倦怠感が、心身を苛んでいる。
昨夜は上手く眠る事が出来なかったらしい。
放課後の一人きりの部室、ベンチに腰かけた哉太は、抑えきれない欠伸をかみ殺した。
自分ではそれなりに太い神経をしていると思っていたが、その神経ですら太刀打ちできなかった。

鮮明な恐怖感とは裏腹に、昨日の宵の怪事の輪郭はどこか朧で。
ぼんやりと疲れた頭が、思う。

(あれは、現実だったのか)

目にした光景を脳裏に描く度、いくども同じ疑問が浮かぶ。

冷えた晩秋の空気が、頬に冷たかった。
隣家の笹の葉が、戦いでいた。
コートに流れる黒髪の滝は、蛍光灯の白い光に照らされて。
ずらされた大きなマスクから、覗く色は紅。
赤々と燃える色の唇が蠢いて、そして、女は哉太に問うた。

『私って綺麗?』

一晩経っても現実感を失わない声を振り払うように、勢いよく制服を脱ぎ放つ。
一人きりと言うシチュエーションが芽吹いてしまった恐怖を加速させるのは容易い。

部活動の開始とともに活気付き始めた、自分のいるべき場所であるグラウンドから一人、離れていると、それは尚更顕著で。
思考は止め処無く続き、終わりを見る事は無い。

しかし、昨夜の出来事をいくどもいくども考えてしまう理由が、恐怖だけではない事に、哉太自身、気付いている。
恐怖からの夢であれとの願望と、興味本位の好奇心。
相反する二つは哉太の手を取り、己が膝下に引き寄せんがためにその身の内でせめぎ合っているのだ。

昨日、鬼灯と名乗った少年の話が終った直後、哉太を手中に収めたのは確かに恐怖だった。

訳の分からない怪事。
廃れた神社の境内。
突如現れた龍神を自称する青年。
笑みを浮かべた闇色の少年。
そして、口裂け女の正体。

鬼灯が語り終えた瞬間、己を取り巻いていた全てに恐怖が生まれた。
何故だか理由も分らないまま、怖くて。
ただ、怖くて。

気付いたら、自宅のベットで朝を迎えていた。

あれは、夢。
ただの、悪夢。
それが現実的な判断のはずだ。

その判断を裏打ちしたくて、夢の妙な現実感を否定したくて、哉太は夏澄を探したが、見つからない。

夢の中で、彼女は急に姿を消していた。
あれは、現実の話ではないはずだ。
けれど。

より、頭は混乱する。

あの現実感は。
頭を離れない言葉は。

「『貴方は口裂け女の正体を知っている』か…」

平坦な発音で呟いた声は、放課後の喧騒に溶けて消える。
鬼灯の声を思い出すたび、脳裏でいくどとなく警鐘が響く。

口裂け女に関わるな。
思い出すな、と。

(思い出すな?)

自分の思考に、舌打ちが出る。
どうやら夢か現かも分からない少年に、だいぶ毒されているらしい。

(おれは、知らない)

知らないはずだ。
あんなモノの正体など。
知らないのなら、学ぶことはあっても思い出す事は無いはずなのに。

自分は知らないはずなのに。
知っているわけがないのに。

どうして。
どうして、見えない傷が疼く様な気がしているのだろうか。

がらりと、部室のドアが開かれる。
夕日とは言え、光の中に立つ人物が誰であるか哉太には判別できなかった。

誰だ。
誰なんだ。
まさか―――

嫌な予感が全身を巡る。
緊張感が、哉太を支配した。

「あれ、哉太おまえここにいたのか」

人影が頓狂な声をあげる。

途端、哉太の中から空気が抜けた。
強張っていた肩が落ちる。
張りつめた糸が、弛緩した。

「…隼先輩だったんですね。こんな時間に何か用事ですか?」

部活はどうしたんですかと言う意味を込めて言えば、あー、と言葉を詰まらせた。

「ちょっと転んじまってさ」

隼ががりがりと頭を掻くのが陰で分かる。

「保健室行きがてら、おまえ探そうと思って」

遠くから、チャキチャキ走れとガラガラに濁った怒声が聞こえた。
今度の標的は昴か、と苦笑交じりの隼の呟きがその後を追って鼓膜を揺らす。

「昨日、怪談話で恐がらせたせいで哉太が来ないんじゃないか、って怒りかってんだ。
 すべては昨日の話をカッカサマにチクった島路のせいだ。すべては島路の…」
「はーやーとー!油売ってる暇なんか無いだろうが!」

恨み言を遮ったカッカサマこと笠間老コーチの怒声に、影がひっと肩を竦める。

「それじゃ、おれはそろそろ保健室行くわ。
 哉太も早くグラウンド行ってやってくれよ、おれと昴のために」

言い置いて隼は部室を出て行った。
走る足音がだんだんと遠退いて行く。
と、再び足音が戻って来たかと思えば、部室の戸が乱暴に開かれた。

「言い忘れてた!昴の奴から伝言」

人をからかう事が大好きな先輩は、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。

「『怪談話した場所には幽霊妖怪の類が集まる』だってさ」
「…嫌な情報どうも。
 あ、そう言えば隼先輩、今日は夏澄、来てます?」
「…夏澄?」

隼は不審そうに、悲しそうに眉を寄せた。

「来るわけ、無いだろ」

再びドアが閉まって、駆け足で去って行く足音がする。
先ほどと同じ状況のはずなのに、ごくりと唾液を嚥下する音が耳に響く。

「…どう言う事だ?」

呟いてみるが、返答はあるわけが無い。
この場所にいるのは、自分一人だけなのだから。

ガタリと部室の隅で物音が起こる。
哉太は肩を揺らした。

何もいない。
ここにいるのは、自分一人なのだ。

独りだけれど。
独りだからこそ。

(―――恐い)

馴染んだはずのこの場所が、怖いのだ。
暮れ行く空を切り取った窓が。
片隅の運動靴が。

閉まらないロッカーの戸から覗く暗闇に、何かが居る様な錯覚を覚えて、肌が泡立つ。
冷えた汗が伝う。
昨日の怪談話が、この場所に染み付いて、焼き付いて、何かを引き寄せるような錯覚。

今度は背後に人の気配を感じて振り向いた。
人影は、無い。

あったのは、不自然な白菊。
コンクリートの床から伸びて、風もないのにゆらゆらとその花を揺らしていた。

不快感が、不安感が、哉太を襲った。
嫌な予感に包まれて、思い出す音は一つだけ。

恐い、怖い、こわい、コワイ。

菊は、弔いの花だ。
居なくなった誰かを悼む、悲しみの花だ。

(夏澄が居ない)

哉太は、いても立っても居られなくなった。
隼同様、部室を飛び出し、グラウンドに、叫ぶ。

「先生、ちょっと今日は休みます!」
「お、おい哉太!大会前に何を言って…」

鬼気迫る哉太の声に珍しく狼狽した笠間の声さえ、耳に届かない。

教室、トイレ、図書室と探し回る。

隼は、夏澄は来ないと言う。
哉太自身、夏澄を見たのは昨日の晩が最後だった。

焦燥感の波に飲まれて、転がされ。
そして、不安へと落ちていく。

居ない。
何処にも居ない。

――何処にいる?

夏澄が何処にも居ない。
哉太の友人の一人が消えた。
どう言う事だ?

焦って、焦って。
でも、思う様に足は進まなくて。

(…違う、疲れて重いんじゃ、無い)

気付いた瞬間、喉が鳴った。

足が進んでいない訳ではない。
そもそも、この場所は、学校ではない。
これは。
この場所の雰囲気は。

昨夜見た、もう一つの、世界。

(隠だ…!)

恐怖に心拍数が上がる。
浅い呼吸は脳に酸素を運ぶことは無い。
過敏になった聴覚が、聞き覚えの無い黒電話の様な音を拾った。

発信源は、哉太の左ポケット。
そこには、携帯電話が入っているはずだ。

引き寄せられる様に、左手がポケットに潜り込む。
持ち上げると画面の文字が、ちらり、視界に映る。

着信中と村岡夏澄の名前だった。

そして、哉太は再びの違和感に気付く。

どうして自分は、夏澄に携帯電話で連絡を取ろうと思わなかったのだろうか。

カタカタと震える、携帯を握りしめた手を耳元まで上げる。
ゆっくりと、それが起爆スイッチでもあるかのように、慎重な手つきで通話ボタンを押す。

電波が、繋がった瞬間、空気が粘度を増した。

取り巻く空気が、足に、手に、纏わり付いて重い。

ふわりと、金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。
ぐらつく足は、すでに歩みを止めてしまった。
根が生えた様に、ぴたりと地面に張り付いている。

(昨日と同じだ)

哉太は、ごくりと唾液を嚥下する。
喉を湿らせ、古くからの友人の名前を呼気に乗せる。

「―――夏澄?」

しかし、答えた声は。

「・・・ねぇ」

夏澄ではない女の。

「―――私って」

地を這うような、女の声だった。

体の芯が戦慄する。
五指全てが携帯電話に張り付く。
手の中の忌まわしい通信機器を投げ出したいのに、体は目を見開いたまま浅く呼吸を繰り返すだけで動かない。

ああ、この声は、台詞は。

耳が痛くなるほどの沈黙に、息を吐く短い音だけが響く。
無音の世界に金属音が混じる頃、女の声が紡ぐ。

聞きたくない。
しかし、聞こえてしまう。

「綺麗?」

聞いた刹那、視界が暗転した。
視覚神経が断絶したかの様にブツンと明かりも色も、消えた。

数秒の漆黒の後、チカリと明かりが灯ったことで外的要因による闇だと哉太は知った。
チカリ、チカリと一定速度で瞬いて。
哉太は目を細めた。
点滅を止めた強い光に、感光帯が追い付かない。

ゆっくりと、ぼんやりと、世界が視えてくる。

光の正体は、街灯だった。

見回せば、其処は四辻。
目の前には、俯く女。
携帯電話を片手に、夏澄が立っていた。

哉太の体の発する音以外の無い静寂に、微かな音が混じる。
その音は、携帯電話から、周囲の闇から、染みるように哉太の鼓膜を震わせた。

「――ねぇ、答えてよ」

それは、女の声だった。

哉太は、異常な喉の渇きを覚える。
俯いていた夏澄の顔が、ゆっくりと哉太の方を向く。

交わった視線。
その眼はただ、ぼんやりと空ろな色をしていた。
なにも映さないのに、何かを見ているその黒に、哉太の背筋は怖気立った。

この目は、知っている。
白い白い病室で、半月ぶりに会った日に見た目だ。

ふざけあって、階段から足を滑らせた。
覚えている。

血まみれの夏澄の顔、くにゃりと嫌な方向に曲がる足。
それは哉太の目の前で起きた。
救急車の音を最後に、記憶は断裂する。

次に浮かんだ場面は、病院だった。

リノリュウムの床には、元は鏡だったガラスの破片が散乱している。
もう、走れないだろうと言われた足は、ギブスに包まれて。
白い頬に貼られたガーゼが、痛々しかった。

そして、窓の外から哉太へ視線を移した夏澄は、目をぎらりと光らせて聞くのだ。

「『どうして、そんな顔するの!?』」

街灯の下で、白いベッドの上で、夏澄が叫ぶ。
過去と現在がリンクする。
二つの映像が、交錯し、頭が混乱した。

そうして、目の前の夏澄のマスクがはらりと落ちるのだ。
そこには、痛々しいほどに裂けた口の端を縫った跡。

ぴりぴり、プチプチと裂けていく。

『口裂け女は、長い髪をして、マスクをしている』

この言葉を、夕暮れの部室で聞いた瞬間、過った映像。
その瞬間、哉太は思ったのだ。

『夏澄』は『口裂け女』のようだった、と。

「ッわぁあぁああああああああああ!」

哉太の喉を、悲鳴が駆け昇る。
その様を見て、夏澄は、ゆっくりと血の流れる口角を上げた。
アイボリーのコートに、紅が滲んでいく。

ああそうだ、と哉太はまた思い出す。
一度掘り当てられた記憶は芋づる式に顔を出して。

道路で、白い線香の煙が。
教室の机に、菊の花が揺れる。

「ねぇ、哉太」

夏澄の目が、ゆるりと細くなる。

「あんたが私をこんなにしたんだよ。
 責任取って、一緒にいってくれるでしょう?」

哉太の左手に、ひやりとした感触。
足は病院の屋上のタイルを踏みしめている。
目の前には青く澄んだ空。
眼下には、車が行きかう十字路。

彼女は走った。
哉太の手を握り締めたままで。

そして、哉太にも浮遊感が。

「――もう、充分だろうが」

声に呼応するように、突風が闇夜に吹き荒れた。

頬を打つ姿の見えない砂埃に、哉太は顔を覆った。
瞬間、握りしめていた手が離れる。

荒れ狂う、風。
舞い上がる、土。
叩きつけられる、砂。

重い空気を粉々に粉砕する、強風に、世界が清浄化された。
空が、眼下の十字路が消し飛んだ。
ゆっくりと、闇に落ちた幻想の屋上は凪いで行く。
そして。

「ようやくあなたの『虚』のことを思い出して下さいましたね」

哉太はゆっくりと目を開いた。

足元には、屋根があった。
蹴り出したはずの、足場があった。

顔を上げれば、悠然と立っている龍神と学ラン姿の少年。
黒い少年は、昨夜同様、柔らかく微笑みを浮かべている。

「昨晩に続いて、また驚かせてしまいましたね。すみません。
 貴方の作った鬼は『口裂け女』、虚は『夏澄』さんです。
 思い出して下さってよかった」
「この愚図が甘っちょろい思考してなきゃ、いつでも狩れたんだがな。
 でも、まぁ、これでやっと膳が整った」

おれは腹が減っているんだ。

風に手足を取られ、起き上がろうともがく『夏澄』を見下ろしたまま、長身の男は満足げに鼻を鳴らす。
龍神の周り、ざわり、ざわりと、闘気に闇がさんざめく。
ギラリと、龍のハシバミ色の目が底光っていた。

哉太はへたりと尻もちをついた。
そして、顔を上げる事無く、ゆっくりと首を横に振る。

「…ダメだ」
「あぁ?なんでだよ」

龍牙、訝しげに眉を寄せた。

哉太は、思いだしてしまったのだ。

凍らせた現実が、溶け出して、流れだして。
記憶の淵から引き揚げた事実の重さに、心が悲鳴を上げている。
身体の真ん中に重りを仕込まれたかのように、重く痛む絶望。

「…夏澄は、確かに死んだかもしれない」

何時も隣に居たのに。
これからも居るはずだったのに。

感情が、整理できない。
頭の中がぐちゃぐちゃだと思った。

「でも、でも、ここでなら、まだ!
 まだ、夏澄は生きている!」

わん、と頭の割れるような音が闇に木霊する。
龍牙が頭を抱えると同時に、『夏澄』が大きく暴れて片腕の拘束が解けた。

龍神が、忌々しそうに舌を打つ。

「なにしやがる、くそガキ!」
「うるさい!」

そう叫ぶと、哉太は握りしめた拳を、大地へと振り下ろす。

病院の屋上のタイルが、歪む。
軋む。
そして、ガラガラと崩落する。
『夏澄』と龍神たちを分断するように。

「おれは、ここに居たい。おれは、おれには…!」
「現実なんて必要無い、ですか?」

先出しされた言葉。

俯いた視界に、白いスニーカーが映りこむ。
顔を上げれば、柔らかくたわんだ黒が、哉太を見下ろしていた。

「あなたにとって、随分と『夏澄さん』は大切な人だったんですね。
 だったら、尚更、この隠を、あなたの創った世界を否定しなければいけません」
「…え?」
「鬼は力を求めて現に現れ、現の存在を喰らいます。
 そのためには、攻撃されにくい器が必要なんです。
 だから、現に染みだした隠は、人の心にあいた隙間、虚に入り込む。
 そうして、その虚の形を利用した鬼となって、現で狩りをする」

ぐらり、と青空が歪んだ気がした。

そんな悲しい存在にしたくは無いでしょう?
鬼灯が寂しそうに笑う。

「だって、『香澄』さんは『口裂け女』では無いんだから」

その鬼灯の言葉が終るか終らないかのタイミングで、起こる突風。
龍神が、黒々と口を開けた裂け目を超えて、鬼灯に躍りかかった『夏澄』を吹き飛ばしたのだ。

咄嗟に攻撃を上手く往なしたようで、しかし、龍牙の小手には見れば切れ目が走っている。

「やるじゃねェか、口デカ女。だが、まだまだ甘ェ。
 この龍神、龍牙様には、通用しねェぜ」

立ち上がる『夏澄』の眼には龍牙に対する敵意が赤々と燃えている。

「…殺してやる」
「おお、殺れるもんならやって見やがれってんだ。
 近頃生まれた様な下級の鬼とおれじゃあ、比較にもならねェってことを、思い知らせてやる」

そう言うと、空を払う様な動作を一つ。
ギュンと虚空が鳴いて、『夏澄』の頬に一筋の朱が走った。

「これは、この小手裂きやがったことへの返礼だ」

そして、と龍牙はもう一度、腕を振りぬく。
だが、二つ目の風は、『夏澄』に届く前に消える。
立ち上がった哉太が手を伸べて、龍牙の風を掴んでいた。

忌々しげに眉をよせ、イライラと龍は鬼灯を振り返る。

「おい、青二才。
 あのガキ連れて現に還りたいなら、さっさとしろ。
 このまま続けるつもりなら、うっかり鬼と一緒にやっちまいそうだ」
「その場合、うっかりじゃなくて故意だよ。
 里中さん、そう言う事なので、そこを退いて下さい」
「いやだ!」

哉太の返答に、危ない事はやりたくなかったんだけどなぁ、と鬼灯はこめかみを押さえた。
そして、溜息を吐いてぴたりと短刀を哉太に向ける。

「燃え盛れ」
「う、わ」

ゴウと言う音と共に、突如地面から噴き上がった青い炎にたじろいで、哉太はよろめいた。
炎に包まれながら、刀の切っ先が『夏澄』に向けられるのを見る。

「口裂け女。
 1979年ごろ全国で広まった現代妖怪で、恐怖で縛りつけられている縛念霊と言われている。
 大きく裂けた口をマスクで隠し、長い髪とロングコートが特徴。
 100メートルを3秒で走り抜ける。
 『私、奇麗?』の問いに『綺麗じゃない』と答えるとその場で斬り殺される。
 『綺麗』と答えても、家までついてきて玄関口で殺される。
 得物は…ナイフやはさみなどの身近な刃物」

鬼灯が言葉を紡ぎ始めた時から、苦悶の声とともに、変化は起きた。
ミチミチと、夏澄のもう片方の頬が裂ける。
パジャマがロングコートに変わる。
手には、大きなはさみが握られていた。

「ポマードが嫌いな理由は、歯医者での治療中、その臭いに思わず顔をそむけて口が裂けたため。
 もしくは、美容整形後の傷がポマードで爛れ、裂けたためと言われている」

膝を着いた『口裂け女』は、痛みからか、顔を覆った指の隙間から、ギラリと目を剥いた。

「―――小僧、殺してやる」
「おおっと、そうは問屋がおろさねェ。
 こんなんでも、死なれちゃ困るもんでな。
 お前の相手はこのおれ様だ、言っただろ」

戦いを前に、龍神の声は静かに凪いでいく。
荒れ狂う風の荒々しさは姿を消した。

しかし、攻撃的な気配は消えない。
謂わば、嵐の前の静けさだった。

「龍牙」
「わかってらァ」

龍が腕を振り抜いた。
長い袂が、翻る。
びゅんびゅんと唸る風が、龍牙たちの周囲を取り巻いた。

「だが、あちらさんは待てないみたいだぜ?」

振り向いたその顔は、唇の紅が、酷薄につり上がっていた。

両の間に、緊張感が満ちる。
先に痺れを切らしたのは、口裂け女だった。

打ちかかる、その足は速い。
しかし、龍神は舞を舞う様な軽やかさで、その切っ先を避けてみせた。

「――つい、熱い、あつい、あつい」

哉太は、炎を纏って、熱さに苦悶の叫びを上げながら床を転げまわっていた。

「里中さん」

鬼灯の呼びかけに、哉太は苦痛に歪んだ顔を上げる。

「その炎、本当に熱いですか?」

その声を聞いた瞬間、哉太は気付く。
こんなにも炎に包まれているのに、痛みも、熱さも存在しない事に。

気付くと同時、炎が消える。
呆気にとられる哉太に、鬼灯は続けた。

「ここは、あなたの思考によって構築されている。
 すべてはあなたの事実で、真実です。
 でも、ここから鬼が生まれてしまった以上、僕はこの世界を変えなければいけない。
 だから、何があってもあなたの『口裂け女』は倒します。
 でも、『夏澄』さんまで消し去るつもりはないんです」

協力していただけますね?

哉太は、顔をあげた。
鬼灯は柔らかく笑う。

「鬼は騙し絵、現の悪夢。
 この世界を、あなたの隠を否定してください。
 あなたの『夏澄』さんはもういない。
 『口裂け女』は『夏澄』さんでは無いのですから」

人は、どんなに願っても、夢の中では生きられないんです。

鬼灯は、悲しく笑った。

耳から、柔らかな声が流れ込む。

「『ここはあなたの、自由になる場所だ』」

宵闇の静寂に響く、背中を押すような柔らかな声に呼応して、唇が震える。
哉太は、微かに、呟いた。

「おまえは、違う」

荒れ狂う風の中、髪を振り乱し、ハサミを振り回していた女が、びくりと肩を揺らす。
風は収めないまま冷めた目の龍神がゆっくりと哉太を振り返った。

哉太は目を閉じる。
彼女との、あの日を、思い出して。

――さわさわと、風が夏澄の長い髪をなぶっていた。

『跡、残っちゃうんだってさ。
 自分の不注意でした怪我とは言え、嫌んなちゃうよね。
 もう走れもしないらしいし、本当、嫌んなっちゃうなぁ』

語尾が風に滲んでいた。
そして、マスクを取って振り返りながら。

『こんなんでも、私、綺麗かなぁ』

儚く笑っていた。
その問いかけに、哉太は答えられなかった。

そして、翌日。
彼女の机と、ビルを見上げる道に、白い菊の花が揺れていた。

もしも、もしもあの時、『それでも、綺麗だよ』と言えたなら、何か変わっていただろうか。

「長岡夏澄は」

どうしようもない、もしもを振り切るように目を開け、もう一度、哉太は虚の名前を呼んだ。

金木犀の香りが、染みてくる。
高校に入って、夏澄がつけ始めた香水の香りだった。

「優しい奴だった。
 あいつは、化け物なんかじゃない。
 自分の恨みだけで、誰かを無差別に刃物で切り裂く、口裂け女の様な奴じゃないんだ!」

言い終わると、世界が崩壊した。

屋上のタイルのが崩れ落ちる。
がらがら、がらがらと壊れてゆく哉太の世界。
ガラガラ、ガラガラ崩れ落ちて。
『口裂け女』が、苦痛に顔を覆う。

すべてが消える刹那、鬼灯の声が闇を裂く。

「鬼は虚が外へ去ね!」

鬼灯は、口裂け女に長脇差を突き立てた。

「ぎゃぁあああああぁあぁっぁ!」

絹を裂くような苦鳴。
刀の裂いた傷口は、ぐんぐんと広がって、伸びていく。

べりべりと『夏澄』から『口裂け女』が剥がれ落ちる。
『夏澄』と『口裂け女』が分離する。

「龍牙!」
「応よ!」

風に、瓦礫が高く舞い上がる。
哉太によって創られていたすべてが、消し飛んだ。

「龍神の血肉になれること、光栄と思えよ!」

砂塵の中に、一瞬だけ、緑の鱗を光らせた、大きな龍の姿が見えた気がした。

目の端に、緑の残像。
そして、隠には、ボウと白い光が残った。

哉太は目を細め、光る姿の名を呼ぶ。

「夏澄」

消えそうな光に小さく微笑んで。

「綺麗だよ」

光は、瞬いて。
そして、闇に消えた。

金木犀の香りは、もうしない。
涙の一筋が、哉太の頬を伝って落ちて行った。

「言ったでしょう、消えたのは『口裂け女』です。
 『夏澄』さんはあなたの中にいますよ」

鬼灯の声に、振り向きもせずそうか、と答えた哉太は、俯いたままだった。
弱々しくも、それでも、笑みを浮かべて。

「おい、スカタン共。
 そろそろ戻らねェとまた要らねェモンが生まれちまうぜ。
 ここは隠だ、お前らみてェな現の奴らが長居していい場所じゃねェ」

鬼灯が答える。
背後で、あの刀が発しているだろう、オレンジの光が強さを増していく。
世界が、また、暗さを増す。

ふわりと、暖かな浮遊感が全身を包み込んだ。
まぶたが、重く落ちて行く。
傾いだ体を、支える手があった。

「なぁ」

哉太は好奇心に任せて、涼やかな香りの持ち主に、問うてみる。

「これは、夢なのか?」

はい、そしていいえ、と鬼灯は答えた。

「ここは、隠、幻の箱庭。
 夢か現実か、その答えを知っているのはあなただけです。
 『夏澄』さんは確かに存在した。
 でも僕らや口裂け女は…、どうでしょうね?」
「曖昧な答えだな。
 …気になって、眠れなくなりそうだ」
「大丈夫、あなたはすぐに忘れますよ」

ふふふと柔らかく笑った夢の住人の答えに、何か言葉を紡ぐ暇も無く、哉太はゆるゆると暗い闇に落ちて行った。





 * * *





鳥羽二高に続く最後の直線道路を走り抜ける人影があった。
ガチャガチャと肩に掛けたカバンの中で、缶のペンケースが奏でる音が、駅前通りを抜けていく。

音の主は、珍しく遅刻をした哉太だった。

何時眠ったかも覚えていないのに、気付けば朝。
無性に会いたくなって、朝練をすっぽかして長岡家をおとなったのが原因だ。

隣には、誰もいない。
けれど、居るような気がするのは、どこかの家の庭から風に舞う、この金木犀の香りの所為だろうか。

始業にも、遅刻すれすれ。
遅刻は、職員室で厳重注意だ。
怒られるのは部活だけで十分と、学校までの道をひた走る。

その時追い抜いた、のんびりと歩いていた長い髪のセーラー服に見覚えがある気がして、哉太は振り返る。
けれど、其処にいたのは知らない顔。

人差し指で頬を掻き、少女に照れて笑いかけた。

少女は心底、不審そうな顔をする。

「哉太、急げー!」

閉まりかけた校門の内から、誰かが哉太を呼んでいた。
この声は、きっと昴だ。

昨日の連続であるはずの今日が、あまりにも自然で、不思議に思ったが、哉太は誰にも確かめる気は無かった。

もちろん、夢か現か分からない昨夜の話も、誰にも話すつもりはない。
よく考えると、人に教えるにはこそばゆい夢だったから。

(話したところで、ただの夢だと笑い飛ばされるだけだろうしな)

爽やかな秋晴れの朝だった。
10月の晴天の下、哉太はまた走り出す。
隣家の高い楠の上、眼鏡をかけた黒髪の少年と、ハシバミ色の目をした龍神が、見送っているとも知らずに。


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