誰かの声が聞こえた。

背筋が、ぞわりと泡立つ。
身体の奥底から寒さを覚えるような、そんな声だった。

うっそうと茂る森の木々はざわざわと、東からの風に揺れている。
頭上高く、ぽっかりと空いた葉の隙間、覗く空は青い。
対照的に、降り注ぐ陽光は徐々に赤みを増し始めていた。

木陰の薄闇は、どんどんと濃度を増しつつある。
いつの間にか、森は、人が身を隠すのに、調度よい時刻になりつつあった。

言い知れぬ不安が、胸を襲う。

信乃は、背後に広がっている、ぽかりと忘れられたように開けた場所に向き直った。
剣の稽古用にと、ぼろ布が巻きつけられた木の幹は、背中を守る盾に変る。
村を背に、村を守るように、信乃は木々に対峙した。

ここは関東、武蔵国。
その中に位置する大塚村に隣した、里山の深くである。
立ち入るものなど滅多にいない。

「与四朗」

信乃は、鋭く愛犬の名を呼ぶ。

先ほどまで、のんびりと午眠を楽しんでいた愛犬は、既にその身を起していた。
信乃の腰ほどもある大きな犬は、すらりとした体躯を揺らし、傍らに寄り添う。
移動の間も、黒い眼は、木立の間を鋭く睨みつけていた。

信乃は、ぐいとタスキを締める。
ぴりりと、張り詰めた午後の空気に、気圧されている。

頭を過るのは、現在の世情だった。

先に起こった戦乱以降、幕府の力は衰退の一途をたどっている。

京は室町に居を置く足利将軍の相続問題に端を発した、後に応仁の乱と呼ばれるこの戦乱は、幕府の力を二分し、そして疲弊させた。
幕府の支配力の低下に、いち早く気が付いたのは、西国に根を張る土着の武士たちである。
支配権力の間隙を突くように、己が領土に対する支配力を強め、また他国の支配権を得ようと動き出した。

戦が、起きた。

大きな合戦も、小さな小競り合いもあったが、戦いは止むことなく続き、世は乱れた。

初めは西国のみを騒がせた不穏の気配は、今も拡大を続ている。
争いの芽は蔓延り、ついには東国をも巻き込み、飲み込もうとしていた。
小さな、トンボの背と称された島国が、蠕動を始めていた。

数日前、この大塚村の近くでも、小さいながら戦があったことは、信乃の耳にも届いている。

戦に駆り出され、敗れた武士は、敗走する。
食べ物も、戦で負った手傷の治療も出来ぬまま、命からがら戦場から逃げ延びる。
何の物資も持たぬまま、敵の追撃や味方の追っ手に怯えながら、逃げるのだ。

そんな輩が潜んでいても、おかしくは無いほどに里山の緑は濃い。

追手を撒くために、隠れているのなら構わない。
でも、大塚村に危害を加えるつもりならば。

(ここで、止めるしかない)

木刀を握る手に、さらに力がこもる。

落ち武者が、戦場から逃げ落ちる道すがら、薬や食料を求めて周辺の村を襲う。
残念ながら、よくある出来事の一つだ。

現実に、数ヶ月前にも起こった小さな合戦の後、数人の落ち武者と思しき風体のゴロツキが、大塚村を襲った。
同じことが、起きようとしているのかもしれない。

ゆっくりと肺に息を送り、自分自身に言い聞かせる。

(私は、強い)

微かに揺れる膝は、無視することにする。
怯えている場合ではないのだ。

自分は、村を守らなくてはならないのだから。

京の都、室町の足利将軍家が、武士の頭、征夷大将軍としての力をまだ有していた時代のことである。
鎌倉公方・足利持氏が、幕府に対する反乱を起こした。

幕府は、持氏の家臣である関東管領・上杉憲実に、持氏を討つことを命じ、京からも大軍を差し向けた。

この戦に、鎌倉公方・足利持氏が負けたことから全ては始まる。
敗軍の将である持氏は、その長男と共に切腹となった。

しかし、持氏には他に幼い二人の息子がいた。
この二人、春王丸と安王丸は幕府軍の手から下総へ逃れたが、討伐軍はさらにその後を追った。

下総の結城を治める結城氏朝は、春王丸、安王丸兄弟を結城城に迎え入れ、関東の武士たちに号令を掛けた。
共に討伐軍を迎え撃とう、と。
求めに応じた武士たちも結城城に集まり、幕府軍を迎えての籠城戦になった。

戦は、三年もの長きに渡り続いた。
だが、燃え盛る結城城はついに落城し、結城の一族を始めとした武士のほとんどが死んだ。
信乃の祖父・大塚匠作もこの落城で命を落としている。

だが、父の番作は片足が動かなくなるほどの大怪我を負いながらも、生き残った。
そうして、母を連れ、父の匠作が村長を務め、自分自身も生まれ育った大塚村に帰って来たのである。

亡き父に託された、宝刀『村雨丸』を持って。

番作は、「大塚」の名を捨て、今は「犬塚」を名乗っている。
匠作、番作親子の不在の間に、「大塚」を継ぎ、村長の座に収まった姉夫婦を慮っての行動だ。

本来なら、村長の座は番作のものである。
争いを避けて村の片隅で暮らすことを決めた番作の行動を、ふぐり無しと、嘲る者もいる。
死に損ないと、落ち武者と罵る者もいる。

だが、どんな言葉を浴びせられようとも、全てを受け止めてなお、凛と背筋を伸ばし、前を見据える父は武士だ。
戦で討ち死にを遂げた匠作よりも誇り高い武士なのだと信乃は思っている。

(私は、武士の血を引いている。
 …私だって、武士の子なんだ)

言い聞かせて、赤く暮れゆく里山の黄昏を見つめていた。

風が、止まない。
流れに身を任せたまま、木々はその葉を揺らし続ける。
不安を掻き立てる、胸騒ぎのする風だった。

滑り止めにと柄に巻いた古い着物の切れはしが、汗を吸いこんで湿る。
背中を、冷たい汗が伝った。

与四朗が、低く唸り声を上げ始めている。
敵は近い。
ざわざわ、ざわざわと草のざわめく音が反響する。
何処から聞こえて来るのかも、分からない。

神経を逆なでされ、落ち着かなくなる。

落ち武者などでは、無い。

何かがいる。
何か、もっと良くないものが、確かにいる。

口の中が、どろりとネバついた。

「信乃さま?」

サクリと、草を踏みしめる音が背中に聞こえた。

信乃は、弾かれた様に、身体を反転させる。
高く結った長い総髪が翻り、草履を履いた足が地面を噛んで小石が鳴いた。
背後に迫った人間に切っ先を向け、眼光鋭く睨み付ける。

いつでも、一手を放てる状態だ。
信乃の鼓動は速度を上げる。

切っ先を突き付けられて、体を強張らせた人物の顔は、見知ったものだった。
一気に緊張感が消る。
脱力した信乃は、地面に屈みこんだ。

「浜路か、驚かせるなよ…」

言葉と同時に、肺にためていた空気が一気に抜けていく。

「まぁ、御挨拶ですね。
 お化けでも見たような顔をして」

信乃の反応に少しむくれたような表情を見せた、いい少女は、名を大塚浜路と言う。
長い髪を桜色の結い紐で束ねた彼女は、信乃の伯母夫婦の養子である。
血が繋がらないながら、信乃の従妹に当たる。

だが、言葉を交わすようになったのはここ数年だ。
伯母夫婦は、信乃たち親子を嫌い、浜路にも近づくなと言いつけていたからだ。

それは、今も変わらない。
しかし、当の浜路はそんな話はどこ吹く風で、2つ程年が上の信乃を姉のように慕っていた。

どうやら、今日もこっそりと村を離れた信乃の居場所にあたりを付けて、ここまでやって来たようだった。

「何か、あったんですか?」

草履を履いた足が、目の前までやって来る。
桜貝の様な足の爪が、地面に落ちた信乃の視界に入ったかと思うと、同じように座り込んだ。
二人の目線が、同じ高さになる。

立ち上がらない信乃の顔を覗き込み、浜路は心配そうな顔をした。

「信乃さまも与四朗も、今日はボウっとしているみたい。
 私が真後ろに来るまで気付かなかったなんて、おかしいわ」

言いながら、浜路は森に蔓延る雑草を見回した。
顔を上げた信乃も、首を巡らして、注意深く周辺の様子を探る。

風はさわさわと低木の葉を揺らし、赤く染まり始めた陽光はさんさんと降り注いでいる。
薄闇は段々と濃度を増し、里山に一足早い夜を招き入れようとしていた。
広がるのは、何のことは無い、いつもの情景だった。

不安の跡は、もう何処にも見当たらない。

「いや…何にもないよ」

世間の不穏な空気に当てられて、神経過敏になっていたのだろうか。

足元に控えたままだった与四朗が、照れ隠しの様に大きく欠伸をする。
大犬の身体中に満ちていた緊張感が、なりを潜めて行くのが分かった。

そして、浜路に一瞥をくれると、先ほどまで居た木漏れ日の中に戻り、ごろりと腹を見せて横たわる。
腹を掻いてくれと言う要求に、仕方ないなぁと笑って、浜路は与四朗の白い腹を撫で始めた。

与四朗は、白地に大きな黒い斑の入った、珍しい模様の犬である。
信乃の生まれる一年ほど前に、今は亡き母の手束が子の里山の中で拾ったと聞いている。

頭のいい犬で、人の言うことを良く理解する。
そのせいか、信乃たち親子に害を及ぼす者には、敏感に反応した。
伯母の亀篠を見れば唸り、村のゴロツキが信乃に絡めば間に割って入ってくる。

その与四朗が、浜路には腹を見せて寛いでいる。
浜路が、楽しそうに笑っている。
信乃の顔にも、自然に笑みが浮かんだ。

(あんなクソ婆に育てられて、よくこんな風に育ったよなぁ)

驚きとも呆れともつかない感想を抱きながら、信乃は戯れる従妹と愛犬を眺めていた。

しかし、はたと気付く。
気付いた事実は、信乃の表情を険しいものに変えた。

「浜路、お前もしかして一人でここまで来たのか?」
「ええ。
 だって、信乃さまの所に行くなんて言ったら、家の者は皆、いい顔をしないもの。
 それどころか、私とお母さまの間で板挟みになって、可哀想だわ」

浜路は、優しい。
一人でやって来たのは、其れゆえの行動とは分かっていても、浜路の行動は危険すぎる。

信乃は語気を強めた。

「この間、村に来たゴロツキ共に連れ去られ掛けただろう。
 こんな村も外れ、何がいるか分からない山の中に一人で来たら、危ないじゃないか!」

村長の養女だけあって、浜路の服は上等な物が多い。
対して裕福ではない村で、その鮮やかな色は華やかに、酷く目立った。
そして、浜路は見目もいい。

村に侵入したゴロツキ達は、そんな浜路を浚い、身代金を取ろうとしたのか、売り払おうとしたのか。

正確なことなど分からないし、知りたくも無い。
ただ浜路が連れ去られかけたのは、紛れも無い事実だった。

「それを言ったら、信乃さまだって危ないではないですか」

浜路の黒い瞳が立ちあがった信乃を真っ直ぐに見上げる。

「信乃さまだって女子なのですから」

諭すような浜路の言葉に、信乃は、何も言えなくなってしまった。

長い髪をつむじで総髪に結い、着物に袴、腰には木刀を差したその姿は、どこからどう見ても若武者であり、それを疑う者など居ない。
だが、信乃は女だ。
紛うこと無く女だった。

今は亡き信乃の母・手束は体の弱い女だった。
結婚後、子宝に恵まれない日々を過ごし、やっと身ごもったのが信乃である。

そんな信乃も、生まれてすぐに死にかけた。
原因不明の熱にうなされ、生まれて間もない命を擦り減らしたのである。

今にも死にそうな娘を助けたいと、父母は祈った。

昔から、成人を迎えるまでの間、性別を違えて育てると子どもは丈夫に育つと言われている。
その風習に則って、信乃は男として育てられることになったのだ。

言いつけが遺言となった今でも、信乃は男の姿で通している。
村人たちも、信乃が女であることは知っている。

だが、幼少期から信乃の好きなことと言えば、木登り、チャンバラ、与四朗を馬に見立てての乗馬の真似事だ。
年上のガキ大将にも平気で向かっていく負けん気の強さも、手伝って、信乃を女扱いする者は少ない。

「大丈夫だよ。
 私は浜路と違って武芸が出来る。
 これでも、腕は立つんだぞ。
 この間のゴロツキ共だって、私がのしたのを、見ていただろう?」
「…いいえ、信乃さま。
 そう言うことを言っている訳ではないのです」

さらさらと流れた浜路の黒髪が陽光に反射する。
白い肌が、綺麗だと思った。
鮮やかな着物が、羨ましく感じたのは遠い昔で。

信乃は、どんな顔をしていいか分からずに、空を見上げた。

その視界の隅で、羽音も荒く、ムクドリの群れが飛び立つ。

ピクリと、与四朗が耳を立てた。
何かを知覚したらしく、起き上がると大塚村から里山の中の広場に続くけもの道に立ちふさがる。
しかし、表情からは緊迫感が見られなかった。

ざかざかと近づいて来る足音。

信乃が、けもの道を見据えると、木立の隙間から人影が現れた。
薄い木綿の古びた着物を着た、細い手足と体躯が、草むらを掻きわけて進んで来る。
顔の輪郭を縁取る線は、まだ、丸く幼い。

「あら、額蔵」

信乃の背後からひょこりと顔を出した浜路が、焦ったように男の名を呼ぶ。
足元の草や頭上の枝に気を取られていた額蔵が、顔を上げて、信乃と浜路を認めた。

「やっぱり、ここにいらしたんですね、浜路さま。
 お姿が見えないので、探してしまいました」

草や低木を掻き分けながら、情けなく眉を下げた額蔵は、困った様に笑った。

額蔵は、大塚家で下働きをしている男である。
信乃の記憶が確かなら、手束が亡くなる2年ほど前に、突然大塚村に現れた。
小さいながら村長家の使い走りをこなし、今では炊事場から浜路のお目付け役兼護衛まで、その仕事は多岐に渡る。

亀篠の懐刀、とは言えずとも、それに近い立場であると、信乃は推測していた。
信用できる人物ではない。

信乃は、ムスリと表情を歪めた。

「あのね、少し散歩をしようと思っていたの。
 そうしたら、信乃さまが鍛錬をしている音が聞こえて…」

こんな山深い場所での剣の音が、村にまで届くはずがない。
浜路のいい訳は苦しかった。

額蔵はまた眉尻を下げて笑う。

「分かりましたから、今日はもう帰りましょう。
 日も、すぐに暮れてしまいますから」

山歩きは慣れて居るはずなのに、その足取りは酷く遅い。
草を踏みつけながら歩いているようだった。

開けた場所に出ると、与四朗の傍らを通って信乃たちの正面まで歩いて来る。
与四朗は、唸り声一つ上げなかった。
威嚇するほどの相手ではないと思っているのだろう。

「そうするわ」

叱られる訳ではないと察した浜路が、額蔵を見上げて笑った。。

額蔵は、浜路よりも頭一つ分、信乃よりも頭半個分背が高い。
二度目の急成長が始まったのか、ひよろひょろと縦ばかりが伸びた身体は、ひどく頼りなかった。

うなじで纏めた短い髪の尾を揺らして、額蔵は信乃に向き直る。

「信乃さんも、稽古はもうこの辺りにして、一緒に帰りましょう?
 すぐに夕餉の時刻ですよ、きっと番作さまも待っておられるでしょうから」


  『額蔵と一緒なんて、嫌だ』
  『分かった、一緒に帰る』