蓮の咲き乱れる池の傍。
覗きこむ人影が一つ在った。
遥か、遥か、下まで見通せる池の畔で、人影は呟く。
「可哀想に」
水面から顔を上げ、周囲を見回すと、蜘蛛が一匹、巣を張っていた。
何かを思いついたような顔をして、白い指先が、己が巣を這う蜘蛛にのびる。
手の内に捕らえられた蜘蛛は、ほんの少し、怯える。
その姿にほほ笑んで、安心であると言外に伝えると、蜘蛛は白い手の中で動きを止めた。
「そなたの糸を、貸してはくれないか」
肯いた蜘蛛は、黄金に光る糸をするすると吐き出した。
手の平で輝く糸は、際限無く伸びる。
そうして、白い手に促されて、吐き出された糸はするすると地下に下りて行く。
黒い、暗い、闇の中に光る、唯一の明かり。
それは、真っ直ぐに地底の王国を指していた。
土蜘蛛
迫る夕闇に赤く焼けた街を、学生服の少年が歩いている。
手に提げる事が出来ないほどに膨れ上がった学生鞄を重そうに抱え、自宅を目指していた。
学生鞄の中身の大半を占めるのは、市営の図書館から貸し出された数々の本。
両手はすでに痺れ始めている。
腕に伝わる紙の重厚感から解放されたい一心で、彼は無口に家路を急いでいた。
彼の歩く、赤く焼けた田園風景。
その姿さえ見失いそうなほど、景色にピタリとはまり込んだ黒い学ラン姿。
「おい、鬼灯」
そこに、不意に波紋が起こった。
じわり、世界の境界線が、にじむような感覚。
『異質』が混ざりこむ違和感が生まれた。
世界が、境界線が、歪む。
茜色に染まる風景に、不意に浮かんだ緑が、口を開いた。
「返事くらいしたらどうだ、阿呆」
他人が存在しない「はず」の夕暮れに、彼を呼んだ声は、とても高圧的だった。
彼――鬼灯薫は、はぁと息を一つ吐き出すと鞄を片手で抱き直し、取り出した携帯電話を耳に当てる。
「何だよ、外では答えられないっていつも言ってるだろ。
何時何処で誰が見ているか分からないんだから」
「へっ、折角このおれ様が直々に鬼の気配を見つけてやったってのに、何て言い草だ」
通話中を装って、頭の上の重みの主――緑の龍、龍牙を横目で見やる。
声に不満を滲ませると、その長い尾が不機嫌にゆらりと揺れ、鬼灯の側頭部叩いた。
ぺちりと思いの他いい音がして、かけていた銀縁の眼鏡が少しずれてしまう。
鬼灯は慌てて眼鏡を掛け直した。
周囲には人の気配はない。
けれど、こんな場所でも民家は点在している。
誰も居ないと思えても、誰が何処で見ているか分からない。
鬼灯の住む鳥羽地区は、農業地帯だ。
田舎であるため、近隣住民同士の情報網は平成の今も生きている。
つまり、妙な噂が立てば、一気に広がってしまうのだ。
『鬼灯さん宅の薫くん、何も居ないところで、一人で話していたわよ』
そんな風に後ろ指を差される事態は、どうしても避けたい。
噂の的になることは、もう嫌だ。
良くも悪くも目立ちたくない。
それを、鬼灯は願っている。
気を抜くことは出来なかった。
鬼灯の頭の上にいる龍は、鬼と呼ばれる、一般的には存在しないと見なされるものである。
妖怪、幽霊、物の怪、妖、妖精…呼び名、等級は多々あれど、一括して鬼と呼び習わす。
推理小説、エッセイ、歴史書、図鑑が一括して『本』と呼ばれるのと同様の事だ。
彼ら鬼達は基本的に、人にその存在を『認識』されることは無い。
だが、力の強い龍牙の声や姿は、その意思次第で認識されることも可能である。
加えて、力を押えた省エネ仕様、腕の長さ程の龍の姿をしているときは、滅多なことでは感知されることはないのだ。
しかし、『人』である鬼灯の声や姿は違う。
声も姿も、何の障害もなく周囲に認識される。
龍神が手を出し、その被害を鬼灯が被ればそれは誰の目にも見えてしまう。
何度も言い聞かせてはいるものの、口は減らないし、手も早いのが龍神、龍牙である。
それは分かっている。
それでも多少の反発感を覚えるのが人情というものではないだろうか。
鬼灯はせめてもの怒りの発散に、携帯電話を強く握り直し、声に皮肉を乗せる。
「それで、一体何をお見かけになられましたか?」
「なんだ、あんなのにも気付けねェのか、使えねェな」
龍牙はフンと鼻を鳴らす。
馬鹿にしたと態度が示していた。
実に分かりやすいジェスチャー。
「あのガキだ。
見てみろ、妙に薄い影してやがる」
目の前で視界を邪魔していた尾が指し示す先、少し離れた川縁に、少年が一人しゃがみ込んでいる。
夕日に浮かぶシルエットは、ランドセルに隠れてしまうと言っても過言でないくらいに、小柄だった。
小学校に入学して一年目程度だろうか。
彼は、何かを期待し、目を皿のようにして、フェンスの根元を探っていた。
「確かに就学年齢にしては、少し薄いかもしれない。
けどさ、あれくらい小柄な子なら、結構居るし、薄くて当然だろ」
『六歳までは神が内』という言葉がある。
それはつまり、七歳まではあちら側、隠に存在が残っていると言うことだ。
そして、現に現れる子どもの影は薄いのが一般的である。
年を経て、子どもが世間に認知されていく度、現の影は濃くなり隠の影は薄くなっていく。
影は、存在認識の度合いを測るバロメーターなのだ。
多数の人にその存在を知られる事は子どもにとっては重要なことだ。
そのため、お宮参りや七五三と言う行事が存在している。
しかし、どれだけ周囲に認識されても、成長の遅い子どもは、なかなかその身のすべてを現に引き取れない。
隠に存在を残しているということは、それだけ『死に近い』と言うことである。
体は弱いものの、医療の発達した現代では、全てを引き取りきれなくとも生存し続ける例は多いのだ。
だから、彼は少し珍しいだけのただの子ども。
大した問題はない。
鬼灯はそう判断した。
「お前は莫迦か、よく見てみろ」
龍神は呆れ返ったように深く息を吐いた。
鬼灯の視界を塞いで無理矢理に動きを止めた龍牙は、その涼しげな眼元を歪ませる。
「ありゃ、お前の同族だ。
しかも、相当喰われてやがるぜ」
「…鬼飼う者か」
鬼飼う者とは、文字通り、鬼を、飼う者のことである。
その身の内に虚を持ち、鬼に憑かれる虚持ちとは違い、鬼飼う者は自分の意志によって、鬼を自分に憑ける。
己の中の虚に気付いた上で鬼を生む。
または、虚までもを自分の中に作り出し、鬼を作り出す。
そうして、化現した鬼と契約を交わし、その姿を現に留め、利用するのだ。
他の存在を喰らうこと。
それは、鬼にとっては、抗い難い生存本能の発露である。
そのため、得られる餌、現の存在が少ない場合、鬼は鬼飼う者を喰らう。
少しずつ、少しずつ、存在が消えていく。
喰われていく。
存在を喰われるに比例して、鬼飼う者の影は、どんどん薄くなる。
そして、最後は。
そこまで思考を巡らせて、鬼灯は龍牙に向き直る。
「放って置くわけにはいかないね」
鬼灯は、重い学生鞄を抱え直し、来た道を戻り始めた。
そして、背中に手を回し、リュックを少しだけ開ける。
「いい加減、お前の希薄な力は喰い飽きたしな」
「それが本心か」
苦笑交じりの鬼灯の指摘は、全て無視。
龍牙は、長い体をくねらせ、そのジッパーの隙間に体を滑り込ませ、姿を隠す。
前回の鬼遣らいから約2週間。
そろそろ限界らしい。
本人がお気に召していないらしい、省エネ設定の小さな龍の容姿と、自分から鬼を探しているのが何よりの証拠である。
食傷を原因にしてはいる。
しかし、本当のところは、これ以上力を喰われれば、鬼灯の存在が危うくなるのだろう。
それは、龍牙の存在の危機でもあった。
鬼飼う者に飼われる鬼にとって、鬼飼う者の消滅は、自身の消滅と同義語である。
そのため、ある程度の知能を持った鬼は、鬼飼う者以外の存在を好んで食べるのだ。
龍牙を存在させ続けるためには、鬼を狩ることは絶対条件。
加えて、強力な鬼を放置すれば現が隠に飲まれて消えてしまう。
逃がすことは、出来なかった。
鬼灯は、ゆっくりとした足取りで、少年に近付いていった。
少年の背中越しに、農業用水のため池が見えた。
岸壁の頂点から水面までの高低差は、1メートル程だろうか。
その四方は、金網で作られたフェンスでぐるりと囲われている。
その内側に、彼は居た。
近づくほどに、強くなる鬼の気配。
本を抱えた腕が、汗ばむ。
(何も、気付いていないふりをしろ。
出来るだけ、フレンドリーな表情を)
自分に言い聞かせ、鬼灯は少年の背中に声を掛ける。
「ねぇ、君、何を探してるの?」
少年が、ゆっくりと振り向いた。
背丈、容姿にあった、幼い顔が、鬼灯に向けられる。
丸い、真っ黒な目と、視線がかち合う。
少年の顔に、笑顔が浮かんだ。
「ジグモ、捕まえているんだ」
そう言って、鬼灯の前に手が差し出される。
彼が手にしているのは、電柱や建物に沿って地面から生える、土まみれの細長いクモの巣。
ジグモ、字は『地蜘蛛』だったはずだ。
鬼灯は文字を頭の中で検索する。
少年に、警戒の色は見えない。
どうやら、好意的に受け入れられたらしい。
鬼灯は、心の中で、胸をなでおろす。
警戒されては、事実を引きだすことは出来ない。
相手の有する鬼も虚も、見極められない。
鬼遣らいは、心理戦である。
鬼灯の表情筋が、笑みの形を崩すことは無かった。
「見ててね」
再び地面に向き直った少年は、休むことなく、地面に視線を走らせ、蜘蛛の巣を探している。
蜘蛛の巣を見つけ、土の中から引き抜く度に、彼は拙く歌を唱えた。
「シタノカチカチ、シタハカジダカ、ウエサアーガレ!」
それは、この地方に伝わる、土に住む蜘蛛を捕える時に唱えるまじないだった。
これを唱えながら、蜘蛛によって編まれた筒を引くと、途中で千切れることが無いという。
そんな、子どもが使う戯れ歌。
蜘蛛にとっては迷惑千万だが、こうして小さな獲物を捕えて遊ぶ時期と言うものは確かにある。
鬼灯自身、行ったこともあった。
蜘蛛の巣は、鬼灯が見ている内に、するすると地面から引きずり出される。
袋の先に、小さな膨らみがある。
慎重な手付きで巣を裂けば、現われる赤黒い蜘蛛が転がり出してきた。
何の変哲もない、ただの地蜘蛛だった。
「…違う」
少年は、蜘蛛を見て落胆する。
蜘蛛を手の平から逃がして、座り込んだまま、ウサギ飛びに一歩前進。
フェンスの根元、見つけ出した蜘蛛の巣を、再び土の中から引きずり出す。
地面から出たそれは、ぺたりと、厚みが無い。
その中に、蜘蛛の存在は感じられなかった。
しかし、少年の顔色は違った。
何かへ対する期待に、頬が紅潮する。
首の後ろが、ピリリと痺れるような違和感。
龍牙が、何かを警戒しているのだ。
(何が出る?)
不安に、鳩尾が重くなる。
それでも、鬼灯は表情を崩さなかった。
そうして、巣を裂いた少年の手の中に這い出したのは、真っ黒な、蜘蛛だった。
ころりと太った、小さな、土蜘蛛。
「やった!」
歓呼を上げ、少年は上着のポケットを探る。
ポケットの中から引きずりだしたのは、小さめのガラス瓶。
元々はジャムでも入っていたような、それ。
中に、今、収まっているのは蜘蛛だった。
おびただしい数の、土蜘蛛。
全てが、黒い、真っ黒な、闇を凝縮したような蜘蛛たち。
一匹や二匹などという、可愛らしい数ではない。
少年の手の中にある瓶には、何十匹という地蜘蛛が、すでに捕らえられ、落としこまれていた。
わらわら、わらわらと、閉じ込められた小さな空間で、蠢いて、蠢いて。
瓶の硝子を通して、動きまわる音が聞こえて来る気がする。
ざわざわ、きしきし、しゃりしゃり。
蠢いて、重なり合って。
鬼灯は、瓶を見つめ、目を見開く。
「ほら、見て」
少年は瓶のふたを開けた。
その瞬間、ざわりと、全身の毛が逆立つ。
背を悪寒が駆けた。
何かうすら寒いものが、瓶の中に閉じ込められていたかのように、周囲を寒さが包んで行く。
鳥肌が、全身に及ぶ。
(鬼だ…!)
それも、おびただしい数の。
神経を尖らせる鬼灯を他所に、少年はなおも笑っていた。
捕えられたばかりの鬼が、指の先から滑り落ちて、瓶の中に着地する。
「おにいちゃんは知ってる?
『蜘蛛の糸』って、話」
その手の瓶の中では、弱肉強食が繰り広げられている。
足を無くした蜘蛛が一匹、猛然と新入りへと顎を広げた。
「お釈迦様がね、悪いことをして地獄に落ちたカンダタを助ける話だよ。
蜘蛛を助けたことのあるカンダタのために、お釈迦様は蜘蛛の糸を垂らすんだ」
その間にも、瓶の中では、胴の無いものが、最後の足掻きなのか、別の蜘蛛の尻へと齧りついている。
「でも、地獄に垂れた糸は、罪の重さに耐えきれなくて、切れてしまった。
カンダタは、地獄へ逆戻り。
でも、お釈迦様は、それきり助けようとはしなかった。
本当に助けたいなら、何度だって、失敗したって、やらなきゃいけないのに」
瓶の中で繰り広げられる残酷を、少年は愛おしげな眼差しで、見つめる。
「ぼくは、見捨てない。
何度だって助けに行く」
少年は、誇らしげに笑った。
鬼灯は、少年の笑顔に、気付かない。
気付けない。
吸いつけられたように、瓶から目が離せないのだ。
頭の無い蜘蛛が、横たわり、踏みつけられ、折り重なる黒い海へと消えていった。
確認できたのは、そこまで。
あとは何だか分からないような塊となって、重なり合い、縺れ合い。
互いに、喰らい合いを繰り返していた。
「土蜘蛛は、太く糸を編んだ巣を作るんだ。
縄みたいに、太い巣を、ね。
小さい蜘蛛の巣は丈夫じゃないけど、大きい蜘蛛なら、吐き出す糸だって強いはずだよ」
愛おしげに、瓶の中の土蜘蛛に微笑んで、少年は続ける。
「お釈迦さまには、出来なかった。
でも、土蜘蛛を飼うぼくになら出来る。
できるんだ」
それは、心底誇らしそうな声と笑顔。
嬉しくて、嬉しくて、仕方のない笑み。
「だから、お兄ちゃんには、邪魔させないよ」
鬼灯は、顔を上げた。
そして、少年の目に宿る光を見つける。
「そこの『龍』のお兄ちゃんにだって」
狂ったような、怪しいきらめきは、鬼灯の背後で、確かに焦点を結んでいた。
「やっぱり見えてやがったか」
鬼灯の背後から、龍牙がするりと滑りだす。
笑らう少年の視線の先で、わらわら、ざわざわと、瓶の中質量が減っていく。
「鬼を使った共食い―――巫蟲の術か。
また随分と古めかしい呪法使いやがるな。
しかも、わざわざ力の弱い『オニ』なんぞ大勢飼いやがって。
おれ達に気付かれねェための策か?
小知恵が回るな」
龍牙は、ギラリ、眼光鋭く少年を睨み付ける。
「誰に入れ知恵された?」
「秘密」
少年は、楽しそうに笑った。
瓶の中身は、減る。
消える。
蜘蛛の気配が膨れ上がる。
そして、残る蜘蛛は、二匹。
「おい、何してる、莫迦者!」
龍牙の怒声と、続く背中への衝撃。
鬼灯は我に返った。
学生鞄を放り出し、リュックを探るが、目当てのものは見つからない。
その様を少年は、口元を歪めて笑う。
手の中の瓶が、ぼこぼこと泡立つ。
黒い泡が、溢れ出していた。
「遅いよ、お兄ちゃん」
舌打ちが、一つ。
鬼灯の視界に、桜を散らした浅葱の羽織がはためいて、フェンスをひらりと飛び越える。
少年の手からたたき落とされるガラス瓶。
地面に落ちて弾ける寸前、一気に漆黒が膨張した。
「来るぜ、構えろ!」
龍牙の声を最後に、どくりと、鬼灯の世界は闇に包まれた。
* * *
閉じた瞼に、光を感じる。
鬼灯は目を開けた。
周囲は暗い。
けれど、闇の中に居るはずなのに、自分の体は、はっきりと見える。
ここが、少年の虚が造り出した隠であることを確認する。
「龍牙」
声をかけても、相棒からの返答はない。
どうやら、引き離されたらしい。
背中にあったはずのリュックもない。
もう一度目を閉じて、鬼灯はゆっくりと思い浮かべる。
長くはないが、よく磨きこまれた鋼の刀身。
夕焼けの朱色に染められた布で包まれた握りに、龍の彫りこまれた黒い鞘。
クロガネで作られた長方形の鍔には、紅の石がはめ込まれている。
詳細に、使い慣れた長脇差を脳裏に描いていく。
手で掴める程の、確かなイメージ。
「『行燈』」
呟いて、ゆっくりと、呼吸を三回。
左手の内に、冷たい感触が現れる。
目を開けると、記憶にある通りの長脇差の行燈が納まっていた。
自分の隠が展開できることに、鬼灯は安堵のため息をつく。
どうやら、少年の隠に引き込まれはしたものの、完全に取り込まれずには済んだらしい。
さらりと、風が頬を撫でた。
風には、声が乗っている。
「おにいちゃん、風をよろしくね。
危ない場所には行かないでよ!」
「分かってるー」
子どもと女性の会話だった。
鬼灯は、声の方へと、歩いて行く。
民家、田圃、高い生け垣。
眩しい太陽の光が、照りつける。
時間は違う。
季節は違う。
しかし、そこは、先ほどまで鬼灯の辿っていた道だった。
並ぶ民家の一つ、石塀の内から、小さな子どもの手を引いた少年が、走り出してくる。
虫取り網が、自由の旗印のように、青い空に翻っていた。
「にいちゃ、とんぼ!」
風太が、入道雲を背景に暑い大気の中を行く、シオカラトンボを指さし、舌足らずに歓声を上げた。
麦わら帽子の中、少年は、指先の指す空を仰ぐ。
よく日に焼けたその顔は、鬼飼う者の少年だった。
「待ってて、今捕まえてあげる」
少年は、虫取り網を翻す。
しかし、弟の手を引いたまま追いかける少年を、トンボは軽やかにかわして飛んでいく。
「待て!」
弟の手を引いたまま、少年はトンボを追っていく。
追って、追って、たどり着いたのは、あの溜池のフェンスだった。
中の泥に蔓延る葦原に、風が目をか輝かせたのが分かった。
「とんぼ、いっぱい!」
「そうだね。
それじゃ、風はここで待ってて。
にいちゃんが取って来てあげる」
「いやだ、ぼくも!
にいちゃ、ずるい!」
風は、今にも泣きそうだった。
仕方ないと言う大人びた表情を浮かべ、網を柵の向こうに投げ、少年は弟に手を差し出す。
「それじゃ、ほら、行こう。
危ないから、手を離しちゃだめだよ」
「うん!」
少年たちは、手をつないだまま、フェンスの切れ目を通り抜けていく。
立ち入り禁止の場所に潜入すると言う、夏の小さな冒険。
約束を破る快感。
少しだけ遠い危険は、少年にとって、甘いものだ。
そんな微かにあった遠い日を思い出し、鬼灯は空を見る。
その顔に、風が吹きつけていく。
入道雲が、大きく膨らんでいる。
雨の気配が、近づいていた。
柵の中に潜入した小さな冒険者たちは、虫取り網を振り回す。
10分、20分と時間は過ぎる。
それでも、トンボは、捕まらなかった。
風の瞳には、涙と失望が浮かんでいた。
「泣かないでよ」
少年は困惑する。
少し考え、弟の手を引いて、フェンスの裂け目から離れた水小屋へ向かい、周囲をぐるり回った。
「あった」
少年の目は、壁に沿って伸びた、蜘蛛の巣を捕らえていた。
そして、傍らに弟を呼び寄せ、巣を引きながら歌う。
「したのかちかち、下は火事だか上さあーがれ!」
引き出した巣には、大きな土蜘蛛が住んでいた。
それを見て、歓声を上げる弟。
少年は、優しく笑う。
空を覆う黒雲に、気付かずに。
もう少し、もうすこしと、少年たちは蜘蛛を捕らえていく。
その内に、雨が降りだした。
バチバチと音を立てるほどに強く。
鬼灯の頬にも、雨は叩きつけられていた。
田圃に水を張らない季節だった。
貯水池の水嵩は多い。
落ちて来る分は、この池に集まってくる。
水は、みるみる増えた。
「帰ろう、風」
増水に恐れを抱いたであろう少年が、弟の手を引いた。
柵の裂け目まで、少年たちは走る。
増えて溢れかける水を蹴散らしながら。
ずるりと、足が滑る。
バランスが取れず、二人は水に落ちる。
「危ない!」
鬼灯は、慌てて柵を乗り越える。
濁った水面に少年を探すが、姿は見えなかった。
自力で岸まで這い上がった、ずぶぬれの兄以外は。
雷鳴が轟く。
「風、どこだよ、風!」
少年が、悲鳴をあげていた。
感情の波が、生まれる。
押し寄せる波頭が、鬼灯に迫る。
触れる。
(まずい、来る…!)
瞬間、鬼灯の頭の中で音がする。
自分と、他者の境界線弾けるような感覚。
錯覚。
自分の輪郭さえ曖昧になる。
ぼくは、誰だ?
助けてほしいのは、誰だ?
僕は、ボクは…
鬼灯は、混線しながらも考え続ける。
自分を形作るものを、思考を、見失わないように。
まとまらない思考。
混乱の隙を突くように、聞こえた声は。
「にいちゃ!」
鬼灯は顔を上げる。
背後の池の中には、弟のあがく姿が見えた。
背後で、ずぶずぶ、ずぶずぶと、黒い黒い水に沈みながら。
「…風」
水を吸った衣服の重みと、疲労で体が、動かない。
必死で手を伸ばしても、届かない。
弟の手が沈んでいく。
水中に吸い込まれていく。
「かぜぇ!」
鬼灯は、弟の手を、掴めなかった。
項垂れた頭の中に響く声。
本当に届かなかったのか。
掴めば、自分も引き込まれてしまうと、怖くなったのではないのか。
もう、恐い思いをしたくないだけではないのか。
『見捨てたんだろう』
冷静な自分が、酷薄にささやく。
「違う…」
こんなのは僕じゃない。
じゃあ、僕は、何だ?
僕は、ボクは、ぼくは。
思考が、回る。
加速する。
母との約束を、守れなかった。
弟を、見殺しにしてしまった。
二つの恐怖と喪失感が渦巻く。
胸に開いた、穴への恐怖感。
恐慌状態に陥る。
「嘘だ、嘘だ、ウソだ!!」
叫ぶ、叫ぶ。
恐怖に、叫ぶ。
喉が、とても熱かった。
早く、早く。
行かなくては。
弟は、自分よりも小さくて、脆弱で、守らなければならないものだ。
ものだった。
兄の自分は、弟を、助けなければいけない。
守らなくてはいけない。
「ぼくは、『にいちゃん』なんだ!」
フェンスを掴み、伸ばせるだけ手を伸ばし、闇の中のに沈む弟の手を掴もうとする。
闇が、弟を形作って、鬼灯へと手を伸ばす。
鬼灯の顔に、安堵の色が見えた。
やり直せる。
もう少し、もう少しで手が届く。
もう少しで、弟は助かる。
助けることが出来る。
今度は、出来るはずだ。
しかし、その手は阻まれる。
背後から伸びた雪のように白い手によって掴まれて。