつつつつつつつつつつ、つ。
少年が叫び終わった瞬間、その音は、大きく響いた。
断続的に、継続的に。
救いの糸はみるみる切れていく。
上を見ると、千切れた金糸の端が揺れていた。
少年の体が宙に舞う。
落ちていく。
これでは、あのお話と変わらない。
罪人カンダタと同じ運命。
「嫌だ!」
少年は、必死に腕を伸ばす。
無情にも、その手は蜘蛛の糸には届かない。
もう、還れない。
抗いたい。
けれど、抗えない。
少年は戦慄する。
恐怖に、四肢が強張る。
無駄だとは知りながら、少年は必死にもがく。
空中で、体勢が変化する。
眼前に迫るのは、地面。
そこは鼓動を打つように波打ち、真っ赤に染まっていた。
「『下のかちかち』、」
呼ばう声に、大蜘蛛が、落ちる少年たちを振り仰ぐ。
「おいで!」
蜘蛛は、赤い目をチラつかせる。
少しだけ考えるような仕草をした。
少年の下まで、歩いてくる。
そして、おもむろに開く牙。
口。
予感が、脳裏を閃く。
死ぬ、と言う、直接的な恐怖。
どんどんと。
だんだんと。
蜘蛛の体が、膨張する。
少年は、悪い人をすべて食べろと、蜘蛛に命じた。
蜘蛛は、その指示に従って、少年に喰らいつこうとしているのだ。
ここは、地獄。
ここにいるのは、すべてが罪人。
人を蹴落として助かろうとした自分は、カンダタと同じ、地の底の住人になった。
否、違う。
雷雨にさらされたあの日、自分一人が助かった時点で、地獄の罪人だったのだ。
ここが、似合いの場所なのだろう。
痛みを覚悟し、少年は目を閉じる。
強く、目を瞑る。
「クソが!」
目を閉じたままの、顔に当たる怒号と烈風。
風は、落下の勢いを殺し、少年は、飛沫を上げて背中から着地する。
痛みに、息が詰まる。
浅く何度も吸い込んだ空気に混じる臭気が、鼻を刺した。
持ち上げた手が、真っ赤に染まっている。
赤い、鮮やかなそれは、血液。
幾十、幾百の、蜘蛛によって引き裂かれた罪人たちの。
少年の手は、血にまみれていた。
(血の池だ…)
その惨状は、自分が作ったもので。
自分も、その中に交じりそうになったもので。
少年は、立ち上がる力を失った。
地面を擦るような足音が、近づいてくる。
「妙な諦観している暇があるなら、さっさと自分の力で立て、ガキ。
鬼を飼うぐらいの気概があるなら、ちったぁ、現状に抵抗してみろってんだ。
鬼飼う者ってのは、その実、皆腰ぬけばっかりか?」
落ちて来る悪態に、少年は目を開ける。
覗きこんでいたのは、金の目を持つ男。
黒々と長い髪の間から、とがった耳が覗いている。
龍神だった。
少年は、弟を探して、地面を探る。
冷たい感触に触れ、握り締めると、しっかりと握り返してきた。
鼓動の音は、ない。
しかし、微かに震えている。
(守らなくては)
少年は、思う。
しかし、蜘蛛を呼び寄せようとし、逡巡した。
龍神の背後で牙を鳴らす蜘蛛が、恐くなったのだ。
土蜘蛛が、『下のかちかち』が、誰に殺意を抱いているのか、少年には分からない。
すでに、分からなくなっていたのだ。
「賢明ですね」
龍神の傍らの、濃い闇から切り取られるように、真っ黒な男が現れる。
それは、少年と同じ鬼飼う者。
龍神を飼う男だった。
男は、目を細め、少年を見る。
すらりと抜かれた刀は、輝くことも無く、闇に埋もれた。
「ああ、行燈も沈黙している。
こんな隠の深くまで来るから、君は恐怖をコントロールしきれなくなってしまった。
土蜘蛛は、もう、君の手に負えるものではなくなってしまった」
男は、少年に向かい、一歩を踏み出す。
「鬼を飼うのは、簡単なことじゃない」
「来るな!」
気色ばむ少年に、長脇差を掲げた男は、困惑した笑みを浮かべた。
「恐がらないで。
それだけ、隠が深くなってしまう。
今ならまだ、ここから還る方法は、残っているんだから」
ゆっくりと、男の手が少年に迫る。
紅い水分の中を後ずさろうとする少年の頭に、柔らかく触れた。
「君の名前を教えて。
そうすれば、君が囚われている、この隠を壊すことが出来る」
その手は、暖かい。
生き物の、人間の手だった。
この地下の王国で、ただ一つの。
「生きる上で、罪を犯さない人間なんていない。
でも、君は地獄に落ちなければいけないほど、悪いことはしていないよ。
還ることを、諦めないで。
君はまだ、生きているんだから」
眼鏡の奥の瞳が、柔らかにほほ笑む。
穏やかな笑顔だと、お釈迦様はこんな風に笑うのではないかと、少年は思った。
蜘蛛の糸を垂れる、お釈迦様。
罪人の救済者。
少年の口が、己が名を紡ぐ。
「ナギ…、相良、凪」
「そう、『相良凪』くんって言うんだね」
柔らかな声で名前を呼ばれた瞬間、ふと、体が軽くなる。
自分を地面に縫いとめる何かが、体の中の重石が、消えてたような不思議な感覚だった。
「凪くん、君は、弟を探してここに来た。
君の弟は、地獄に落ちるほど悪いことをしたの?」
少年は、凪は、強く、首を振って否定する。
弟は、悪くない。
悪いのは、自分なのだ。
立ち入り禁止の場所に、入り込んだ自分。
弟の手を、放してしまった自分。
「それじゃあ、ここが地獄であるはずが無い。
ここは、地下の帝国だけれど、地獄じゃない。
だったら、ここは、どこだろう?」
問われて、脳裏を過る言葉があった。
「ここは、『黄泉の国』」
「そう、それじゃ、ここは『黄泉の国』だ。
君は弟を探して、『黄泉の国』に来た。
『黄泉の国』は死者の国であって、罪人の刑場である『地獄』では無い」
男は、また笑う。
こんな暗い場所でも、血臭の中でも、何でもない顔をして。
「人は、世界を見る時、情報を取捨選択する。
見たいものをみて、見たくないものは見ない。
だから、願って、『還り道』が見たいって」
抜かれた刃が、真一文字に駆け抜け、音も無く少年の背後に忍び寄っていた気配を切り裂いた。
「行って、この国の住人が集まってくる。
君なら見つけられる。
地上へと続く、『黄泉つ平坂』を」
男に手を引かれ、凪は立ちあがった。
足の裏に、地面を感じる。
柔らかかったはずの地面は、硬い。
しっかりと、凪の足元を支えている。
視界は闇に包まれたまま。
しかし、周囲を取り巻いていた血臭が消えたことに、凪は気付いた。
そして、自分の鼻先さえ見通せない闇の中で、いくつかの風景をみていたことに。
見えないわけではない、見ていないだけなのだ。
認識が、すとんと胸に落ちた。
(ぼくは、全部知っていた)
空気が、流れている。
外が、暖かい場所が、呼んでいる。
「そのまま走って!」
男の声が背中を押す。
凪は、闇の中を走った。
光の見える方へ。
風が、吹く。
光へ向かって、凪を追い抜き、吹いて行く。
「もう、大丈夫」
凪は呟く。
冷たい左手の感触は、遅れることなく続いている。
胸に広がる安堵感。
凪は、振り向きもせず、ひたすらに走る。
光が、ぐんぐん近づいていた。
「あの人の言っていた通りだから」
黄泉つ平坂の出口は、もう、すぐそこだった。