その女は、通りに立っている。
すらりと高い長身に、さらりと流れる黒い髪。
大きなマスクで顔の半分を覆い隠して、街灯の白い光の輪に中に、立っている。

そうして、出会った人に問うのだ。

「ねぇ、私って、綺麗?」




   口裂け女





里中哉太は、深く深くため息を吐いた。

すぐ隣を歩く友人に、呆れかえっているのだ。
名前は、村岡夏澄。
哉太と同じ、鳥羽高校陸上部に所属している。

宵の薄闇の中で、夏澄の握り締められた拳がワナワナと震えているが、決して怒っているわけではない。

彼女は、目に見えて怯えていた。

「哉太、もうすぐ、もうすぐ。
 昨日、く、口裂け女が出た十字路だよ」

ぎしぎしと言う音が聞こえてきそうなほどにぎこちない動きで、夏澄が哉太に向き直った。
額には、十月だと言うのに玉の汗が浮いている。
きっと手の平も汗に濡れ、指先は凍り付く程に冷たいだろう。

恐怖から生まれる唇の戦慄きが抑えられないのか、語句は不自然に途切れていた。

哉太は再びため息を漏らすと、もう何度目になるかも分からない持論を述べる。

「あのな、夏澄。お化けなんてみーんな嘘っぱちだ。
 あんまりにもお前が怖がるから、先輩達がからかってきただけだって」
「おばけじゃない!口裂け女は妖怪だよ、都市伝説だよ!!」
「あのさ、それって一体、何が違うんだ?」

哉太は、こめかみを押さえた。

最近、ここ鳥羽地区周辺では、奇妙なマスクの女が目撃されている。
先輩の一人が、このマスクの女を口裂け女であると断定した。
そして、単なる噂であるはずのそれを、不自然なほどにおどろおどろしく、周囲の反応を楽しみながら語ったのだ。

(馬鹿らしい)

哉太は再び溜息をついた。
幽霊否定論者である哉太は仮想生物を本気で恐れる心情が理解できない。

オカルト好きの兄に付き合って、心霊写真特集や霊媒特集などの番組を見る事もあるが、恐怖の前に呆れが先にたってしまう。
建物が軋めば幽霊の鳴らすラップ音、カメラに丸い光の影が映れば人魂だなどと、全てを目に見えない何かに結び付けようとするからだ。

事故の頻発する道は、客観的に見れば、なだらかな下り坂や見通しの悪いだけの場所。
人の苦悶の声の声が聞こえるというトンネルは、ただ風が吹き抜けるだけ。
何も居ないはずの場所で聞こえる声は、思い込みからのただの空耳でしかない。

人は死んだらそれまでだし、妖怪の仕業と言われる諸々はただの自然現象でしかない。
そう、思うからだ。

そもそも、どうして誰かが『ここには見えないものが居る』と言っただけで、自分には見えもしないものを信じてしまうのかが分からない。

哉太は自分の目で見たもの以外信じていないのだ。

夕闇に灯る街灯がちかちかと瞬いた。
引き寄せられるように小さな羽虫が飛んでいく。
濃紺に変わりかけた空は、きらめく星を抱いている。

何時もと何ら変わりの無い夜の入り口だ。

道沿いの家々から流れてきた夕食の香りに、哉太の腹の虫が鳴く。
今日は、一緒に帰ってくれと怖がりな友人に泣きつかれた所為で、部活後のパンを食べていない事を思い出した。

「夏澄、いい加減きりきり歩けよ。
 部活の後で腹減ってるから早く帰りたいんだ。
 おれが前歩けばそれでいいだろ」
「わかった。でもぜっったい、何が居ても先に逃げないで!
 口裂け女は100メートル3秒で走るって言うんだ、いくら哉太でも追いつかれるよ!」
「分かった分かった」

縋る様に念を押した夏澄にお座成りな返事を返し、哉太は生垣の角を曲がった。

自宅までの道のりは半分ほど消化している。
家までの距離は1キロほどだ。
けれど走って帰るほど燃料は残っていないから、問題の十字路を越えたらコンビニで何か買って腹を塞ごうか。

哉太の思考は既に食べ物の事に移っていた。
そんな哉太の歩みが止まったのは、斜めに掛けていた白地に青のロゴが描かれたスポーツバッグを引かれたからだ。

引いたのは勿論、すぐ後ろを歩いていた夏澄で、哉太は不快感を隠しもせずに振り返った。
いい加減にしろと怒鳴り付けようとして、言葉に詰まる。

はくはくと開閉される夏澄の口からは荒い息。
見開かれた目は60メートル程先にある口裂け女が出ると言う十字路を見つめたまま恐怖に揺れていたからだ。

「…どうしたんだよ」

問えばゆっくりと視線が動いて哉太を捕らえる。
言葉も無いまま震える指先に誘われ、視界におさめるのは四辻。
暗闇の落ちたその場所は、切れた街灯の所為で見通しが効かなかった。
それでも。

「あそこ、街灯の下」

途切れがちな、恐怖の声に呼応するように、どくり、どくりと鼓膜が生き物に変わったように胎動する。

怖い訳ではない。
お化けも、幽霊もそんなものは居ない。
この目で見たものしか信じない。
幽霊なんてただの眉唾、そんなものは存在しない。

存在しない。
在り得ない。

無意識に唱えながら、哉太はゆっくりと視線を動かした。

言いようの無い緊張感に、口の中が粘つく。
道の横合いの民家の庭から、電柱を隠すように生える笹がさわさわと揺れる。

ちかちかと不規則な瞬きを繰り返す蛍光灯。
その中には、人影が立っている。

哉太の中で、恐怖が膨張していた。

こんな時間に、こんな所に。
あの人は何をしているのだろう。

もしかして、あれは。
あれは、本当に―――

ありえない、と頭を振って追い出した妄想。
それを、引き取るのは。

「―――口裂け、女だ」

夏澄の震える小さな声。
同じように震える友人の指先が、白い光に照らされた女を示した。

長い黒髪をだらりと垂らし、アイボリーのロングコートを着て、街灯の光の中で俯いている。

先輩達の話していた、口裂け女の噂話が頭を過ぎる。
街灯の下の、長い髪の長身。
俯いた顔は、垂れる髪に隠されて見えない。

(違う、考えすぎだ)

そう思うのに、思考が、恐怖が止まらない。
ぎしぎしと音を立てながら、恐れが加速する。
背後の夏澄も動く気配が無く、ただ荒い息が吐き出される音がするだけだった。

「――ねぇ」

立ち尽くす二人に、声が掛けられる。
一瞬にして、身体中が総毛立った。
その声は、アイボリーのコートの内から溢れた、地を這うように届く女の声。

同時に、何処かの家の庭に生えているのだろう、金木犀の香りが微かに鼻先を掠める。
神経が過敏になっている。
自分が肺の底まで空気を吸い込んだ音ですら、過敏になった耳にはやけに大きく聞こえた。

長い髪が、さらさらと黒い滝のように流れる。
女は、その顔を緩慢な動作で起こし、やがて二人に向き直った。

その顔は血の気を失った様に、テラリと青白く宵の中に浮かび上がる。
しかし、それ以上に哉太の目を引いたのは、顔半分を覆い隠した白いマスク。

「ねぇ、君達」

大きなマスクに指が掛かる。

脳裏に、部活後の部室が鮮明に現れた。

『口裂け女が出るだぁ?
 じゃあな、もし会ったら確かめてみろ。
 口裂け女ってのはな、無駄に大きなマスクを引き下ろしながら、こう言うんだ』

笑いを含んだ先輩の声が耳を離れない。

その先を思い出したくない。

嘆願にも似た強さで、強く思う。
それでも、頭は言う事を聞かない。
記憶は、その続きを再生する。

「『私って、綺麗?』」

二つの声が、頭の中で重なった。

「っ、うわぁあぁあああぁ!」

夏澄の叫びが、鳥羽の町に響き渡る様に思えた。
同時に、悲鳴はどろりと凝って二人の周りを取り巻いているようにも感じられる。
それでも、錯乱しかけた哉太の意識を引き戻すには十分だった。

「走るぞ!」

呆ける夏澄の冷えた手を掴み、辻に背を向け走り出す。
瞬間、哉太の視界から、明かりと言う明かりが消え去った。

闇が、濃度を増していく。

何処に逃げるかなどは考えていない。
ここがが何処であるかも分からなくなりそうな混乱に、呑まれていく。
ただただ、あの黒髪の女から離れたかった。

足が、鉛を仕込まれたように重い。
恐怖に引きつれる喉が、呼吸を浅くする。
部活柄走り慣れているはずなのに、自分の身体とは思えなかった。

耳元で、風を切る音がする。
何時もと変わらないはずの事。
けれど、何かが違う。

金木犀の香りが、濃くなる。
哉太の中に違和感が渦巻いた。

夏澄の冷えた手を握っていた手の中には、なんの感覚も残っていない。

(なんだ?)

そう思った瞬間、膝から力が抜けおちた。
哉太はがくりと失速し、腹ばいにアスファルトに倒れこむ。

痛みに呻く間も無く、夜の静寂が恐れとなって染みてくる。
自分の身体が発する音以外が、聞こえない。

緊張感からか、息が上がる。

「ねぇ」

暗い暗い世界、視界。
振り返れば、白い歯と、赤い唇がそこにある。
解っている。
知っている。

それでも哉太は、惹かれるように上半身を捻って、振り返った。

其処には、大きく開かれた口が。
笑う、口が。
マスクから現れた、口が。
赤い赤い、耳まで裂けた大きな口が、露わで。

「ねェ、私って、奇麗?」

声が。

『ま、質問されたが最後、何と答えても殺されちまうってのがこの怪談の恐いところなんだけどな』

恐怖で、脳裏が白く暗む。

いやだ、いやだ、いやだ――――

「灯れ、彼岸の炎。
 ウツツの影をナバリへ誘え」

女の背後、漆黒に呑まれた四辻で、声が起こった。

歌うような語るような、不思議な旋律に乗った少年の声。
決して大きいわけではないそれが、哉太の意識を端から撫で上げていく。

続く夕日のようなオレンジ色の淡い閃光が、温かに身を包む。
金木犀の香りの呪縛が、薄れていく。
暴走しかけた哉太の頭が今、現実に引き戻された。

哉太は膝に力を込め、立ちあがる。
闇の中に白い歯と赤い唇を浮かび上がらせて笑う、女。
あれは、自分の容姿に対する批評を求めた。

思い出せ、怪談を。
噂を。

何と言えば口裂け女は消える?
口裂け女なら、撃退方法があったはずだ。

思い出せ、苦手なもの。
口裂け女の、苦手なもの。
先輩は何と言っていた?

それは。

「ポ、ポマード!」

哉太は闇に叫んだ。

びくり、と女の肩が大きく揺れる。
ゆっくりと淡い光から哉太に再び流された視線には、恐怖の色がチラついていた。

いける、確信した哉太は大きく息を吸い込む。

「止めろ!」

何処からか制止の声が飛ぶ。
小唄を唱えた声とは別の、よく通る声。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

それを無視して三度叫んだ後には、口裂け女は霞となって消えていた。
ゆっくりと透けて、闇の中に溶けるように。

「ちっ、助けてやろうとすれば、余計な事しやがって」

悪態の後、淡いオレンジの光と、底の見えない闇が薄れた。
世界に夕闇と街灯の白い明かりが戻ってくる。

緊張の糸が切れ、ガクガクと笑った後、哉太の膝が折れた。

「怪我、ありませんか」

闇の中から、角と言う角を全て削ぎ落とした、丸い、小唄を奏でた声が言う。

その声の主が、何者であるかは分からない。
分からないのに、恐怖は沸いてはこなかった。

辻の暗がりがゆらり、動いた気がした。
哉太は目を瞬かせる。

動いた夜は、少年の形をしていた。
少年の顔はまだまだ幼い色が抜けきらず、学生服がしっくりと似合っている。
年の頃は、中学生くらいだろうか。
昔風な大きな眼鏡が印象的だった。

右手に握られているのは、鞄ではなく、精巧に出来た模造刀の柄。
しかし、その先に続く刃は、哉太には見ることが出来なかった。

「ナバリを断ち切れ、ウツツを繋げ、我ら此岸に生きる者」

声が終ると、刀は空を薙ぎ払い、鯉口に消えた。
世界に、地面に足が着いた気がした。

少年が、くるり、哉太に向き直る。
双眸に揺れるのは、柔らかな光。
学ランの少年は微笑んだまま、口を開く。

「今晩は、ウロモチさん。
 それから、ウツツに、お帰りなさい」

そう、少年は苦笑する。
哉太が口を開くよりも先に、空の果てまでも朗々と響きそうな、張りのある声がした。

「…ウロモチのくせして勝手にウツツ還りするたァ、どう言う了見だ、ガキ。
 このおれ様が直々にオニの障りを除いてやろうとしてたって言うのによ」

何処からとも無く聞こえたそれは、先ほど哉太に制止を促したもの。
声自体は耳に心地よい低音なのに、内容は不機嫌といらいらの棘に覆われて、耳に刺さる。

「まぁ、どっかの呆けた野郎が、チンタラ様子見なんぞしてたのも原因だがな」

何も聞こえないと言わんばかりに反応を示さない少年に、それとな、と声が続ける。

「そいつにゃ、全部聞こえてるみたいだぜ」

なぁ?と同意を求められ、哉太は虚空を見回してから、答える。

「…誰がどこで話しているのかは分からないけど、声は聞こえてるよ」

闇色の少年の笑顔と、何も聞こえないと言うポーズが、ガラガラと音を発てて崩れた。
左横を仰ぎ見て声を荒らげる。

「あー、もう、先に言ってよ、リョウガ!
 文句ばっかり言うけどね、オニの出方もウロの形も判らなかったんだ。
 情報もなしに手を出すなんて、どう考えても無謀じゃないか!」
「けっ、慎重もここまで行くとただの臆病でしかねェな」
「それはどうも。
 僕としては考え無しに突っ込んでく無鉄砲よりはマシじゃないかと思うよ」
「口だけは減らねェな」
「そっくりそのままお返しするよ」
「残念だったな、くーりんぐおふとやらはおれの中には無い」

ぽんぽんとテンポのいい掛け合いをする少年と声。
不審が募る。
視線を彷徨わせてみても、その声の主を哉太は見ることが出来ないのだ。

(何処に居るんだ?)

見回しても人影は無い。
それどころか、家々の閉じた窓から遠く笑い声が漏れ聞こえるだけで、周囲には猫の子一匹見当たらなかった。

まさか、幻覚を見ているのかと、不安になる。
だとすれば、サイコさんだ。
近寄らないに限る。

だが、彼の行動を狂気と言いきれないのは、何処からか聞こえる声があるから。
哉太にも聞こえ、きちんと会話も成立しているからだ。

ふと、少年の黒い目が哉太を捕らえる。
見えない何かに何事か言い返そうとしていた口を閉じて、照れた様に笑った。

「すみません、貴方は『聴こえる』だけの方なんですね」

そう言って再び切られた鯉口には、何度見ても、刃先は見えなかった。
しかし、少年はそこに刃が在るかのような動きで柄を引いて行く。
パントマイムを見ているような気分だった。

「少し、何も考えずに僕の言葉を聞いていてください」

何も無い柄の先が哉太に向けられる。

「これなる『鬼』は川の神。
 風雨を操る龍神リョウガ」

さらさらと穏やかに冷たい風が吹く。

何処からか水が生まれて、哉太に降り注ぐ。
それは、宵闇の様に冷えていた。

深く沈んだ色の空を、ぐるぐると強くなった風が舞う。
旋風は少年の傍らで渦巻いた。

風圧に耐え切れず、哉太の目蓋が降りた。
閉じる前の一瞬、風の渦の中に朧気な人の形を見たのは、気のせいだろうか。

真っ暗になった視界に、嗅覚が鋭くなったのか、清い水の匂いが鼻先を掠める。

「目を開けてください。
 彼が僕の相棒、リョウガです。
 龍の牙と書いてリョウガ。
 呼び間違えると機嫌を損なうので、気を付けて下さいね」

朗々と流れた声が風の中に混ざったのを合図に、荒れ狂っていた風は凪いでいった。
先程まで風に混じって顔を叩いていた細かな水滴が、ゆっくりと頬を伝う。

「それから僕は、『現』に仇なす『鬼』を狩る『鬼遣らい』のホオズキ。
 鬼のともしびと書いて、鬼灯です」

鬼灯の声を聞きながら、恐る恐る、哉太は目を開いた。

鬼灯が笑って、手のひらで視線を誘う。
彼が示したその場所には、先ほどまでは存在しなかった姿があった。

時代考証を間違えたとしか思えない、浅葱の袴に草履、そして覗く左手には手甲。
長い黒髪は項辺りで一つに結わえられて緑色に輝いている。

その中でも一際目を引いたのが、耳。
人間のものとは思えない、外耳の尖った奇妙な耳だった。

「とくと拝めよ、『虚持ち』」

不敵に笑う龍神と、それを目の当たりにした幽霊否定論者の間を沈黙が繋ぐ。
日常が、きしきしと音を発てている。

「龍神様なんざ、滅多に見られねェぜ」

先ほどのここからさっさと離れようと言う思考は、悲鳴になるはずだった吐息諸共、雲散霧消した。





 * * *





「どうぞ」
「どうも」

間の抜けたやり取りを交わして、哉太は差し出された缶コーヒーを受け取った。

奇妙な出来事を体験した四辻を後に、三人が一路、向かったのは神主不在の寂れた神社だった。
朱色の塗装が所々剥げた鳥居を抜けた先、入り込んだ境内の一角に腰を下ろして、両手で暖かな缶を包み込む。
冷えた夜気に晒されて、凍えていた指先がじわりと緩んだ。

哉太をこの場所に導いた黒髪の少年は、参道に佇む燈籠の台座に腰掛けて、黙ったまま空を見上げている。

三日月の昇り始める肌寒い宵の、薄汚れた神社。
参拝に来る酔狂はいない。
本社の裏手で鬱蒼と茂る木々がざわめきを奏でる音が、聴覚を支配する。
他には何も無い、静かな晩だった。

「――で?何時までそうしてるつもりだ、この表六玉」

静寂を破ったのは、鬼灯の後方、大分高い位置から降って来た横柄な声。
地上約4mはあるだろう鳥居の上に、先ほど唐突に現れた青年――龍牙が不機嫌な表情も顕わに座っていた。
今度は何で怒ってるんだよ、と問う鬼灯の柔らかい声の問いを、龍神だと言う青年は鼻を鳴らして一蹴する。

「学習しろって話だよ、阿呆」

龍は、ひらりと注連縄の巻かれた御神木であろう銀杏に飛び移った。

一束に結われた長髪が、微かに緑を含んで尾を引く。
着地した枝の上で、右だけが長い羽織の袖を乱暴に翻すと、太く張った枝にごろりと長身痩躯を横たえた。
そして、さも当然と言わんばかりの態度で一言。

「おれは寝るぜ」
「え、ちょっと待って、何言ってるんだよ龍牙」
「うるせェな、鬼が出無けりゃ起きている意味がねェ」

あとは適当にやっとけ、と暗褐色の籠手に覆われた左手を振って、続く鬼灯の非難の言葉を打ち払う。
何を言おうが感知しない構えの相棒に、これ以上の掛け合いは不可能で不毛な事と判断したのだろう。
眉間に深い皺を作って、すみませんウロモチさん、と気苦労の絶えなさそうな少年は深い深いため息を吐いた。

「何度言おうが、何と言おうが、誰に対してもあの調子なんです。
 気を悪くしないで下さいね」

鬼灯が動く度に、ふわりと金木犀とは別の、甘く、涼やかな香りが漂う。

手を入れている風にも見えない黒髪。
大きく厚いレンズの眼鏡。

洒落っ気のなさそうな外見に似合わず、香水でも付けているのだろうかと哉太は思った。

「いや、別に良いよ。
 それより、あの女は何なのか、教えてほしいんだけど」

鬼灯は、了解の印に肯いた。

承知のジェスチャーの直後、目を閉じた鬼灯は息を深く吸う。
覗く眼鏡の向こうの黒は、ゆるり、細められている。
何か、此処には無い何かを見る様な焦点の合わない視線が、哉太の向こう側に注がれた気がした。

絶対に見えるはずの無い、薄い脂肪の下にある内蔵や、感情、思考まで彼の目には映るのではないかとありえない空想が生まれる。
居心地が悪い。

「なぁ、どうしたんだよ?」

ぱちん。
妙な感覚は、不意に途切れた。

不信感がふんだんに乗った声に、完全に開いた目が、哉太を捕らえる。

「ごめんなさい、あまり、たくさんの人に話していい話ではないんです。
 だから、少し調べさせて頂きました。
 やっぱり貴方は彼女の虚持ちですね」

鬼灯は少し、残念そうに笑った。

「おれは哉太。里中哉太だよ。ウロモチなんて名前じゃない」
「そうですね、失礼しました、里中さん。
 虚持ちと言うのは僕たちが鬼を産み出した虚を持つ人を呼ぶ言葉で、名前じゃないんです」

何処から話せば理解しやすいかなぁと、鬼灯は顎に手を当てて暫しの思考をする。
眼差しは真剣そのもので、身構えた哉太は前に息を吸い込んだ。

「まずは、あなたのそのままの『認識』を、知った方がいいかも知れませんね」

地面と睨みあいをしていた鬼灯の顔が上がる。

「あなたは、幽霊を信じますか?」
「は?」

思わず頓狂な声が漏れた。

先ほどの体験についてあれこれ教えてもらえると思っていたのに。
哉太は思わぬ質問に面食らった。

鬼灯は慌てたように付け加える。

「あ、幽霊じゃなくても、八百万の神々とか、妖怪なんかでも結構です」

見当違いなつけ足しに、哉太は眉をひそめて首をかしげた。
それでも、律儀に問いに答える。

「ついさっきまでそんなオカルトな存在は居ないって思ってた。
 けど、あんな事があると、本当はどうなのか分からなくなるな。
 自分の眼は信じる主義だけど…さっきのは冷静に考えるとマジック染みてる」

そうは言ったものの、哉太は銀杏を仰ぎ見た。

枝の上の龍神と名乗った男は高いびきを夕闇に響かせている。
彼は何時の間にか鳥居の上に居て、哉太の目の前であの枝に飛び移ったのだ。
実体ならばあんなに身軽な事が出来るのだろうか。

考えれば考えるほど、分からなくなる。

「それが、あなたの『認識』ですね」

それでは少し隠れた現実について説明しましょうか、と、呟くように口にして鬼灯も銀杏を見上げた。

「この世は、『ウツツ』と『ナバリ』と言う二つの異なる世界が重なり合って構成されています。
 現は僕たちが見て、触って、感じている世界なんですが、隠は違います。
 いわゆる彼岸、オカルト的なモノたちの住む場所なんです。
 そして、何らかの理由で、どちらの世界にも跨って存在出来てしまった隠のものを僕らは鬼と呼びます。
 現代日本において、鬼と言えば角に虎のパンツ、赤や青の体の強面をした妖怪を想像しますが、元々の意味は違います。
 隠れると言う意味のオンが転じて鬼になった。
 このオンは、幽霊や妖怪などの胡乱なもの差す言葉だったんです」

鬼灯は木の棒を拾い上げて、地面に簡単な絵を描いた。
棒が通った後には苔生した地面が剥がされ、茶色の地肌がむき出しになっている。

「これ、何だと思いますか」

哉太に問いを投げかけながら、鬼灯は絵の上から自分の影を追い払った。
上手いのか下手なのか判らないコケの上の絵は、持ち手が奇妙に装飾的なグラスの様に見る。

「グラス、かな」

取り敢えず、思った事を口にした。
哉太の答えに鬼灯が笑む。

「里中さんには、そう見えましたか」
「そう見えたってなんだよ」

トンと、鬼灯の握った棒切れが絵を叩く。

「実はこれ、グラスであってグラスではない。騙し絵なんです」
「騙し絵?」
「はい、見方によってもう一つの絵柄に変わるんです」

哉太は影が落ちない程度に身を乗り出して、その絵を凝視する。
角度を変え、向きを変えて見てみるが、その絵は手の込んだ柄のグラスでしかない。
鬼灯の言うもう一つの絵柄は見えてこなかった。

やたらと移動を繰り返す哉太に鬼灯が声をかける。

「里中さん、元の位置に戻ってみて下さい」

そう言うと絵の周りを横長の正方形枠で囲い込み、グラスの外側、背景に当たる部分の苔を全て剥がしてしまう。

「この黒い部分を見て下さい」

言われた通り、剥き出しにされた地面に視線を送る。
まだ、グラスの絵だ。

「これは、『向き合った二人の人間の横顔』です」

向き合った二人の人間。

言葉を聞いて、もう一度見てみる。
瞬間、粗雑な絵は二人の人間の横顔を模した影に変わった。
急に回路が繋がったかの様なスッとした感覚が湧く。

「見えた!」

哉太の歓声に鬼灯が嬉しそうに微笑んだ。

「一つの絵なのに、二つの絵を内包する騙し絵。
 これが、この世界の姿なんです。
 簡単に見えるグラスが現だとすると、向き合う二人は隠。
 普通の感覚を持った人にはこの隠を見る事は難しい。
 二つの世界は重なり合っているが故に、存在感の薄い隠は見難いんです」

ここまでは大丈夫ですか?と鬼灯が小首を傾げる。
頷き返すと、再び風変わりな少年による講義が再開される。

「第六感や霊感と呼ばれる超感覚を持った人たちは、この二つの世界双方を感知する事が出来る。
 でも、実はこの超感覚は誰にでもあるんです。
 無いのは、隠の存在を解析する力だけ。
 認識する、と言うのは、感覚器官が得た情報を、脳が解析して初めて成立するんです」

鬼灯はまた一つ、地面に絵を描く。
どうやらそれは、目と耳、そして脳を簡略化した物のようだった。
そして、目と脳、耳と脳をそれぞれ一本の線で繋いでいく。

「僕が行ったのは、こう言うことです。
 言葉には魂が宿る。
 これを『コトダマ』と呼びます。
 言霊は世界を変質させ、現実に影響を与えることさえある。
 使いようによっては、隠を見せることだって出来るんです」
「…これからずっと?」

哉太は戸惑った。
いないと思えばこそ、幽霊や妖怪は怖くない。
だが、しっかりと視認した上でもまだ、恐れないほどの鈍感さは、哉太は持っていなかった。

「心配しなくても大丈夫ですよ」

言うが早いか、ひゅんと、鬼灯が抜き打ちで刀を振り下ろす。

「ほら、もう見えなくなった」

哉太は再び視線を銀杏の大枝に流したが、確かに、鬼灯の言う通りだった。
寝息は微かに聞こえてくるのに、龍神の姿はどこにもない。
しかしそこで、疑問が生じる。

「口裂け女も鬼ってやつなんだろ?
 でも、おれはあんたの言葉を聞く前に口裂け女の姿を見たし、声も聞いた。
 それどころか、あのままでいたら、おれは怪談通り、殺されていたんじゃないか?」

口にすると、それが紛れもない事実である気がして、悪寒が背を駆ける。
鬼灯はゆっくり首を縦に振る。
そうして、地面の絵に二つの眼を書き加えた。

「これで、何処からどう見ても、『向き合う二人』になった。
 見る人の意識が、現よりも隠に向いたからです」

鬼灯は一度、言葉を切る。

「この世は騙し絵、鬼と虚もまた、然り。
 世界と言う大きな騙し絵の中に描かれた小さな騙し絵の虚に様々な尾ひれがついて鬼の姿に変わる。
 怪談話に伴う恐怖が、もしかしたら本当かもしれないと恐れる気持が、鬼を強くさせる。
 そして、元になる虚を生んだ人物を僕たちは虚持ちと呼ぶんです」

理解が追いつかず、哉太の眉が寄る。

「里中さん、貴方は僕が示すまでこの絵は『グラス』の絵であって、『向き合う二人』の絵とは思えなかった。
 けれど、僕は初めから『向き合う二人』に見えていた」

どうしてだと思いますか、と真っ直ぐに視線を合わせて問われる。

「それは、僕が元々、それを『知っていた』から。
 あなたは虚持ち、だから口裂け女になる前が何であるか知っているはずです。
 だから、見えた」
「おれは――おれは知らない!」

哉太は怒鳴りながら立ち上がった。
拍子に転がった飲みかけの缶コーヒーが転がる。
本来はこげ茶色をしているだろうその液体は、すっかり夜の装いに変わった世界の中で、敷石に黒い帯を引いていた。

吹き抜ける風に、さわさわと笹の葉が戦いでいる。
龍の顔を模った手水の水道から、ぽたりぽたりと水が滴り落ちていた。

黒の少年が、沈黙を破る。

「いいえ、知っているんです。
 認めたくなくても、知らないと思い込んでも。
 あなたは、口裂け女の元になった虚を知っているんです」

声は、どこまでも静かで、そして、穏やかだった。

「鬼の餌はそこに在る力。
 『存在感』と言い換えてもいいかも知れません。
 『存在感』は、見難い隠よりも常に認識されている現が強い。
 だから、鬼はわざわざ現に浸食し、獲物を攫う。
 貴方を隠に引きずり込んだようにして。
 そして、鬼に喰われた存在は、『無かったこと』になってしまう」
「…どうすれば、おれは喰われずに済むんだ?」

哉太の問い掛けに、鬼灯はまた笑う。

「貴方の描いた虚が何なのか、それを思い出して下さい」

そこで、哉太の記憶はふつりと途絶えた。


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